内村鑑三 マタイ伝11講ーその1

11講 王の誕生 その1
大正3年1210日 『聖書之研究』173号 署名内村鑑三
馬太(マタイ)伝二章一―十二節
 
それイエスヘロデ王の時ユダヤベツレヘムに生れ給ひしが、其時博士等(はかせたち)東方(ひがしのかた)よりヱルサレムに来りて曰〔い〕ひけるは
ユダヤ人の王として生れ給へる者は何処(いづこ)に在(いま)すか、我等東方にて其星を見たれば彼を拝せんために来れりと、ヘロデ王之を聞(きゝ)て痛む、又ヱルサレムの民も皆な然り、ヘロデ王すべての祭司と民の学者を集めて問ひけるはキリストの生まるべき処は何処(いずこ)なる乎〔か〕と、彼等答へけるはユダヤベツレヘムなり、そは予言者に由りしるされたることばにいわく、ユダヤの地なるベツレヘムよ、汝はユダヤのまちの中にて至小(いとちいさき)き者に非ず、そは我がイスラエルの民をやしなふべき君、汝の中より出づべければ也とあればなりと、茲〔ここ〕に於てヘロデ密(ひそか)に博士を召し、星の現はれし時を詳(つまびら)かに問ひ、彼等をベツレヘムに遣はして曰ひけるは、汝等往きて嬰児(おさなご)の事を細(つぶ)さに尋ね、之に遇はゞ来りて我に告げよ、我も亦〔また〕往きて拝すべしと、彼等王の命を聴きて往けり、而〔しか〕してさきに東方(ひがしのかた)にて見たりし星、彼等に先(さきだ)ちて嬰児の居る所に到り其上に止まりぬ、彼等此星を見て甚(いた)く喜びたり、既に室に入りければ嬰児の其母マリヤとともに居るを見、平伏(ひれふ)して嬰児(おさなご)を拝し、宝の盒(はこ)を開きて黄金乳香没薬など供物(そなえもの)を彼に献(ささ)げたり、斯(か)くて後、博士等夢に「ヘロデに還る勿〔なか〕れ」との黙示に接(つげ)しければ他(ほか)の途(みち)より其国に帰れり。
○茲に二人の王が在つた、二人のユダヤの王が在つた、偽(いつわり)の王と真(まこと)の王とがあつた、偽の王をヘロデと称(い)ふた、真の王をイエスと称ふた、而して其境遇に天地の差があつた。
偽の王は首都のヱルサレムに住んで居つた、彼を円繞(とりま)くに多くの侍臣(けらい)と侍女(こしもと)とがあつた、彼を護(まも)るに強き軍隊があつた、すべての祭司と神学者までも彼の命を聴いた、彼はソロモン以来の大王として、イスラエルの民の尊
崇を受けた。
然れども彼れヘロデは真の王ではなかつた彼の祖先はエドム人であつた、而してエドムはイスラエルの歴代の敵であつた、エドム人イスラエルの王位に座る、其事自身が既に僭越(せんえつ)であつた、ダビデの裔(こ)の座るべき位(くらい)にエドム人ヘロデが座つたのである、而かも神の命に由るにあらずして、羅馬(ローマ)人の後援を得て、兵力政略両(ふた)つながらに由りて僅(わず)かに之を贏(か)ち得たのであつた、ヘロデは偽(いつわり)の王たるに止まらなかつた、彼は王位の簒奪者(さんだつしや)であつた、
然れども一たび位に即きし以上は、何人も彼の王位を争はなかつた、民の祭司と学者までも聖書に循(したが)ひて彼の位(くらい)を弁護した。
偽の王へロデに対して真の王イエスがあつた彼は純正のイスラエル人であつてダビデの正統の裔(すえ))であつた、彼はイスラエルを牧(やしな)ふべきまことの君(きみ)であつた、然れども彼れ生れしや、ヱルサレムの宮殿に於て生れなかつた、僻邑のベツレヘムに於て、而かも其客舎に於て、而かも其牛舎に於て生れた、槽(うまぶね)は彼のために供(そな)へられし揺籃(えうらん)であつた、一人の侍女(こしもと)も彼に侍(かしず)かなつた、彼は牛と羊とが唸る所に彼の呱々の声を挙げた。
 
○而して彼を始めて訪(たず)ね来りし者は誰でありし乎、彼を始めてユダヤ人の王として認めし者は誰でありし乎、聖書に精通せる祭司と民の学者でありし乎、否な、彼等は聖書に精(くわ)しくあつた、彼等はヘロデ王の質問に接して直〔ただち〕に聖書の言〔ことば〕を引いて答へた、彼等は米迦ミカ書五章二節を引き、之に撒母耳サムエル後書五章二節の一句を加へて答へた
彼等は聖書を操縦するに甚〔はなは〕だ巧妙(たくみ)であつた、彼等は聖書学者として申分(まうしぶん)がなかつた、然し乍(なが)ら夫(そ)れ丈けであつた
彼等は聖書が明かにイスラエルの真の王のベツレヘムに生るべきを録(しる)しをるを知りしと雖(いえど)も、然かも自(みず)から往きて其処(そこ)に彼を訪(たづ)ねんと為(な)さなかつた、彼等に聖書知識があつた、然し乍らキリストを認むるの勇気がなかつた彼等は王の怒と民衆の不人望とを恐れたれば、単に聖書の言を引いた丈けであつて、自から起(たち)てイスラエルの王を尋ねんとは為(し)なかつた、彼等は実(まこと)に世の所謂〔いわゆる〕宗教家の好き標本であつた、世の迎ふる者を迎へ、世の斥し(りぞく)る者を斥けた、宗教家の為す所は概〔おおむ〕ね此通りである、古今東西変る所なしである、仏教も儒教も猶太〔ユダヤ〕教も基督教も、此点に於て異なる所はない、「祭司と民の学者」とあるを「監督と神学者」と書直(かきなを)して今日の事実有(あり)の儘(まま)である。
ベツレヘムの客舎の槽(うまぶね)の中に初めて呱々の声を挙げしマリヤの子イエスユダヤ人の真(まこと)の王として認めし者はユダヤ教会の祭司と神学者とではなくして、東方の博士であつた、「東方」とはアラビヤ以東の国を指して云ふのであつて、多分波斯、ペルシヤ印度〔インド〕、支那等を指して云ふのであらう、「博士」と訳せられし原語のMAGI は波斯マガイペルシヤの占星学者(ほしうらなひ)の称(こと)であれば、茲〔ここ〕に謂〔い〕ふ所の博士はゾロアストルの故国なるメヂヤ又はペルシヤより来りし者と見て間違はあるまい、然し乍ら単にマガイの徒は波斯人なりしとの故を以て、イエスを訪ね来りし者を以て波斯ペルシヤの学者にのみ限るべきではない、東方とは東洋全体を謂ひ、博士とは識者全体を称ふのであると思ふ、ヨルダン河以東の諸邦(くに〴〵)の識者数名、或ひは数十名が列を為して、茲にマリヤの子に敬崇(けいしう)を払はんとして遥々(はる〴〵)と訪ね来りたりとの意であると思ふ、基督教会の伝説に従へば、来訪の博士は三人でありしとの事であるが、然し聖書は三人と数(かず)を限て居らない、数人であつたらふ、或ひは数十人であつたらふ、ヘロデとヱルサレムの全市民とを驚かした丈けの数と権威(オーソリチー)を有(も)つた者であつた。
 
ユダヤ教会の祭司と学者とは其神学と聖書知識とを以てイエスユダヤ人の王として認むることが出来なかつた、或ひは出来ても、往て彼を拝するの勇気がなかつた、然るに茲に東方の識者の来りて彼を拝する者があつた、選民必しも選民ならず、異教徒必しも異教徒ならずである、イエスは後年其説教に於て我れ汝等に告げん、多くの人々、東より西より来りてアブラハム、イサク、ヤコブと共に天国に座し、国(くに)の諸子(こども)(選民)は外(そと)の幽暗(くらき)に逐(おひ)出され、其処(そこ(そこ)にて哀哭(かなしみ)切歯(はがみ)することあらん〔マタイ八.十-十二〕と言ひ給ひしが、其事は既に彼が始めて此世に臨み給ひし時に事実となりて現はれたのである。
 
エスを始めて承認せし者は所謂(いわゆる)「国の諸子(こども)」即ち正統教会の当局者ではなくして、異教国の識者でありしことを知つて、イエスの如何(いか)なる者でありし乎(か)、又彼の唱へし福音の如何なる性質の者でありし乎を知るに難くない、イエスは初めより異教徒に迎へられ給ひし者である、イエスの眼中に今の基督教国の民の称するヒーズン(異教徒)なる者はなかつた、イエスサマリア人を愛し給ふた、カナン人を恵み給ふた、イエスは特に異邦人の救主である。
 
○祭司と学者たちは聖書に依〔より〕てイエスを救主(すくひぬし)として認むることが出来なかつた、然るに東方の博士たちは天の星に導かれてイエスの所に来つた、聖書が神学者の手に附され、其文字が攻究せられ、其章節が暗記され、神学論が闘はれ、教会論が争はれ、聖書が全く聖書たるの用をなさゞるに至る時に、神は聖書に依らずして、天然を以て人を直に御自身に導き給ふのである、イエスが曾(かつ)て言ひ給ひしが如くに、
此輩(このともがら)もし黙止(もだし)なば石号呼(さけ)ぶべしである(路加〔ルカ〕伝十九の四十)若〔も〕し人がイエスを認めないならば路傍の石が認むるであらふ、聖書が教会の専有に帰して、其明白なる黙示が人をイエスを導かざるに至るならば、神は天の星を使(つか)つて其聖旨(みこころ)を遂(と)げ給ふであらふ、聖書は貴くある、神が人類に賜ひし者の中で聖書は最も貴き者である、然し乍ら神は聖書を以て其行動(はたらき)を限られ給はない、彼は聖書なくとも人に光明を与へ給ふ、聖書に由らずして異邦の民を其聖子(みこ)に導き給ふ、実(まこと)に彼は風を其使者(つかい)となし、火を其役者となし給ふ(希伯来〔ヘブル〕書一の七)ユダヤの祭司と学者等が聖書を専有し、之をして神の光を放たしめざりしが故に、神は聖書を棄(すて)て、空天(そら)の星を以て、東方の識者を彼の聖子の許(もと)に携(つ)れ来り給ふたのである。
 
○而〔しか〕して天然は実(まこと)に聖書に劣らざる神の黙示であるのである聖書、聖書と云ひ、天啓、天啓と云ひて、天然の価値を貶(おと)す者は、神の黙示としての天然の価値を知らない者である天然は単に肉慾の要求に応ずるための者ではない、天然は詩歌である、哲学である、預言である、深く天然を探りて神の深(ふかき)事(こと)を究(きわ)むることが出来る、然り、読む眼を以て之を読めば天然其物が聖書である、ユダヤ教会の祭司と神学者とは人は星学を究(きわ)めて、又は動植物学に由りてイエスキリストに顕はれたる神の心を知ることが出来る、必しも神なる文字を用ひない乎も知らない、イエスキリストの名を称(とな)へない乎も知らない、或ひは信者の立場よりは無神論者、偏理論者を以て目せらるゝ乎も知らない、其れにも係(かか)はらず、彼等は多くの監督、牧師、伝道師にまさるの基督者である乎も知らない書に由りてイエスを認めなかつた、之に反して東方の博士は星に由て、遠方より来りてイエスを拝した、祝すべ
き星よ、汝に声なし、音響(ひゞき)なし、然れども汝の言辞(ことば)は時には地の極(はて)にまで及ぶ、我等汝の声に聴て誤らざるなり、
冬天、空澄(そらす)みて汝の光燦然(さんぜん)たる時、我等をして、汝の唱ふる福音に吾等の静かなる心の耳を傾けしめよ。
○近世の大説教師はスポルジオンでありしと云ふ、ロバートソンでありしと云ふ、ムーデーでありしと云ふ、然り、我等は其事を疑はない、然れども神は尚〔な〕ほ其他に多くの大説教師を遣はし給ふた、十九世紀の星学の泰斗〔たいと〕ハーシェル父子、ノルマン・ロックヤー、グスタブ・キルショーフ等も亦〔また〕大なる福音の宣伝者であつた、近世天然学の始祖と称(よば)るゝハムボルト男爵も亦神の預言者の一人として敬ふべきである、而して進化論の唱道者チヤールス・ダーウヰンを呼んで基督教の敵と云ふ者は何人である乎、我等は米国の思想家ジョン・フィスクの註解に由てダーウヰンの進化説の基督教の善き説明者であることを教へられたではない乎、神は初めに天の星を以て東方の博士を嬰児(みどりご)イエスの許(もと)に携(つ)れ来り給ふた、其如く今も尚ほ、或ひは天の星を以て、或ひは地の獣(けもの)を以て、或ひは海の魚を以て、同じ伝道を試み給ひつゝある、神はイエスの誕生と同時に天然学(科学)を祝福し給ふた、科学が宗教の敵であるのではない、教会の敵であるのである、神の聖書を濫用し、之に由(たち)て誤謬〔ごびゆう〕を世に唱へつゝるある近世の祭司と学者等との敵であるのである。
○而してユダヤの祭司と神学者等が王の威厳を恐れて、惟々(いい)諾々(だく〳〵)たるに対して、異教国の博士等の独立的行為に省みよ、博士等は王の命なればとて拒(こば)むべきは之を拒んだ、
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