内村鑑三マタイ伝3講ーその2

3講ーその2 イエス系図に就て (馬太伝第一章の研究)
十二月第二安息日クリスマス準備講演として青年会館に於て述べし所の大意
大正8年1月10『聖書之研究』222号 署名内村鑑三
 

 

 
神の子イエス系図があつた、神は彼をダビデの家に降し給ふた、神は其子を世に降すに方〔あたつ〕て適当の家を選えらみ給ふた、斯くして神は家族主義を採り給ふ、個人主義に由り給はない、神の恩恵めぐみは家族に臨み其呪詛のろひも亦〔また〕家族に臨む、十誡第二条に曰く「我れヱホバ汝の神は嫉ねたむ神なれば我を悪にくむ者にむかひては父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し我が誡命いましめを守る者には恩恵めぐみを施して千代に到るなり」と( 埃及〔しゆつエジプト〕記二十章五〔五、六〕)、是れ責任を家族に問ふのことばである、儒教に「積善の家に余慶あり積不善の家には余殃よあうあり」と言ふに能く似て居る、罪は之を三四代に問ひ、義は其むくひを千代に及ぼすと云ふ、家族主義であつて而かも恩恵本位である、罪は之を罰せずには措〔お〕かず、然れども義は之を忘れずして其報賞(むくひ)を千代にまで及ぼすと云ふ、ヱホバを愛し其誡命(いましめ)を守りて家は永久に恵まるゝのである、聖書は英米人の唱ふるが如き極端なる個人主義を伝へない、神は「家の人」として人を扱ひ給ふ、彼は「救拯(すくひ)の角を其僕しもべダビデの家に立たて」たまへりと云ふ(路加〔ルカ〕伝一章六九節)、イエスは神の子としてのみならず又「先祖ダビデ王の位」を継ぎし者として神の前に貴くあつたのである。
ダビデの家必しも善人の連続でなかつた、其家に亦多くの悪人が生れた、ダビデ彼れ自身が多くの罪を犯したる人であつた、今旧約の歴史に照らして見るにソロモンよりエホヤキンに至るまで十四代の王の中に比較的善人が七人ありて悪人が同じく七人ありしことを知る、今之を善悪二種に別ちて列記すれば馬太伝の記事を左の如く
に改竄(かいざん)する事が出来る、
善よきソロモン悪あしきレハベアムを生み
悪きレハベアム悪きアビアを生み
悪きアビヤ善きアサを生み
善きアサ善きヨサパテを生み
善きヨサパテ悪きヨラムを生み
悪きヨラム善きウツズヤを生み
善きウツズヤ善きヨタムを生み
善きヨタム悪きアカズを生み
悪きアカズ善きヘゼキヤを生み
善きヘゼキヤ悪きマナセを生み
悪きマナセ悪きアンモンを生み
悪きアンモン善きヨシアを生み
善きヨシヤ悪きエホヤキンを生む
 
ダビデの子孫にして王として記しるさるゝ者総計十四人、其内善き王が七人、悪き王が七人である、又善き王必しも善き子を生まず、悪き王必しも悪き子を生まない善き王より悪き子の生まるゝあり、又悪き王より善き子の生まるゝあり、而して是れ王家に限つた事ではない、何〔いず〕れの家に於ても爾さうである、而して神は人の罪を罰して三四代に及ぼし、其信仰を賞して千代に及ぼし給ふが故に、結局けつきよく善は悪に勝ちて信者の家は永久に栄えざるを得な
いのであるアブラハムの家、ダビデの家に多くの悪人の生れざるにはあらざりしと雖〔いえど〕も、神の恩恵めぐみは特に此家に宿りて終〔つい〕に此家よりして人類の救主は生れたのである、偉大なるは信仰の効果である。
積善の家に余慶あり信仰の家に恩恵絶えず、然れども人の善が積んで完全に達するのではない、善の内に神が臨んで之を完成し給ふのである、ダビデの家はヨセフに達して善き家ではあつたが完全の家ではなかつた、其内に神の子イエスが現はれてアブラハム以後数十代に渉〔わた〕りて蓄積ちくせきせられし善が完成せられたのである、家然〔しか〕り人然り国然り人類然りである、人は其遺伝的善性まつとうに由ては完成せられない、即ち救はれない、彼に聖霊が降りてのみ完成まつとうせらる、国もさうである、人類全体もさうである、最後に神が臨り給ふにあらざれば完成まつとうせられない、完成者は人ではない、神御自身である、アブラハムの家に神の子イエスが生れて其家は完成せられたのである。
エスはヨセフの子として現はれ給ふた、ダビデ王の子としてゞはない大工だいくヨセフの子として現はれ給ふた、
即ちアブラハムの家が衰落の極に達したる時に現はれ給ふた、彼れ現はれ給ひし時に人は彼に就て曰ふた「ナザレより何の善きもの出んや」と、又「彼は大工だいくの子に非ずや」と、然れども神の現はれ給ふは斯かゝる時に於てゞある、「神は驕傲者たかぶるものを拒ふせぎ謙卑者へりくだるものに恩めぐみを予〔あた〕ふ」とあるが如しである、アブラハムよりダビデに至るまで彼等の家は世に所謂〔いわゆる〕豪族であつた、ダビデよりヱホヤキンに至るまで子孫相嗣いで一国の王であつた、而してヱホヤキンより
ヨセフに至るまで彼等は庶民の間に下りダビデの裔すゑは僻村〔へきそん〕の一労働者たるに至つた、而て此ヨセフの子として
 
エスキリストは世に現はれ給ふた、豪族たること十四代、王家たること十四代、平民たること十四代、而して平民の家に神の子は生れ給ふた、神は遺伝を重んじ給ふ、然れども人が遺伝に頼たよるを許し給はない、「神は能く石をもアブラハムの子と為〔な〕らしめ給ふなり」である(馬太〔マタイ〕伝三章九)、其子をダビデの家に遣おくり給ひしと雖も其家が
平民となりし時に遣おくり給ふた、考ふべきは此事である、大統領リンコルンの言ひしが如く「神は特別に平民を愛し給ふ」である
○又注意すべきはイエス系図中に四人の女性の記載せられしことである、タマル其一、ラハブ其二、ルツ其三、
ウリヤの妻其四である、サラ、レベカ、レア等の名を省はぶいて是等四人を記載せし其理由如何〔いかん〕、彼等何れも名誉の歴史を有する者ではない、タマルの行為に就ては之を口にするさへ憚〔はばか〕る所である(創世記卅八章)ラハブはヱリコの娼婦であつた、ルツは異邦モアブの婦人であつた、而してウリヤの妻は奸婬〔かんいん〕の婦をんなであつてダビデと共に許すべからざる罪を犯したる者であつた、記者は何故に特更ことさらに斯かる婦人を択えらんで其名をイエスの祖先の中に列記したのである乎、其理由は知るに難くない、イエスを万民の救主として見たからである、殊に罪人の救主として見たからである、イエスは斯かる婦人を其肉体の祖先として有もつことを耻とし給はなかつた、「税吏みつぎとりと娼婦あそびめとは汝等より先さきに神の国に入るべし」と言ひ給ひし彼は娼婦を其系図の中に有もちて敢〔あえ〕て恥とし給はなかつた(馬太伝廿一章三
)、「信仰に由りて娼婦のラハブは信ぜる者と共に亡びざりき」と希伯来〔ヘブル〕書の記者は言ふた(十一章三一節)、然り「信仰に由りて」である、信仰に由りて娼婦も罪人も異邦人も聖なる家族の人となる事が出来るのである。
○かくのごとくにして此は何れの方面より見るも驚くべき著いちじるしき系図である、此は普通の系図ではない、主義のある系図である、系図を以てキリストの福音を説く者である、決して乾燥無味の人名の羅列られつではない、神の言〔ことば〕であつて能く之を解して「教誨をしへと督責いましめまた人をして道に帰せしめ又義たゞしきを学ばしむるに益ある」言である(テモテ後三章十六)
 
附言「イエスキリストの系図」と云ふ、茲〔ここ〕に系図と訳せられし原語はBiblos geneseōs である、之を英語に直訳すればThe book of genesis と成る、創世記といふと同じである、「イエスキリストの創世記」是を馬太伝全体の表現として見ることが出来る、キリストの生涯は地上三十三年のそれを以て終つた者ではない、彼は無窮にヤコブの家を支配し且〔かつ〕其国終る事なき者なれば(路加伝一章三三節) 彼れの地上の生涯は其無窮の生涯の発端たるに過ぎない、故に馬太伝全部を称して「イエスキリストの創世記」といふも不当でないのである、若〔も〕しマタイが茲に単に系図と謂〔い〕はんと欲せしならば特にgenealogia なる語を用うべきである(テモテ前書一章四節、テトス三章九節等参照)Genesis は広い意味の辞ことばである、          系図も起原も出生も、更らに進んで生涯全体をも意味する辞ことばである(ヤコブ書三章六節参照)、余は思ふ記者マタイの意は茲に在りて彼は特に此辞を選えらんだのであると、イエスキリストの起元録、其系図と誕生おひたちと成育と活動はたらきとに係かゝはる記録、即ち旧約の創世記に対する新約の創世記、是れが馬太伝であるキリストの系図を以て始まり、彼の昇天を以て終る、史家ルナン(注)をして「人類を感化せし最大の書」と言はしめしは此書である、税吏たりしマタイは生れながらにして其頭脳づなうは冷静であつた、彼は冷静に事実有〔あり〕の儘〔まま〕を伝へた、而して其事実有の儘が小説以上の小説、詩歌以上の詩歌であつた、馬太伝に由て世界は一変せられたのである。
 
(注) ルナンは、1823年フランスに生まれた。カトリックの神学校を、退学して哲学の教授として「たぐい無い人イエス」の講義が聖職者の憤激を買い講義を中止させられた。1863年、「キリスト教起源の歴史」の一連の本を出し、「イエスの生涯」はその初めの書籍で多くの賛辞を得た。1892年、フランス3時共和政府はその偉業によって国葬をもって彼を送った。
 
 
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その昔、シアトルに遊んだ。イチロウがヒットの記録を作っている最中であった野球場のの側のマーケットにて。