内村鑑三マタイ伝 7講

7講 馬太伝第一章第一節
(七月廿八日柏木聖書講堂に於て)
大正7年910日 『聖書之研究』218号 署名内村鑑三
 
聖書は第一に歴史である、第二に霊的教訓である、第三に預言である、預言と歴史と教訓と、此の三条の糸を以て綯(な)はれし縄が聖書である、故に聖書を解するには常に此三の事実に注意しなければならない、而〔しか〕して此事を念頭に置いて聖書を読む時は一見して無意義なるが如くに見ゆる文字の中にも深き意義を探る事が出来るのである。
新約聖書の劈頭〔へきとう〕第一馬太〔マタイ〕伝第一章第一節に曰〔い〕ふ「アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストの系図」と、而して茲〔ここ〕にアブラハムよりイエスに至る迄の歴代の系図が掲げられてある、是れ勿論系図なるが故に第一に歴史である、イエスは肉体に由れば斯〔か〕かる祖先を以て生れ給うたのである、而して彼は特にアブラハムの裔(こ)であつて又ダビデの裔(こ)であつた、換言すれば彼は神のアブラハムに向て約束し給ひし「汝の子孫に由りて天下の民みな福祉(さいはひ)を受くべし」との約束とダビデに向て為〔な〕されし「我れ汝の身より出づる汝の種子(こ)を汝の後に立てゝ其国を堅うせん」との約束とを身に体して生れ出で給うたのである。
第二に此の系図の中に多くの霊的教訓がある、アブラハムイサクを生みイサクヤコブを生み以下数多(あまた)の人名が列記せらるゝも何〔いず〕れもたゞ誰、誰(たれたれ)を生みと言ひて其の遂〔つい〕にイエスを産出すべき経路に当りし事実を示すに過ぎないのである、之を其各個人自身に就て見ればみな幾多の波瀾ある長き生涯たるに相違なしと雖〔いえど〕も神の子出現の系図として之を見れば彼等は一人のキリストを世に出さんが為の長き連鎖の一環たるの役を力〔つと〕むるに過ぎないのである、茲に於てか人生の短きを知ると共に又一人の偉人を産出せんが為めの地位に当る事の甚だ貴き使命なるを思はざるを得ない、又此系図中に特記せらるゝ三人の女性の名あり、而もそは決して名誉の名ではない、斯〔かく〕の如くイエスが其祖先の中に多くの罪人の名を算〔かぞ〕へて耻とし給はざりしはやがて彼が我等凡〔すべ〕ての罪を負うて十字架に上り給ひし事実を暗示するものである。
而して基督教の重要なる一特徴は実に此二の事実に於てある、基督教は霊的教訓であつて而も之を伝ふるに歴史を以てする者である、歴史を離れての教訓ではない、人稍(やゝ)もすれば聖書に欠点ありと称して之を新文明に適合すべき道徳的教訓に改造せん事を企つる者がある、かの西洋の所謂〔いわゆる〕倫理協会(エシカルソサイチー)の事業〔くわだ〕の如きは即〔すなわ〕ち之れである、しかれども単に真理を宣ぶると経歴を以て之を宣ぶるとの間には天地の差がある、世に真理を語る人少きを憂へない、
唯之を自己の確実なる経験を以て伝ふる人の僅少なるを悲むのである、実験を以てする福音の宣伝者、之れ方今の最大欠乏である、イエスの教に大なる権威ありて人を動かす事深かりしは即ち其真理の背後に潜(ひそ)みし彼の経歴の極めて貴かりしが故である、ユダヤ人中往々にしてイエスの教に新しきものなし、新約の真理は悉〔ことごと〕く旧約中
に包含せらると言ふ者あるもナザレのイエス其人の経歴に至ては何者を以ても之に代ふる事が出来ないのである、聖書は歴史を以て綴りし真理の記録である、此点に於て聖書は論語又はプラトーの書等と根本的に其性質を異にするのである。
然しながら霊的にして歴史的なる聖書は更にまた預言である、凡〔およ〕そ事物の過去と現在とを研究する事深ければ自(おのづ)から其将来に就て示さるゝ処がある、一本の松樹に就て其成長の沿革と現在の生命とを学ぶ者は同時に其将来の発達をも卜(ぼく)する事が出来る、聖書も亦〔また〕然り、其中に過去の歴史がある、現在の教訓がある、而してまた将来に関する預言をも含むのである。
エスキリストはアブラハムの裔(こ)にしてダビデの裔(こ)である、神のアブラハムに向て為し給ひし約束とダビデに向て為し給ひし約束とを共に身に体して生れし人の子である、之れ歴史上の事実であつて而して其中に極めて貴き霊的教訓がある、然し乍〔なが〕ら聖書の示す処は之を以て尽きない、彼はアブラハムの裔(こ)なるが故に彼に由て天下の万民悉く福祉(さいはひ)を受くべき筈〔はず〕である、然るに事実は如何〔いかん〕、彼に由て既〔すで〕に多くの人は福祉を受けた、然れども未〔いま〕だ彼に由て恩恵を受けざる人は更に多数である、即ち知るアブラハムの約束は彼に在て其一部の実現を見たるに過ぎざる事を若〔も〕し夫れ彼がダビデの裔(こ)にして王として国を統治し給ふべしとの約束に至ては其〔そ〕の未だ全く実現せられざる事余りに明白である、彼は或は人類の理想である、或〔あるい〕は多くの人の心霊の支配者である、然し乍らイエス
キリストは未だ決して此世の王ではない、此世の王は今尚ほ彼に敵する者である、此世は今尚ほ悪魔の支配の下に在る、此世は今尚ほ暗黒である汚穢〔おわい〕である、此事実は社会の実情に疎〔うと〕き宗教家教育家よりも寧〔むし〕ろ実際の衝〔しよう〕に当れる政治家実業家の熟知し痛感する所である、彼等は皆曰ふ、今や社会の腐敗は其根柢を犯し到底人力の能く匡(きよう)救(きう)し得る所ではないと、文明は進歩すると雖も世は革(あらた)まらないのである、余過日北海道に旅行して室蘭(むろらん)を過(よぎ)り湾頭の光景を見て感慨に堪えざるものがあつた、往年貧寒の一漁村にしてアイヌ人が帆立貝(ほたてがい)を採集するの場所たりし地今は一変して繁盛なる市街と化して居る、而して其の茲に至りし原因は此地に巨砲製造所の取設けられたる
と之に必要なる鉄及び石炭運搬の為め鉄道の布設せられたるとに由るのである、即ち開発は実は殺人具製造の為めである、而して所謂〔いわゆる〕文明とは多く此類〔このたぐい〕に外ならない、今の世は文明を誇ると雖も依然として悪魔の支配の下に在る、神の子キリスト自ら王として万民を統治し給ふ事の将来の預言たる事は言はずして明かである。
故に馬太伝第一章第一節に於て歴史の事実あり霊的教訓あり之に加ふるに神の約束たる預言がある、「アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリスト」と言ひて其簡単なる言〔ことば〕の中に神の導き給ひし選民の永き歴史を読む事が出来る、又此の歴史を以て伝へらるゝ多くの深くして貴き教訓を味ふ事が出来る、更に後に至て神の必ず実行し給ふべき偉大なる約束を認むる事が出来るのである、斯くして此短き一節の中に新約聖書の全部が包含せらるゝと言ひて謬(あやま)らないのである。
聖書は霊と歴史と預言との三条の糸を以て綯(な)ひし縄である、故に其一を取て他を顧みざる者は必ず偏狭(へんけう)に陥るを免れない、聖書を霊的にのみ解したる者の例はスヱデンボルグである、彼の如くに見る時はアブラハムは実在の人物に非ずして人格化せられたる理想に過ぎない、旧約の歴史は霊的事実を譬喩として書きし謎に過ぎない、
然し乍ら斯〔かく〕の如くに解して聖書は人生を永久に深く感化するの書たらざるに至るのである、次に聖書の歴史の一面のみを探る者はかの高等批評家の類である、彼等は聖書を以て事実の羅列(られつ)に過ぎずとし徒〔いたず〕らに解剖(かいばう)の刀を之に
加へて聖書が供(あた)ふる希望と信仰とを逸するのみならず遂にイエス又は使徒等の実在をさへ疑ふに至るのである、之に反し聖書の預言のみを高調する者は凡ての思想を未来に集中するが為め過去と現在とを忘れて迷信に陥り易き危険がある、キリスト再臨に関する熱狂的一派の如きは是れである、然れども聖書は霊的教訓のみではない、歴史的事実のみではない、預言的希望のみではない、三者鼎立(ていりつ)し且〔かつ〕並進して初めて動かすべからざる真理と慰安とを供するのである、我等の聖書研究の態度は常に此三方面を備へなければならない。
本年五月下旬東京に於て再臨に関する第一期運動の終局に近づきし頃米国費府ヒラデルヒヤに於て全く同一の目的を有する聖書の預言研究大会が開かれた、此集会は日本に於けるよりも遥〔はるか〕に大規模にして来会者数万を算し費府ヒラデルヒヤの大音楽堂に満ち溢れたといふ、然し乍ら其大部分殊に会の牛耳を執りし人々は主として米国の長老教会及びバプチスト教会に属しかの預言を聖書研究上唯一の材料となせる第七日アドベンチスト一派の如きは之に参与せざりしものゝ如く見ゆる、長老及びバプチスト両教会は元来カルビン主義の信仰を有しイエスの神性と聖書の至上権とを確く執れる教派である、従〔したがつ〕て其れ等の人々に由て指導せられし此大会は毫〔すこし〕も熱狂的の趣を帯ぶる事なく極めて冷静なる態度を以て深き真理の研究を為したとの事である、殊に興味あるは其第二日目の司会者としてドクトルハワード・ケリーを戴きし事である、ケリー博士は世界第一の外科医にして戦前は米国及び独逸〔ドイツ〕の両大学に講座を有し一年を切半して両国に於て講義を授けたる人である、彼の最後の希望は一隻の病院船を艤装〔ぎそう〕して世界中を廻航し自己のナイフを以て幾万の病者を救療せん事にあるといふ、斯人(このひと)にして斯会(このくわい)の指導者たり、以て問題の性質を知るべきである。
我等も亦聖書の中に歴史と霊的教訓と預言との三者を探らん事を欲する、希望のみならず実験も亦我等の重んずる所である、実験のみならず知識も亦我等の貴ぶ所である、三者並行して神の言は初めて深き意義を発揮するのである。
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