内村鑑三 マタイ伝 33講 信者と蓄財

33 マタイ伝
 
信者と蓄財
三月八日、今井舘附属柏木聖書講堂に於ける講演の一部分
大正3510 『聖書之研究』166     署名なし
 
信者は財産を作つてはならない乎? (ひん)は彼が択(えら)んで居るべき境遇である乎? 蓄財(ちくざい)は彼に取り罪悪である乎?
是れ真面目なる信者に屡々(しば〳〵)起る問題である、此問題に就てイエスは教へて曰ひ給ふた、汝等地に財()(たから)を蓄ふ(積む)勿(なか)れ
と、財は宝(たから)である、而(しか)して財産は必しも宝ではないのである、神は義人ヨブに報ゆるに多くの財産(ざいさん)を以てし給ふた、
ヱホバ、ヨブを恵みて其終(おわり)を初(はじめ)よりも善(よく)し給へり、即(すなわ)ち彼は綿羊(っひつじ)一万四千匹、駱駝(らくだ)六千匹、牛一千耦(くびき)、牝驢(めろば)馬一千匹を有(もて)りとある(約百(ヨブ)記四十二章十二節)、神が信仰の報賞(むくい)として賜ひしものが悪(あく)でありやう筈はない、又謙遜とヱホバを畏るゝことゝの報(むくい)は富(とみ)と尊貴(とうとき)と生命(いのち)となりとある( 箴言(しんげん)廿二章四節)、又イエス御自身が山上に此教訓を垂(あた)れらるゝに方りて曰ひ給ふた、柔和(にうわ)なる者は福(さいわ)ひなり、其人は地を嗣(つ)ぐことを得べければ也と(五章五節)、如斯〔かくのごと〕くにして富(財産)其物の罪悪でない事は聖書全体の明かに示す所である。
エスの誡(いまし)め給ふた者は財産ではない、宝(たから)である、而して財産は必しも宝(たから)でないのである、宝とは人が其中に心を置く物である、即ち彼が茲〔ここ〕に蓋(そは)汝等の財の在る所に心も亦(また)在るべければ也と言ひ給ひしが如く、人が其心を置く所の物、其物が彼に取り宝(たから)となり、又宝であるのである、人が其心を財産に置くにあたって、財産が彼の宝となるのである、勿論財産は大なる誘惑である、之を有(もつ)て人は之に己が心を置き易くある、然し乍(なが)ら、是れ財産其物の罪ではない、之を宝となす者の罪である、世には財産を有(もつ)も之を宝と見做(みな)さない者の無いではない、ヂオーヂ・ピーボデー又はアンドリュー・カーネギーの如きは其例である、彼等は鉅万〔きよまん〕の財産を有して其中に彼等の心を置かなかつた、彼等は財産を支配して、財産は彼等を支配しなかつた、彼等は宝を財産以外の者に求めた、彼等は財産を有した、然れども地に宝を積まなかつた。
エスの禁じ給ひしものゝ何であるかを知りて所謂〔いわゆる〕蓄財に関する彼の教訓を解するに難くない、
 
蠹(しみ)喰ひ、銹(くさび)蝕(くさ)り、盗(ぬす)人穿(うがち)て窃(ぬす)む所の地に財を蓄ふる勿(なか)れ、蠹喰はず、銹蝕らず、盗人穿ちて窃まざる所の天
に財を蓄ふべし、蓋(そは)汝等の財の在る所に心も在るべければ也、とある(六章十九―廿一節)、イエスは宝を蓄ふることを禁じ給はなかつた、彼は唯〔ただ〕之を地に蓄ふることを誡め給ふたのである、而して地は宝を蓄ふべき所ではない、家と衣(ころも)とは蠹喰ふ所となり、鉄と銅と金と銀と、其他すべて金属製の物は、蠹は喰はずと雖〔いえど〕も銹びて蝕(くさ)る、而して偶然(たま〳〵)蠹も喰はず銹び蝕りも為ないものがあるとすれば、其物は盗人の窃む所となる、所謂社会道徳の進歩も以て盗人を絶つに足りない、今や金庫製造の技術は其極緻(きょくち)に達したりと称せらるゝも、之を破るの技術も亦之に循(じゅん)じて進んで居る酸素が液化せられてより、之を用ひて焼断(やきき)ることの出来ない鉄板とては無いとのことである、文明進歩の今日と雖も此地は決して安全なる所ではない、此地に産を蓄へ、宝として之に頼(たよ)りて何人も失望せざるを得ない、旧(ふる)き伝道者の言は第二十世紀の今日、民法世襲財産法との殆(ほと)んど完全に達せし今日に方(あた)りても、其正鵠(せいこ)を失はないのである、即ち、
我れ観るに日の下に一の患(うれひ)あり、是は人の間に常にある事なり、即ち神、富(とみ)と財(たから)と貴(とうとき)とを人に与へて其心に慕ふものを一として之に欠(かく)ることなからしめ給ひながらも、神また其人に之を食ふことを得せしめ給はずして他人の之を食ふことあり、是れ空なり、悪しき疾(やまい)なりと(伝道之書六章一、二節)、宝(たから)は之を此地に積むも詮(せん)がない、地其物が腐る者、朽る者、銹(さび)る者である、而して罪人の其中に横行するありて我等が永久に安全なることは無いのである、故に財産は神より之を賜はりて依托物(いたくぶつ)として之を預かることありと雖も、我宝として之を所有(もつ)べきで無い、宝(たから)は之を天に積むべきである、地は失するも失せざる天に積むべきである。
注意せよ、宝(たから)は多少に由らない、多き財産も之に心を置かざれば宝となりて我等を縛らない些少(すこし)の物も之に心を置けば宝となりて我等を束縛(そくばく)する、人の地的なると否なとは其人の所有の多少に由らない、僅少(わずか)の物に縋(すが)りて地に着く者がある、多くの産を与へられて之に頓着せざる者がある、慎(つつし)むべきは所有物の多少ではない、之に対して採るべき心の態度である、而して産を与へられて其束縛を蒙(こうむ)らざらんと欲せば、イエスの霊を我(わが)霊に迎(むか)へ
て、彼の支配する所となるの唯一途があるのみである、我れ言ふ汝等聖霊に由りて行むべし、然らば肉の欲を成すこと莫らんとパウロは言ふた、此世の財産に対して信者の取るべき態度は此一言を以て尽きて居ると思ふ(加拉太〔ガラテヤ〕書五章十六節)。
 
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 羽田飛行場が大きくなった.よってゲ-トに行くのに偉い距離を歩かされるようになった。そこで登場したのがこの電気自動車、アメリカなどでは以前からあったが、今回羽田で始めて利用させて貰った。
歳を取ると言うことがこうゆう事だったと知ったときは遅かったです。