内村鑑三 マタイ伝 32講(31講ーその2)主祷の一節 (2)

32 マタイ伝―(31講-その2)
 
主祷の一節 (2
明治401110日『聖書之研究』93号「研究」  署名内村鑑三
 
 
「我儕を試誘に陥(おちいら)しめず、悪魔より拯出し給へ」と、然し原語の聖書に於ては二句の間にalla なる接続詞が加へてある、日本訳には除いてあるが然し是れは看過(みすご)すべからざる詞である、是を此場合に於ては「更らに進んで」と訳すが当然であらふと思ふ、「我儕を試誘に陥らしめ給はざるに止まらず、更らに進んで我等を悪魔の手より拯出し給へ」と、「試誘(こゝろみ)に陥らしめ給はず」とは此祈願の消極的半面であつて、「悪魔の手より救出し給へ」とは其積極的半面である、悪を避くるにては足らない、之を根本的に絶つべきである、キリストの此祈祷の一言に悪に関するすべての祈願が含まれてある。
序〔ついで〕に言ふて置くが、馬太伝五章三十七節に「汝等たゞ是々(しかり〳〵)、否々と云へ、此より過(すぐ)るは悪より出るなり」とあるは同じく「悪魔より出るなり」と読むべきである、悪魔は弐心者(ふたこゝろのもの)である、曖昧糢糊〔あいまいもこ〕は彼の特性である、彼は何事に関しても是々否々とは断言しない、我等は事を曖昧に附して悪魔の味方を為すのである。
 
 
 
国と権と栄は窮りなく爾の有なれば也
是れ亦〔また〕解するに随分難い言辞である、斯〔か〕かる称讃の辞を祈祷の終に附するの必要があるであらふ乎〔か〕、此一句に就ては聖書学者の中に種々(さま〴〵)の議論がある。
多くの聖書学者は此一句を全然除いて居る、有名なるウエストコツト、ホルト両氏の編纂に成る希臘〔ギリシア〕語聖書には此一句は除いてある、バプテスト教会訳日本文聖書にも是れは除いてある、路加〔ルカ〕伝十一章に伝へられたる主の祈祷の中にも此句は記(しる)されてない、是れ或ひは後世の編纂者が加へた者である乎も知れない、然し至て古い頃より此句が伝つて居つた事は確かである、故に今日之はキリストの言辞でないと断言することは出来ない、或ひはキリストの言辞であつたかも知れない、然し疑はしい。
然し若〔も〕しキリストの言葉であつたとすれば、其意味は何〔ど〕う云ふ事であらふ乎、或ひは又極めて早い頃の信者が之を加へたのであるとすれば彼等は何の意味を以て之を加へたのであらふ乎、何〔いず〕れにするも我等は今日主の祈祷を唱へるに方〔あたつ〕て此一句をも唱へるのは事実である、我等は如何〔いか〕なる意味を以て之を唱へるのであらふ乎。
普通の解釈に依れば是れは主祷全体に附すべき頌歌〔しようか〕であるとのことである、基督者の実験に於ては祈祷と讃美とは区別し難い者であるから、祈祷の終に讃美の附くのは無理ならぬ事である、然し解し難いのは「なれば也」
の結辞である、若し「なれば也」と結んであれば「そは」を以て始まるのが当然である、「そは国と権と栄は云々」と、然し「そは」とは理由を示す辞であつて、其後に来る文字は其前にありし文字の理由を示す者でなければならない、
我儕を試誘に陥らしめ給はず、更らに進んで悪魔より我等を救出し給へ、其故如何となれば国と権と栄は窮(かぎり)なく爾(なんじ)の有なれば也と、斯〔こ〕う成るべきである、而(しか)して爾〔そ〕う見れば「国と権と栄は云々」は主祷全体に関聯して読むべきではなくして、特に試誘と悪魔とに関する祈願の理由として解すべきであることが判明〔わか〕る、我儕は神に向て何故に悪魔の手より我儕を救出し給へと祈るか、如何となれば神は無限の能力を自身に備へ給ふ者にして、彼のみ能く人類の強敵なる悪魔を征服し得れば也と、是が此祈願の意義でなくてはならない。爾うして我等悪魔との経験を有する者は此祈祷の能力(ちから)を充分に感ずるのである、悪魔は悪むべき者であると同時に非常に強い者である、我等何人も悪魔に対しては対等の敵ではない、ルーテルの歌に「夫の古へよりの悪しき者は、今は猛威を悉くして立てり、政権を以て装ひ、邪曲の計を旋(めぐ)らす、世に彼に当る者なし」とあるは善く悪魔の本性を表はした言である、キリストも亦〔また〕悪魔が彼の当(とう)の敵であることを示されて居る、彼が「勇士を先づ
縛らざれば如何で其家に入り、其家具を奪ふことを得んや、彼を縛りて後に其家を奪ふべし」と言はれたのは彼と悪魔との関係に就て言はれたのである(馬太〔マタイ〕伝十二章二十九節)、又「子若〔も〕し汝等に自由を与へなば汝等誠に自由を得べし」との言も此辺の消息を伝へられた者であると思ふ(約翰〔ヨハネ〕伝八章三十六節)、キリストが此世に降られたのは所謂〔いわゆ〕る蛇の首を挫かんためである。茲〔ここ〕に於て主の祈祷の末節の意味が明白になつて来るのである、最後に来るべき天国と、之を建設するの力と、之を完成するの栄光とを具へ給ふ神なれば、彼は能く我等を悪魔の手より拯出し給ふべしとのことである、ルーテルの讃美歌の第二節が能く此意(こころ)を顕はして居る、若し我等の力に頼らば、我等は直〔ただち〕に失はれむ、然れど一人の聖〔きよ〕き者の我等のために戦ふあり。彼れ何人と尋ぬる乎、イエスキリスト其人なり、万軍の神に在して、彼の他に神あるなし、彼、我等と共に戦ふ。(『愛吟』より)
今〔いま〕、聖書とルーテルとの言葉を離れて、我等の生涯の実験に照らして見て、主の教へ給ひし此祈祷の我等に取り最も切なる祈願であることが判かる、我等は自身の計略奮励を以てして到底悪魔に勝つことの出来ないことを知る、悪魔は政権を以てし、腕力、金力を以て我等に臨むばかりではない彼は時と場合に由ては宗教を以てし、道徳を以てし、然り、時には信仰を以て我等に迫る、〔我〕等聖書の言葉を引いて自から守らんとすれば彼も亦聖書の言葉を引いて我等に当る、我等若〔も〕し道念に訴ふれば彼も亦道念に拠て我等を苦める、彼は時には忠孝道徳の背後(うしろ)に隠れ、又正統教会の信仰個条を楯に取りて詰責の矢を我等に向て放つ、実に「世に彼に当る者なし」である、彼は知慧に富み、計策に富み、文を能(よく)し、言語に巧(たくみ)である、ヤンネとヤンブルがモーセに敵(さから)ひしやうにすべての知識と道徳とを弄(ろう)して我等に敵ふ(提摩太〔テモテ〕後書三章八節)。爾うして悪魔の強き所以〔ゆえん〕は彼れ自身の強きにのみ因らない、此世はすべて悪魔の味方である、基督者の言と云へば何にも耳を傾けない此世と此世の教会とは悪魔の言とあれば喜んで之を聴かんとする、悪魔は決して単独で我等を攻めない、必ず世を煽動して之をして我等を攻めしむ、爾うして此世は喜んで彼の使役に応ずる、悪魔は此世全体を提(ひつさ)げて我等に臨む。
人、誰か此敵に勝ち得んやである、彼は時には神学者となりて教会に跋扈〔ばつこ〕する、聖人君子となりて此世を使揮する、骨肉の兄弟となりて我等の身に迫る、悪魔は悪しき霊としてのみ存在しない、智と情との人と成りて我等の間に棲息する、世に所謂〔いわゆ〕る悪漢なるものは多くは此類〔このたぐい〕である、彼等は世に畏れられながら自由に悪事を遂行する。
人、誰か此敵に勝ち得んや、法律に由るも、道徳に由るも、宗教に由るも、彼を征服することは出来ない、彼は誠に斯世の主である(約翰〔ヨハネ〕伝十二章三十一節)、斯世〔このよ〕の中に彼に勝つの力はない。
然かし神は彼に勝つ者を世に遣(おく)り給ふた、彼は国と権(ちから)と栄とを保有し給ふ者であつて、彼而已〔のみ〕は能く斯世の主なる悪魔に勝つことが出来る、我等は彼に頼て我等の大敵に勝つことが出来る、大能者は此世に臨み給ふた、彼而已は悪魔以上の能力と知慧とを具へ給ふ、彼は容易(たやす)く我等を拯出し給ふ。
茲に於て馬太〔マタイ〕伝五章三十九節にある「悪に敵する勿〔なか〕れ」とのキリストの訓誡の意義が一層明瞭に成るのである、
「悪」とは勿論悪者即ち悪魔である、爾うして我等は彼に敵対すべからずとの事である、「悪魔に敵する勿れ、そは爾(なんじ)は彼に勝つ能はざれば也、悪魔は之を爾(なんじ)の神に委〔ゆだ〕ねよ、爾は悪魔に悪を為さしめて彼の滅亡を待てよ」と、是れが此訓誡の精神であると思ふ、悪魔に敵するは善き政策でないのみならず、是れ不可能事である、人は何人も全力を振ふて悪魔に勝つことは出来ない、彼は主イエスが其の口の気を以て滅すべき者である(帖撒羅尼迦〔テサロニケ〕後書二章八節)
我等を試誘に陥らしめず、更らに進んで悪魔より救出し給へ、そは国も権も栄も爾の有なれば也。アメン、実にアメン、我等は日々の悪魔との戦闘に於て絶えず此祈願の声を放たざるを得ない。
 
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