内村鑑三 マタイ伝 66講 無意識の善

66 マタイ伝
 
無意識の善
馬太伝廿五章三十一節以下(一月三十一日今井館に於て)
明治42年月310  『聖書之研究』107号「講演」   署名なし
 
善は無意識のものでなければ真正(ほんとう)の善ではない、我は善を為(な)せりと意識する時に我は善を為して居らない、我は善を為したか為さない乎〔か〕少しも識らない時に我は善を為して居るのである、世の最終(おわり)の裁判の時に我等の善として認めらるゝものは此無意識の善である、斯(か)くて王、其右に在る者に曰はん、我父に恵まるゝ者よ、来りて世の創始(はじめ)より以来(このかた)汝等のために備へられたる国を嗣(つ)げ、そは汝等我が飢えし時我に食はせ、渇きし時我に飲ませ、旅(たび)せし時我を宿らせ、裸(はだか)なりし時我に衣(き)せ病みし時我を見舞ひ、獄に在りし時我に就(きた)りたればなりと、茲(ここ)に於て義者(ただしきもの)彼に答へて曰はん、主よ何時(いつ)汝の飢えたるを見て食はせ、渇きたるに飲ましゝ乎、何時主の旅したるを見て宿らせ又裸なるに衣せし乎、何時主の病み又獄に在るを見て汝に至りし乎と、王答へて彼等に曰はん、我れ誠に汝等に告げん、既〔すで〕に汝等、我が此兄弟の最微(いとちい)さき者の一人に行へるは即〔すなわ〕ち我に行ひしなり。
「何時」、「何時」、「何時」と義者は不思議に思ひ繰返して主に問ふた、彼等は善を為したる記憶(おぼへ)はない、キリストのために働いたる記憶はない、彼等は特に恵まるべき人ではない、主の彼等に曰へるは間違であらうと彼等は思ふた、而〔しか〕して義人の此無意識に反して悪人は其為したる少し許〔ばか〕りの善を悉〔ことごと〕く記憶し、之を楯に取て天国に入らんとする、彼等は王の責問に答へて曰ふ「主よ何時汝の飢え、又渇き、又旅し、又裸か、又病み、又獄に在るを見て主に事〔つか〕へざりし乎」と、彼等は善と云ふ善は悉く成就(なしとげ)たりと自信して居る、故に主は斯かる者に宣告を下して曰ひ給ふ、我を離れて悪魔と其使者のために備へられたる熄(き)へざる火に入れよ
と、実にキリストの嫌ひ給ふ者とて意識せる善の如きはない、彼は全然之を善と認め給はない、汝の右の手の為す事を左の手をして識らしむる勿〔なか〕れと教へ給ひし彼は無意識の善にあらざれば之を善として受取り給はない。
是に由て今日基督教会に由て奨励される所の善なる者のキリストの前に何の価値も無い事が解かる、「キリストの為めに此事を為すべし、キリストのために彼の事を為すべし」と言ふ、今の基督信者は善を為すに凡〔すべ〕て基督信者の義務として之を為す、彼等の為せし善行は教会の機関雑誌に由て広告され、彼等の信仰までが彼等を信仰に導きし宣教師の功績話(てがらばなし)として全世界に伝へらる、然しキリストの見給ふ所は彼等の見る所とは全く異なる、キリストは善の隠匿(いんとく)を欲し給ふのみならず、其無意識なるを求め給ふ、善を為すことを当然(あたりまえ)の事と思ひ、之に注意を払はらざらんことを欲し給ふ。
茲〔ここ〕に於てか我等は善行を努むるに止まらずして品性を善良にするの必要が起るのである、詩人ホヰットマンの曰へるが如く根本的の所有物又は常習として善良なる心を有するの必要が起るのである(櫟林(くぬぎ)集第十八頁を見よ)、キリストも亦〔また〕教へ給ふた、或ひは樹をも善(よし)とし其果をも善とせよ、或ひは樹をも悪(あし)とし其果をも悪しとせよ、夫れ樹は其果に由て知らるゝなり(馬太〔マタイ〕伝十二章卅三節)と、樹を善くせずして善き果を得る事は出来ない、悪しき樹を強(し)ひて善き果を結ばしめたりとて、其果は世の眼には善く見えてもキリストの前には悪しくある、今の基督信者は果を獲ることにのみ汲々として樹を善くすることを等閑(なおざり)にするから其獲んと焦(あせ)心る果をさへ獲られない。
洵〔まこと〕に善に無頓着になるまでは真正の善人と成つたとは言へない、己れ善を為すに汲々として他人の善を為すを見れば之を妬み、之を貶視(さげし)み、以てキリストの前に立て我れこそ第一の恩賞に与〔あず〕からんと欲する者の如は先〔ま〕づ第一に悪魔と其使者とのために備へられたる熄(き)へざる火の中に遣(おく)らるべき者である。
 
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