内村鑑三 マタイ伝 62講 衆人とともに祈るの利益

62マタイ伝
 
3回夏期講談会における聖書の注解(1902年)
マタイ伝181920
 
我また爾曹に告げん若し爾曹〔なんじら〕の中二人のもの地に於て心を合せ何事にても求めば天に在す吾父は彼等の為に之を成し給ふべし、蓋(そは)我が名の為めに二三人の集れる処には我も其中に在ればなり(馬太〔マタイ〕伝十八章十九二十節)
神は祈祷を聴く者なれば、彼は一人の祈祷も万人の祈祷も等しく之を聴き納れ給ふ、故に彼は吾等各自に独祷の義務を命じ其権利を与へ給へり、吾等は各自独り屡〔しばしば〕次静かなる所にて祈るべきなり。
然れども神は亦〔また〕彼の子供が衆人相集て祈ることを嘉(よし)し玉ふ、彼は其場合に於ては彼等の中に在(いま)すと約し給へり。衆人相偕に祈るの利益二つあり、其第一は神が各自の心に存する牆壁〔しようへき〕を排除し、心をして心と通ぜしめ、茲〔ここ〕に真個の兄弟的団合を作らしむるにあり、人心を結附けるものにして誠実なる祈祷会の如きはあらず、人は神に於てのみ互に相一致するを得る者なり、偕(とも)に祈り得ざる者は真正の兄弟姉妹にあらず、偽善を怕〔おそ〕れて人の前に祈り得ざる者は未〔いま〕だ人と真誠に交はりしことなき人なり、真個の鰥寡〔かんか〕孤独とは人と偕に祈り得ざる者なり、吾等が二人或は三人、或は五十人、六十人相偕に心と声とを合して祈る時に、神は吾等の中に在して、吾等の隔離したる心を繋ぎ、吾等をして彼の中に在て相互に真個の兄弟姉妹たらしめ給ふ。
其第二は祈祷に力の加はることなり、一人の祈祷に一人の力あり、十人の祈祷に十人の力あり、五十人の祈祷に五十人の力あり、吾等と雖〔いえど〕も五十人心を合せて吾等に懇願し来る者ある時には単独の請求に対するよりも多く彼等に向て耳を傾くるに非ずや、吾等と霊性を同うし給ふ神も亦然〔またし〕かせざらんや、神が斯〔か〕く為し給ふは彼が偏頗(へんぱ)なるが故にあらず、彼は斯くなして、彼の子供をして彼に向て相一致せしむ、吾等は兄弟の祈祷を藉りて吾等の祈願に力を添ふるを得るなり、吾等は又兄弟の祈祷に和し、之を助けて之に吾等の力を添ふるを得るなり、吾等は祈祷に於ても、他の事業に於けるが如くに、兄弟姉妹互に相助くるを得るなり。
故に吾等は各自独り祈ると同時に、吾等の同志と偕(とも)に祈るべきなり、吾等は衆人の援助を藉りて吾等の祈願を天に達せしめん。