内村鑑三 マタイ伝 31講-その1

31 マタイ伝-その1
 
主祷の一節 (1)
イメージ 1
31 マタイ伝-その1
 
主祷の一節 (1)
明治401110日『聖書之研究』93号「研究」  署名内村鑑三
われらをこころみにあわせず、悪より救出(すくいだし)し給へ、国と権(ちから)と栄はかぎりなく爾〔なんじ〕の有なれば也、アメン (馬太〔マタイ〕伝六章十三節)
是れは有名なる主の祈祷の終りの一節である、我等が日常繰返(くりかえ)す言葉であるが、其明白なる意味は大抵の人の知らない所である、且〔か〕つ其れは容易(やさし)いものではない。
「われをこころみにあわせず」、
是れは抑〔そもそ〕も何(ど)う云ふ事であらふ乎、試探(こころみ)は我儕〔われら〕に来るべき者ではない乎、試探(こころみ)は主キリストにも来たではない乎、試探に遇はない基督者とては一人もない筈ではない乎、故に使徒ヤコブは云ふて居るではない乎「兄弟よ、若〔も〕し汝等各様(さま〴〵)の試誘(こことみ)に遇はゞ之を喜ぶべき事とすべし」と(雅各〔ヤコブ〕書一章二節)、又キリストは「礙(つまづ)く事は必ず来らん」と云はれたではない乎(馬太伝十八章七節)、是等の事実に由て見るも我儕を試探(こころみ)に遇はし給ふ勿(なか)れとは全く無益の祈祷ではない乎〔か〕、主は何故に斯かる無益の祈願(ねがい)を其祈祷の中に加へられたのである乎、是れ第一に起る疑問である。
此疑問に答ふる前に究め置くべき問題がある、其れは試探とは何んである乎、其事である、試探と訳されし原語は一つであるが、不幸にして其訳語は様々(さま〴〵)である、「試探」と云ひ、「惑ひ」と云ひ、「試惑」と云ひ、「試誘」と云ふ、然し其原語は一つであるのである、是れは甚だ紛(まぎ)らはしい事である、故に其中の何〔いず〕れか一つに定めて仕
舞う方が可(よ)いと思ふ、是を其中の何れに定めるも差したるちがいはない、何故となれば其中何れの辞〔ことば〕に訳するも「こゝろみ」の何たる乎を充分に示すことは出来ないからである、故に仮りに之を試誘と訳することに為さう、爾〔そ〕うして聖書に所謂〔いわゆ〕る試誘とは如何〔いか〕なるものである乎に就て語らふ、文字の如何〔いかん〕は左程大切なる問題ではない、其意義は何んである乎、是れを知ることが最も大切である。
試誘の何たる乎を知るに最も確かなる材料は馬太伝四章の一節より十一節迄に於てある、此処〔ここ〕に模範的試誘とも称すべきものが示されてあるのである、是れはキリストが遇はれし試誘であつて、亦〔また〕我等彼を信ずる者の各自の遇ふべき試誘の標本である、爾うしてその信仰の試8こころみ)であり、情慾の誘(いざない)であつた事は確かである、悪魔はキリストの情念に訴へて彼を信仰の頂上(いただき)より引下(ひきおろ)さんとしたのである、然しながら深くキリストの野の試誘の性質を考へて見ると試誘は「こゝろみ」又は「いざない」に止まらなかつたのである、野の試誘はキリストの伝道の首途
(かどで)に於て彼の救済の事業を破壊せんとする悪魔の手段であつたのである、試誘は試誘に止まらない、破壊であつたのである、悪魔は茲〔ここ〕に最も陰険なる手段を以てキリスト降世の目的を其根本より覆(くつが)へさんとしたのである。
斯くて試誘なる辞に反抗、破壊の意義を加へて読まなければ聖書に幾回となく使はれて有る此辞(ことば)の意味は解らない、使徒行伝十五章十節に「何故我等の先祖等も我等も負ひ能(あた)はざる軛(くびき)を弟子等の頚につけて神を試むる乎」とあるは「神の聖旨〔みこころ〕に逆ふ乎」との意である、又哥林多〔コリント〕前書十章九節に「又彼等の中或者キリストを試みて蛇に滅されたり」とあるは、キリストに逆らひ、其聖意を悩め奉りたりとの意でなくてはならない、「試むる」とは多くの場合に於ては「ためす」と云ふ事ではない、「反逆の意を表す」とか「無視する」とか云ふ事である。
其次ぎに究むべき問題は「遇ふ」といふ辞の意義である、「遇ふ」とは単に「遭遇」の意ではない、「遇ふ」とは至て軽い辞である、馬太〔マタイ〕伝二十六章の四十一節に同じ辞が(「試探」と関聯して)「惑に入らぬやう」と訳してある、「入る」と云ふ方が「遇ふ」と云ふよりも稍〔や〕や深くある、又バプテスト教会訳の聖書には主の祈祷の此一節を英訳に傚〔なら〕ひ「我儕(われら)を試誘(こころみ)に導かず」と訳してある、「導く」と云ふは「遇ふ」と云ふよりも遥かに明確である、我等は試誘に遇はざるを得ない、然れども遇ふとも其中に入らない事は出来る、試誘に遇ふと、之に導かれて其中に入るとは全く別事(べつごと)である、我儕を試誘に導き給ふ勿れとは意味のない祈願ではない。
然しながら単に「入れず」又は「導かず」の意義であらふ乎、希臘〔ギリシア〕語のeisphero の意味は多分是れ以上ではあるまい、然しながら我等は単に字典の供する意義に由て此重大なる辞の意義を定むべきであらふ乎、我等は「試誘」の場合に於ての如く、此辞の場合に於ても基督者の実験を以て字義の不足を補ふべきではあるまい乎、「試誘に遇はせず」とは「試誘に呑まれず」との意でなくてはならない、其持去(もちさ)る所とならず、其の捕虜となる事なくとの意でなくてはならない、詩篇第十九篇十三節にある願くは爾(なんじ)の僕(しもべ)を引止めて故意(ことさら)なる罪を犯さしめず、それを我が主たらしめ給ふ勿れとの言辞が主祷の此一句の最も善き註解であると思ふ、「試誘を我主たらしめ給ふ勿れ」と解して其解釈に間然する所はないと思ふ。
「我儕を試誘に遇はせず」と云ふ、我等は試誘に遇はざるを得ない、又愛なる神が我等を試誘に遇はし給ふ筈はない、故に「我儕を試誘に遇はせず」と云ふは無益なる無意味なる祈願である、「我儕をして我儕の信仰を毀たんとし、我儕をして神に逆らはしめんとする悪魔の譎計〔けつけい〕の持行く所とならしめ給ふ勿れ」と、是れが此短かき祈祷の意義でなくてはならない、希伯来〔ヘブライ〕語の簡潔なる、是を冗漫に失し易き他国の言辞に訳するは随分の困難である、我等は深く希伯来人の心理的実験に入つてのみ能く其言語の意味を解することが出来る。
悪より拯出し給へ 是れ亦容易(やさし)い言辞ではない、「悪」とは悪事である乎、悪其物である乎、悪者即〔すなわ〕ち悪魔である乎、先〔ま〕づ其事を究めなければならない、爾(そ)うして文法的に攻究すれば三者何〔いず〕れにも之を解することが出来る、路加〔ルカ〕伝六章四十五節にある「善人は心の善庫8よきくら」より善を出し、悪人は其悪庫(あしきくら)より悪を出す」とあるは確かに悪事を指して云ふたのである、又羅馬書十二章九節に「悪は悪〔にく〕み善は親み」とあるのも同じことである、然しながら馬太伝十三章十九節にキリストの言辞として記してある「天国の教を聞て悟らざれば悪鬼来りて其心に播〔まか〕れたる種を奪ふ」とあり、又同三十八節に「稗子(からすむぎ)は悪魔の子等なり」とあるは主の祈祷の中にある「悪」なる辞を「悪鬼」又は「悪魔」と訳したのである、故に「悪より拯出〔すくいだ〕し給へ」との言辞を「悪者」即ち悪魔より拯出し給へと解するのは決して聖書に依る所のない解釈ではない、実に新約聖書の註解者として第一等の地位を占むるベンゲル氏の如きは之を「悪者」即ち「悪魔」と解して居る(英訳Gnomon 第百九十二頁を見よ)、又ネツスル氏編纂希臘語聖書にも引照は凡〔すべ〕て此辞を「悪者」と解して読むべき章節に対して附してある、又聖書全体の思考の傾向より稽(かんが)ふるも之を「悪者」と解するの適当なるを見る、聖書に由れば悪とは抽象的に悪魔を離れて存在する者ではない、悪とは悪魔の行為であつて、悪魔より拯(すく)はるゝより他に悪より拯(すく)はるゝ途〔みち〕はない、悪魔は根本であつて悪は枝葉である、
悪の源は悪魔に於て存して居るのである、故に悪魔より拯はれんと欲するの祈願は悪より拯はれんとするよりも遥かに深い祈願である。
「拯出(すくいだ)す」とは何である乎、「拯出す」とは「索出(ひきだ)す」の意であつて、敵の手中より拯出すことである、帖撒羅尼迦〔テサロニケ〕後書三章二節に「われらをして邪〔よこし〕まなる悪人より救はるゝことを得しめよ」とあるは此言辞である、羅馬書〔ロマ〕十一章廿〔二六〕節に「救者(すくいて)はシオンより出てヤコブの不虔(ふけん)を取除かん」とあるは此意味に於ての救者である、若(も)し救者(すくひて)の例を挙げんとすれば其第一はモーセである、彼はエジプト人の手よりイスラエルの民を拯出した者である、其第二はヨシユアである、彼はモーセの救済(きゅうさい)即ちすくいだしの業を全うした者である、其第三はギデオンである、彼はミデアン人の手よりイスラエルの子等を救出した者である、其他の士師も亦〔また〕すべて此意味に於ての民の救者であつた、「ヱホバ誰々を以て何々人の手よりイスラエルの民を救ひ出し給へり」とは士師記々者の套語〔とうご〕である、是に由て観れば拯出すとは或る敵の手より人を救出すことであることが判かる。故に「悪より拯出し給へ」とは「悪魔の手より救出し給へ」との祈願である、悪魔は我等を擒(とりこ)にし、我等を縛りあれば、其束縛より我等を釈放(ときはな)ち給へとの祈願である、爾うして是れが我等に取り最も重要なる祈願である
云ふまでもない、悪魔は我等を衷(うち)に於て縛り又外(そと)に於て縛る者である、我等に悪意を提供し、悪行を勤むる者である、人はすべて悪魔に憑(つ)かれたる者であつて、彼が救主を要するは彼れ悪魔より拯出(すくいいだ)されんがためである、恐るべきは罪ではない、罪の案出者なる悪魔である、除くべきは悪ではない、悪のの根源なる悪魔である、悪魔より拯出さるゝにあらざれば我等は悪より拯出されたのではない、キリストは其弟子等に「我儕を悪魔より拯出し給へ」と祈れと教へ給ひて、彼は我等人類の最も切なる祈願を示されたのである。