内村鑑三マタイ伝4講

マタイ4
キリストの系図
明治341220
『聖書之研究』16号「註解」 署名内村鑑三
 
馬太伝第一章
 
一、アブラハムの裔〔こ〕なるダビデの裔イヱスキリストの系図
是れ福音の始めなり、乾燥無味の記事にあらず、其中に貴き福音の伝へらるゝあり、吾等は眼を開いて之を発見すべきなり、
 
○「系図」キリストは神の子なり、彼は人以上の者なり、然れども彼は霊のみの人にあらざるなり、彼は肉躰を具〔そな〕へたる者なりし、彼は「人なるキリスト」なりし、故に彼は吾等と均しく系図を有せり、彼も亦〔また〕肉の人なりし、彼は歴史的に攻究し得べき人物なり
 
○「アブラハム……ダビデ」ユダ人物中の両璧なり、前者は其信仰に依て国民の基礎を据え、後者は武勇を以て一時之を実成せり、アブラハムはユダ国の精神にしてダビデは其形躰なり、而してイヱスは其身に於て両者の粋を鍾〔あつ〕めし者なり、
 
「イヱスキリスト」、「イヱス」は「救は神にあり」の意なり、ヨシユア(約書亜)と同義なり、天使ヨセフに告げて曰く「かれ(マリヤ)子を生まん其〔そ〕名をイヱスと名くべし、蓋はその民を罪より救はんとすればなり」と、ナザレのイヱスは人類のヨシユアなり、即
ち万民の救主なり。
 
○「キリスト」、受膏者の意なり、希臘語〔ギリシア〕ίω(沃そそぐ)より来る、希伯来語〔ヘブライ〕のmessiah(メシヤ)の訳字なり、受膏者は神の特命を拝せし者なり、イヱスは独特の受膏者(the Christ)なり、依て知る、イヱスは通称にしてキリストは其尊号なることを。
二、アブラハムイサクを生みイサクヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生む
信仰のアブラハム、修養のイサクを生み、修養のイサク、策略のヤコブを生み、策略のヤコブ、ユダと其十一人の兄弟を生んで彼の一家に煩累〔はんるい〕絶えず、高きを以て始まりて漸次低きに就く、是れ人生の常なり、キリストの祖先のみ然らざりしにあらず。
三、ユダ、タマルに由りてパレスザラを生み、パレス、ヱスロンを生み、ヱスロン、アラムを生み、
ユダ……タマル」、事、創世記三十八章に詳かなり、就て見るべし、是れ名誉の歴史にあらず、然れども事実は事実なり、福音記者はキリストの完全を飾らんがために其祖先の恥辱を掩〔おお〕はず、殊にタマルなる婦〔おんな〕の名を揚げて更に事の真相を審かにす、以て此系図の確実なるを知るべし、
 
パレス……エスロン……アラム」、共に無名の人、唯系図に其名を留むるのみ、名有て功なき人、唯血統の鏈鎖〔れんさ〕たるに過ぎず、然れ共総ての人は偉人にあらず能〔よ〕く其職に耐えて無為の生涯を送りし者も亦能く神に仕〔つか〕へし人なり。
 
四、アラム、アミナダブを生み、アミナダブ、ナアソンを生み、ナアソン、サルモンを生み。
アミナダブとナアソン、同じく是れ血統の二鏈鎖○ 「サルモン」、聖書に彼の事績を留めず、然れども彼れラハブを娶〔めと〕りて妻となせしを見れば彼はヨシユアの旗下に属せし将官の一人にはあらざりし乎、彼亦〔また〕我国の和田義盛の如き者、賢婦を娶て健児を挙げんと欲せし者にあらざる乎。
 
五、サルモン、ラハブに由りてボアズを生み、ボアズ、ルツに由てオベデ、を生み、オベデ、エツサイを生み。
 
ラハブ」、エリコの妓婦(あそびめ)なり、イスラエルの神を信じ、其民に与〔く〕みしてヨシユアの救ふ所となりし者なり、 (約書亜〔ヨシユア〕記六章)、彼女の功績はユダ人の称揚して已〔や〕まざる所、彼女の名はアブラハムモーセの名と併び称せらる(希伯来〔ヘブル〕書十一章三一節)妓婦たる必しも天国に入る能〔あた〕はざるの資格にあらず、マグダリヤのマリヤもイヱスに其心より七の悪鬼を逐〔お〕はれてより終に聖女たるを得しにあらずや、福音記者がタマルの名に次〔つい〕いで此娼婦の名を掲げしは、其中に深き理由の存せしに非ずや、キリストの祖先に娼婦ありしと聞いて何人か一驚を喫せざらんや、然れども是れ亦神の聖旨なり、多くのアブラハムの女は斥けられて娼妓は反て神の国に迎へられんとはキリストの宣〔の〕べ給ひし所にあらずや、(馬太伝〔マタイ〕廿一章三一節)懽〔よろこ〕べよ、娼婦、悔いて再び罪を犯す勿〔なか〕れ、爾〔なんじ〕も亦神の子たるの資格を有す、爾の同類は曾て世の救主の祖母の一人として算〔かつへられたり、身に万民の罪を担ひて之を十字架に釘つけしキリストは亦爾曹なんじらを憐れみ給ふなり、然りエリコの娼婦ラハブの名がキリストの系図に掲げられて天下幾十万の娼婦に救済の門は開かれたり、○ ボアズ」、貞婦ルツを娶りし人なる事は路得〔ルツ〕記に明かなり、思慮深くして慈愛に富める人、聖書人物中、余輩の敬崇を惹く者の一人なり、○ 「ルツ」、異邦モアブの女なり、彼女亦
「メシヤの母」たるの栄誉に与〔あず〕かれり、左に拙著『路得記』の一節を掲げん、
 
遊女ラハブと共にダビデ王の祖母として列せられ「救世主の母」たるの栄誉に与かりしものは此モアブの婦人ルツなり、此異教国の賎婦にして特種の撰択にかかり、終にダビデ大王の曾祖母たるに至りしは、エホバは心徳を顧み玉ふ神にして、人種宗教等の区別は彼の前には至少の価値をも有せざるものなることを世に示せしにあらずして何ぞや。
エツサイ」、ベツレヘム人なり、ダビデ王の父として有名なり、彼に八子ありたり、ダビデは其季子なり、彼れ農を以て業とし、ダビデは野に其羊を飼ひたり、「エツサイの根」なる称号後にはイヱスにまで適用せらるゝに至れり、善き子孫を有つ者は自身偉大ならざるも後世の称揚する所となる、エツサイは其一人なりき。
 
六、エツサイダビデ王を生み、ダビデ王ウリヤの妻に由りてソロモンを生み、
ダビデ」、ユダヤ人の理想的国王なり、武人にして又詩人、能く剣を採り、又楽を弄べり、堅忍不抜にして又懦弱、敵に当て強く、友に対して脆〔もろ〕く、神を信ずるに篤くして罪を犯すに速かなり、ユダヤ人の総ての長所と短所とは彼に由て代表されたり、彼の子孫たる決して名誉の資格にあらず、心の潔きを望む者は彼の裔たるを以て誇らざるべし、而してイヱスは一回も彼がユダヤ人の王たるを証明するに方て、自身の血統に論及せざりし
 
ウリヤの妻に由り」、事、撒母耳〔サムエル〕後書第十一章に詳なり、就て見るべし、王の背倫不徳恕するに途なし、福音記者も之を記するに恥ぢたりけん、バテシバなる婦人の名を掲げずして単に「ウリヤの妻」とのみ記せり、然れども他人の妻に由りて子を生めりと云ふ、事既に汚辱なり、世に義人なし、一人もあるなし、世の以て理想的国
君として崇むる者も神の眼を以て其行為を探れば概ね皆な斯の如し、誰か王子たることを以て誇る者ぞ、彼も亦罪人の子なり、真正の名誉は神の子たるにあり、人、何人も肉に於て誇る能はず、ダビデ自身も彼の犯せし此罪悪に就て神に懺悔〔ざんげ〕して叫んで曰く
我は我が愆とがを知る、我が罪は常に我が前にあり……視よ我れ邪曲よこしまの中に生れ罪にありて、我が母我を姙〔はら〕みたり。
 
ソロモン」、智慧の王なり、ユダヤ国が其栄華の極に達せし時に其〔あに〕王位に在りし者なり、然れども彼の智慧は罠わなとなりて反て彼を陥おとしいれ、彼の末路は憐むべき品性の破財者のそれなりき、帝王の宮殿に潔士を求むるは豈夫れ難いかな。
七、八、九、十、十一、ソロモン、レハベアムを生み、レハベアム、アビヤを生み、アビア、アサを生み、
アサ、ヨサパテを生み、ヨサパテ、ヨラムを生み、ヨラム、ウツズヤを生み、ウツズヤ、ヨタムを生み、ヨタム、アカズを生み、アカズ、ヘゼキヤを生み、ヘゼキヤ、マナセを生み、マナセ、アモンを生み、アモン、ヨシアを生めり、バビロンに徙〔うつ〕さるゝ時ヨシア、エホアキンと其兄弟を生めり、以上十三人皆な南方ユダ王国の王なり、中七人は悪しき王にして六人は善き王なりし、中、ヨラム、マナセの如きは極悪の王にしてヨサパテ、ヨシアの如きはやゝ同族の積悪を贖あがなふに足れり、然れども悪を為せし者は多くして善を為せし者は尠〔すくな〕かりき、ダビデ王族の歴史も亦罪悪史の一節たるに過ぎず。
十二、十三、十四、十五、バビロンに徙されたる後、エホヤキン、シアテルを生み、シアテル、ゼルバベルを生み、ゼルバベル、アビウデを生み、アビウデ、エリアキンを生み、エリアキン、アゾルを生み、アゾル、サドクを生み、サドク、アキムを生み、アキム、エリウデを生み、エリウデ、エリアザルを生み、エリアザル、マツタンを生み、マツタン、ヤコブを生み。以上十一人中、特に記載すべきの歴史を有つ者なし、ヱホヤキンの兄弟ゼデキアの下に国民バビロンに徙されてより、紀元前六十三年羅馬〔ローマ〕の属邦となるに至りしまで六百余歳の間、民に流離散乱多く、為めにソロモンの栄華を極むる者なかりしと同時に亦其放肆婬逸〔ほうしいんいつ〕に陥りし者もなかりしならん、而して其ヨセフの代に至て国王の継承者が木匠たくみとまで変化せしを見て以て其落魄〔らくはく〕の状を察するに足る。
十六、ヤコブ、マリヤの夫ヨセフを生めり、此マリヤよりキリストと称ふるイヱス生れ給ひき。王家の落魄其極に達して真個のユダヤ人の王は終に生れ給ひき、アブラハムの系統聯綿として繋がれ来りしこと二千余歳、而して茲〔ここ〕に始て約束の子を見るを得たり、今試にキリストの血脉に走流せし血を分析し見んか、之に娼婦ラハブの血も流れ居れり、異邦人ルツの血も流れ居れり、姦婬のダビデの血も、彼の汚す所となりしヘテ人(黄色人種なりしとの説あり)ウリヤの妻バテシバの血も、一千の妻妾を蓄へしと云ふソロモンの血も、偶像に赤子を燔祭〔はんさい〕に供せしと云ふマナセ、アモンの血も皆な神の子の肉躰の中に流れ居れり、嗚呼〔ああ〕、彼れ如何〔いか〕でか之を十字架に釘けずして已まんや、彼は人類の罪を負へりとは蓋〔けだ〕し此事を指して云ひしならん、イヱスの此系図を見
て是れ彼の栄光を顕はさんために記されし者なりと做す者は未だ福音記者の真意を知らざる者なり、イエスの栄光は直に神より来りし者、故に彼の弟子も彼を頌讃するに方〔あたつ〕て曾て彼の系図を引証せしことなし、「彼は肉体に由ればダビデの裔より生れ、聖善の霊性に由れば甦よみがへりし事によりて明かに神の子たること顕はれたり」とは使徒
保羅〔パウロ〕の彼れに関する告白なりし、イヱスは総ての汚辱を其身に受けて之を其聖善の霊性に由て洗ひ潔め給ひしなり、人類救済の希望は此驚くべき神の恩恵に於て存す、故に慰めよ、姦婬に由りて孕〔はら〕まれたる者よ、娼婦よ、偶像を拝する者よ、盗人ぬすびとよ、総て世の有りと凡〔あら〕ゆる罪人よ、爾等救済の途は開かれたり、イヱスの系図に爾等の希望は存す
 
因〔ちなみ〕に記す、キリストはヨセフと直接の血肉的関係なかりしより此系図を以てキリストの受けし遺伝性を論定すること能はずと云ふ者あらん、今此疑問に対して二要点の吾人の注目すべきあり、左に略記す、
一、聖書記者の総躰はキリストのダビデの血族より出たる者なる事を信認せり。(行伝〔ぎようでん〕二章三十節、羅馬〔ロマ〕書一章三節等参考)
二、マリヤ亦ヨセフの血縁にして両者共にダビデ王の裔たりしは馬太〔マタイ〕伝一章十六節、路可〔ルカ〕伝三章二十三節に依り稍々察するを得べし、又彼等の結婚は本家相続の必要上、利未リビ律の或る条項に依て成りし者なるが如し、即ち路得〔ルツ〕記に記されたるルツとボアスとの関係の如きものなりしならん、
 
馬太〔マタイ〕の掲げし系図と路可〔ルカ〕の載せしものとの間に差異あること、并〔ならび〕に二者の調和に就ては別に論究する所あるべし。
190112月「聖書の研究
 
突然わが家の庭の池に、亀が迷い込んだ。悪名高い「みどりかめ」のようである。池にわずかに残ったメダカが食べられないか気になるのだが、逃げ足早く捕まえられないで居る。
万年生きると言うが、我々にとっておめでたくはない。陽が出ると池の石に載って甲羅を干している亀である。どこから来たのだろうか。
 
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