内村鑑三 創世記 アベル族とカイン族

アベル族とカイン族    大正11410日『聖書之研究』261号署名内村
 
アベル族とカイン族
信者に二種ある、アベル型の信者とカイン型の信者と是れである、
 
アベル型の信者とは創世記四章に於〔おい〕て示さるゝが如〔ごと〕くに羊の初生(うひご)を供物(そなへもの)としてヱホバに献ぐる者である、
 
カイン型の信者とは土を耕(たがや)して其産を献ぐる者である、
 
羊か土の産か、之に由て信者の神に対する態度が定(きま)るのである、羊は神が定め給ひし犠牲(いけにへ)であつて、土(つち)の産(さん)は人が選みし供物(くもつ)である、羊は代贖を意味し、土より出たる果は己が義を代表する、アベルは神の規定(さだめ)にしたがひ、自己の罪を認め、之を羊の躯(からだ)に託して燔祭(はんさい)の供物として神に献げたのである、カインは神の規定を省みず、己が義しと信ずる所に由り、己が手にて作りし物を携来(もちきた)り、神に報ゆるの心を以て之を献げたのである、然るに「ヱホバはアベルと其供物を看顧(かえりみ)たまひしかども、カインと其供物を眷(かあえり)み給はざりき」と云ふ。
 
信者は神に何物をか献げなくてはならない、然れども何を献ぐべき乎は最大の注意を要する問題である、「神の要求(もと)め給ふ祭物(そなへもの)は砕けたる霊魂(たましい)なり」である(詩篇五十一篇十七節)、故に祭物は此霊魂を代表するものでなくてはならない、砕けたる霊魂(たましい)、自己に何の善き事をも認めずして、「噫(ああ)我れ苦困(なやめ)る人なる我、此罪の体(からだ)より我を救はん者は誰ぞや」と叫ぶ心、此心を代表する者が羊である、燬尽(やきつく)す正義の神の前に己が身を投出(なげだ)して其赦(ゆる)しを乞〔こ〕ふの態度は最も明白に羊の初生(ういご)の犠牲(いけにへ)に於て現はるゝのである、アベルに此心があつた、カインに此心がなかつた、カインに有つたものは義務の観念、責任の観念、奉仕の観念であつた、是れ勿論貴き観念であつたが、最も貴き観念でなかつた神はアベルに於て自己を虚(むなし)うするの心、カインに於て己が義以上に義を求めざるの心を認め給ふた、故にアベルを悦びカインを眷(かえり)み給はなかつたのである。
 
今の世に於てもアベル型の信者とカイン型の信者とがある
 
今やアベルの献(ささ)ぐる祭物(ささげもの)は獣(けもの)の羊ではなくして世の罪を任(お)ふ神の羔(こひつじ)である、アベルは毎日此供物を献(ささ)ぐる、彼の義はすべて其上に在る、彼はカインの如くに己が耕(たがや)せし土の産を以て神に近づかんとしない、羔(こひつじ)イエスは神が彼の為に立たまひし義また聖また贖である、羔(こひつじ)イエスアベルのすべては之を以て尽きて居る彼は之を以て神に到り神は之に由りて彼に臨み給ふ、イエスに在りて神と人との間に完全なる交通が行はれる、而(しか)してアベル型の信者はすべて此一個の羔(こひつじ)に由りて神に事(つか)へ、彼に在りて一体となり、彼を通うして相愛し、相交はる。
 
カイン型の信者は之と異なる、彼等は彼等の運動努力に由りて成りし改良されたる社会と改造されたる世界とを神に献げて其嘉納に与(あず)からんとする、彼等は羔イエスの行為に傚(なら)はんとするも、其死を彼等の代贖的犠牲と認めない、而已〔のみ〕ならず斯(か)く認むるを迷信なり、猶太(ユダヤ)的思想の遺物なりと称(とな)へて嘲(あざ)けり笑ふ、其意味に於て今も猶(な)ほカインはアベルを殺しつゝある、然れども勝利はやはりアベルに帰するであらう、羔の血は終(つい)に世に勝つであらう、「我等の兄弟は羔の血に由りて勝てり」と記され(黙示録十二章十一節)、又「曩(さき)に殺されたりし羔は能力、尊敬、栄光、讃美を受くべき者なり」と録(しる)さる、我等の惟一の祭物(ささげもの)は我が砕けたる霊魂(たましいひ)の代表なる神の羔イエスである。