内村鑑三 マタイ伝 41講 祈祷の効力(2)

41 マタイ伝
 
 
祈祷の効力
昭和21210  『聖書之研究』329  署名内村鑑三
○祈祷は聴かるゝか聴かれない乎〔か〕。若〔も〕し聴かるゝならば此〔こ〕んな有難い事はない、若し聴かれないならば此んな心(こゝろ)細(ぼそ)い事はない。祈祷の効力如何〔いかん〕は信仰生活を営むに於て最も大切なる問題である。
 
○聖書は明かに祈祷の聴かるゝ事を教ゆ。
求めよ然〔さ〕らば与へられん、尋ねよ然らば会ひ、門を叩〔たた〕けよ然らば開かるゝ事を得ん。そは凡〔すべ〕て求むる者は得、
尋ぬる者は会ひ、門を叩く者は開かるべければなり(馬太〔マタイ〕伝七章七、八節)
エス答へて彼等に曰ひけるは、我れ誠に汝等に告げん、もし信仰ありて疑はずば、此無花果(いちじく)に於けるが如〔ごと〕きのみならず、此山に命じ此処より移されて海に入れよと云ふとも亦成らん。且汝等信じて祈らば求(ねが)ふ所尽〔ことごと〕く得べし(同廿一章廿一、二節)
 
そして之に類する言〔ことば〕は他に許多(あまた)ある。聖書は神を「祈祷を聴く者」として我等に紹介するのである。
 
○然〔しか〕るに係〔かか〕はらず我等各自は聴れざる祈祷を有つのである。我等が精神を罩(こめ)て祈つた祈祷にして聴かれざる者が尠〔すくな〕くない。此は抑々(そも〳〵)如何なる訳(わけ)である乎。祈祷は果して聴かるゝ者である乎。或は我等の祈り方が悪いのであるか。若し信仰足らざるが故に聴かれないと云ふならば、聴かるゝに足る信仰を有つ者は何処〔どこ〕に居る乎。若し信仰が聴かるゝの条件ならば、我等はパウロと共に言はざるを得ない「誰か之に堪へんや」と(コリント後書二章十六節)。或は主より信仰を要求されて、病める我子を癒〔いや〕されんとてイエスに来りし人と共に言はざるを得ない「主よ我れ信ず、我が信なきを助け給へ」と(馬可〔マルコ〕伝九章二四節)。若し信仰不足の故に私の祈祷が聴かれないならば、聴かれないのが当然であつて、私は私の祈祷の聴かれざるを諦(あきら)むるより他に途〔みち〕がない。神が祈祷を聴き給はずとは信ずる事が出来ない。去りとて私に聴かるゝに足る充分の信仰ありとは如何(どう)しても思へない。然らば如何(どう)したらば可〔よ〕い乎。迷はざるを得ないのである。
 
○勿論〔もちろん〕或る祈祷の聴かれないのは聴かれない方が善いからであるに相違ない。斯〔か〕かる場合に於て聴かれざる祈祷は求めし以上に聴かれし祈祷である。そして私自身の経験に於て斯かる祈祷の尠からずありし事を否〔いな〕む事が出来ない。然れども聴かるべき祈祷であつて聴かれざりし場合のあつた事も亦否む事が出来ない。即ち信仰不足の故に、寧〔むし〕ろ信仰不純の故に聴かれざりし場合が尠からずあつたと思ふ。「汝等信じて祈らば求(ねが)ふ所尽〔ことごと〕く得べし」と云ふのであれば、信仰が聴かるゝ条件であるは明かである。乍然〔しかしながら〕信仰の量でなくして其質である事を我等は充分に知らねばならぬ。其事を教ふるものが、信者の無能を教ゆるイエスの言である。
弟子、イエスに来り曰ひけるは、我等鬼を逐出す事能〔あた〕はざりしは何故乎。イエス彼等に曰ひけるは、汝等信なきが故なり。我れ誠に汝等に告げん、もし芥種(からしだね)の如き信あらば、此山に此処より彼処(かしこ)に移れと命(い)ふとも必ず移らん。又汝等に能はざること無かるべし(馬太伝十七章十九、二十節)
と。茲〔ここ〕に純にして小なる信仰の能力ある事が明かに示されてある。芥種の如き小なる活きたる信仰、其信仰が山をも移すべしとの事である。
 
○然らば純なる信仰とは如何なる信仰である乎と云ふに、私心なき信仰を云ふに相違ない。己れに求むる所なき信仰である。それが神を動かす信仰であると云ふ。「至誠山を動かす」と云ふと其原理に於て一である。私(わたくし)心の無い祈祷は聴〔きか〕れて山をも動かすと云ふのである。そして祈祷の聴かれざる訳は茲に在るに相違ない。此事を明か
に教ゆるものが雅各〔ヤコブ〕書四章三節に於ける使徒ヤコブの言である。曰〔いわ〕く、
汝等求めて得ざるは汝等慾の為に費さんとして妄(みだり)に求むるが故なりと。慾の為に費さんとの心、自分の利益安逸を計る為の欲求(ねがい)、祈祷を濁らす者は此心である。之れありて祈祷は純ならず故に聴かれないのである。神は祈祷を聴くの能力(ちから)を有し給ふ、其事を疑ふ事は出来ない。そして我等の祈祷の聴かれざるは其信仰の量に於て欠けてゐるからでない、純なる信仰、即ち真の信仰が無いからである。即ち直接に間接に己れの為に求むるからである。若し私に此不純分子が無いならば、私の祈祷は必ず聴かるゝに相違ない。
○そして私の経験に於て私が私に利害関係のない事の為に祈つた祈祷は大抵聴かれてゐる。日本国に福音の普〔あまね〕からんことを祈つた祈祷は著るしく聴かれた。私がキリストの善き証明者たらんとの私の青年時代の祈祷は遥かに予想以上に聴かれた。凡ての方法を以てキリストの聖名(みな)が此不信国に於て崇〔あが〕められん事をとの祈祷も亦驚くべき程に聴かれた。其他私に縁もゆかりも無き人の為に祈つた祈祷にして即座に聴かれた例は尠〔すくな〕くない。そして斯かる祈祷の聴かるのは其結果の現はるゝ前より確かである。「聖霊みづから我等の霊と偕〔とも〕に我等が神の子たるを証〔あか〕しす」であつて、聖霊自から我等が祈りつゝある間に我等の祈祷の聴かるゝを証し給ふ。私が身の幸福私の家の繁栄を祈る時に、私の祈祷の聴かるゝや否やに就て不審なき能はずであるが、私が支那内地に病人の癒されん事や、赤道直下の阿弗利加〔アフリカ〕に神の恩恵の土人に加はらん事を祈る時に、私の祈祷のたしかに神の宝座(みくらい)に達せし事を感ずる。
私の祈祷に効果あらんが為に何の私心(わたくし)の無い事が必要である。此意味に於て「義者の篤〔あつ〕き祈祷は力ある者なり」
である(雅各(ヤコブ)書五章十六節)。義者即ち無私の者である。
○茲に於てか他人に私の為に祈つて貰(もら)ふ必要を切実に感ずる。若し一人たりとも斯かる人があるならば、私は大なる味方に加へて大なる宝を得たのである。私の場合に於て斯かる人の有つた事、又今猶ほ有る事を最も幸なる事であると思ふ。私に神の恩恵の絶えざるは斯かる人達が私に知らせずして幾年も継〔つづ〕けて私の為に祈つて呉〔く〕れたからであると信ずる。自分に利害関係のなき人の為に彼の永遠の幸福を祈るべきである。是れ人が人の為に為〔な〕し得る最大の奉仕である。祈祷は声でない実力である。祈祷を以つて助けて貰ふ方が金銭を以てよりも遥に有力である。
「祈祷の慈善」を軽(かろん)じてはならない。五月二十九日
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