内村鑑三マタイ伝 3講-その1

3講-1 イエス系図に就て (馬太伝第一章の研究)
十二月第二安息日クリスマス準備講演として青年会館に於て述べし所の大意
大正8年1月10『聖書之研究』222号 署名内村鑑三
 
 
 
新約聖書は乾燥無味の系図を以て始つて居る、洵〔まこと〕に人を引寄ひきよするには最も拙劣なる方法である、曰〔いわ〕く誰、誰を生むと、而〔しか〕して其名が四十二の多きに達するのである、何故にイエスの山上の垂訓を以て始めざる乎〔か〕、何故にパウロの愛の讃美を以て始めざる乎、アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み云々と劈頭〔へきとう〕第一に掲げて読者は之に辟易へきえきして神の言〔ことば〕なりと称せらるゝ聖書を棄るに至るまい乎、是れパンを求むる者に石を与ふるの類ではあるまい乎、論語は「学んで而して時に之を習ふ、亦〔また〕説よろこばしからず乎」を以て始まり、法華経阿弥陀経太平記皆な相応の美辞を以て始まる、然るに惟ひとり新約聖書は「アブラハムの裔〔すえ〕にしてダビデの裔〔すえ〕なるイエスキリストの系図」と云ひて発音し難き人名の羅列られつを以て始まる、無愛相ぶあいそうも亦甚〔はなは〕だしからず耶〔や〕である、書の何たる乎は其劈頭の一句に顕はると云〔い〕ふ、果して然らば新約聖書は乾燥無味、読むに堪へざる書ならざる乎。
○余は之に答へて曰〔い〕ふ「実に然り」と、実まことに新約聖書の如何〔いか〕なる書なる乎は其劈頭の第一節に顕はれて居ると思ふ、砂礫〔されき〕も之を顕微鏡の下に検しらべて見れば其中に珠玉の美を見るが如〔ごと〕く、馬太〔マタイ〕伝第一章も深く之を究むれば是れ亦宝玉の言であつて実に神の真理を伝ふる者である、実まことにキリストの福音其物の性質が能く新約劈頭の此等の文字に現はれて居るのである、「我等が見るべき麗はしき容かたちなく、美うつくしき貌かたちなく我等が慕ふべき艶色みばえなし」とは預言者がキリストに就て語りし所である、而して此人が神の子にして真善美の極であつたのである、見るべき麗うるはしき
容かたちなくして其内に宇宙の真理を宿やどす者、其れで神の子であつて又神の言である、「アブラハムの裔にしてダビデの裔なるイエスキリストの系図」を以て始まる聖書、其聖書が実に神の言である、見るに美うつくしきは人の言である、慕ふべき艶色みばえなきは神の言である、新約聖書の何たる乎は能く其劈頭第一の言に現はれて居る
系図は伝記である、伝記は歴史である、而して明白なる系図を有もちしイエスキリストは疑うたがひもなく歴史的人物である、彼は小説的人物ではない、神話的性格ではない、彼は実在者であつて歴史的人物である、基督者クリスチヤンは自己の理想を画ゑがいて之を神として拝する者ではない、彼はアブラハムの裔すゑにしてダビデの裔なるナザレのイエスを神の子として崇〔あが〕め且〔か〕つ之に事つかふる者である、系図を以て始まりし聖書は歴史的記事である、「巧たくみなる奇談」を伝ふる書で
はない、系図を以て始まる書は信頼するに足る、是れ詩でもない歌でもない、哲学でもない、勿論小説でもない、飾らざる事実有の儘〔まま〕の歴史である。
○神の子が人の裔すゑとして世に臨きたりたりと云〔い〕ふ、是又大なる福音である、彼は突然星の降ふるが如くに世に臨らなかつた、彼は人の家に生れ給ふた、即ち神は歴史に入り給ふたのである、神は即ち個々別々に人に顕はれ給はずして人類の中に入り給ふたのである、即ち神はキリストに在りて世(人類全体)を己と和やはらがしめ給ふたのである(
林多〔コリント〕後五章十九) 斯〔か〕くてキリストの救済すくひは世界的である、我は単独で救はるゝのではない、世界と共に救はるゝのである、然り、宇宙と共に救はるゝのである、故に世界の事、人類の事は「我れ」に関係なき事ではない、世界歴史の中に己れを投なげい入れ給ひしキリストは全世界を化して己が有ものとなすにあらざれば止〔や〕み給はない。
○イエスキリストは第一にダビデの子である、神が預言者ナタンを以てダビデに告げ給ひし言は左の如し
「又ヱホバ汝に告ぐ、ヱホバ汝のために家をたてん、汝の日の満ちて汝が汝の父祖等と共に寝ねむらん時に我汝の身より出いづる汝の種子〔こ〕を汝の後に立て其国を堅うせん、彼れ我が名のために家を建たてん、我れ永く其国の位くらゐを堅うせん、我は彼の父となり彼は我が子となるべし……汝の家と汝の国は汝の前に永く保つべし、汝の位は永く堅うせらるべし(撒母耳〔サムエル〕後書七章十一―十六節)。」
 
而〔しか〕して此約束に合かなふて生れし者がナザレのイエスであつた、彼は真正ほんとうの意味に於てのダビデの「種子」であつた、ソロモンを以てしてに非ず、イエスを以てしてダビデの国を堅うせられ其国は永く保つのである、イエス
在りて神がダビデに約束し給ひし総すべての約束は成就せらるゝのである。
○イエスは第二にアブラハムの子である、神が初めにアブラハムに約束し給ひし言は左の如くであつた
 
「茲〔ここ〕にヱホバ、アブラハムに言ひ給ひけるは、汝の国を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至るべし、我れ汝を大なる国民たみと成し汝を恵み汝の名を大ならしめん、汝は祉福さいはひの基となるべし、我は汝を祝する者を祝し汝を詛のろふ者を詛のろはん、天下の諸もろもろの宗族やから汝によりて祉福さいはひを獲ん(創世記十二章一―三節)。」      
而して此約束を成就せんために生れし者がイエスであつた、アブラハムの真個ほんとうの嗣子はイサクではなくしてイエスであつた、イエスに在てのみ「天下の諸もろもろの宗族やからは祉福さいはひを獲ん」としつゝある、彼れ再び現はれ給ふ時に万国は化して彼の民となるのである。
如斯〔かくのごと〕くにしてイエスダビデの子であつて同時にアブラハムの子であつた、イエスに在りて神が選民に約束し給ひし総すべての約束が成就さるゝのであつた、イエスは真個のほんとうソロモンであつて同時に又真個ほんとうのイサクであつた、
エスに在りて選民の理想は悉〔ことごと〕く且つ完全に実現せらるゝのである。
○斯くして新約は旧約の続きである、新約は旧約に取て代はりて世に出でたる者でない、旧約の継承者けいしようしやとしてあらわれたる者である、直〔ただち〕に天より降りたるイエスキリストではない、アブラハムの子にしてダビデの子なるイエス
キリストである、「我れ律法おきてと預言者を廃すつる為に来れりと思ふ勿〔なか〕れ、我れ来りて之を廃るに非ず成就せん為なり」
と彼は言ひ給ふた、神は過去を重んじ給ふ、彼は進歩を愛し給ふと雖も歴史を無視する革新を行ひ給はない、基督教は猶太教〔ユダヤ〕より生れ出し者である、イエスダビデの子であつて又アブラハムの子であつた、彼はモーセの律法に順〔したが〕ひ給ふた、預言者の言を重んじ給ふた、彼は旧約の預言と希望とを実行せんために世に出たる者である。
 
系図は一見して名の羅列に過ぎない、然れども名は無意味なる者ではない、人の一生の事蹟を短縮したる者が
けいづ名である、名は最も簡単なる伝記である、ダビデと云ひアブラハムと云ひて其内に長い歴史がある、ワシントンと云ふ名の内に米国の起原史がある、西郷隆盛と云ふ名の内に日本の維新歴史がある、イエスの祖先を組成する四十二人の名の内にキリスト以前猶太亜ユダヤ歴史の全部がある、馬太〔マタイ〕伝一章一―十七節はアブラハムよりイエスに至るまでの猶太亜歴史の梗概あらましである、曰ふ「此歴史ありて此人生れたり」と、而して此の歴史を詳つまびらかにせんと欲せば旧約三十九巻を繙ひもとかざるべからず、旧約の研究は新約を解するために必要である。
○名の字義を知るに由て之を佩おびし人(或ひは之を附せし其父母)の性格を覗うかが〕ふ事が出来る、希伯来〔ヘブライ〕人の名に「ヨ」又は「ヤ」の音の多きは注意すべき事である、「ヨ」又は「ヤ」は「ヱホバ」の短縮である、アビア()
「ヱホバは彼の父なり」の意である、ヨサパテは「ヱホバ鞫さばき給ふ」の意、ヨラムは「ヱホバは崇あがめらる」の意、
ウツズヤは「ヱホバの力」の意、ヨタムは「ヱホバは正たゞし」の意、ヘゼキヤは「ヱホバの権能」、ヨシア()は「ヱホバの癒いやし給ふ者」の意である、ヱホバを信ずる民の王の名として孰〔いず〕れも意味ある者である、其他レハベヤムは「民を大ならしむる者」アサは「癒いやす者」、アカズは「所有者」、マナセは「忘るゝ者」、即ち「罪を忘るゝ者」の意であつて孰いずれもヱホバに奉りし尊称を取て以て王の名と為したるものと思はる、人の理想は其名に現はる、殊に其子の名に現はる、ユダヤの王等の佩おびし名の意味を覈しらべて見てダビデの家の如何〔いか〕に信仰の家なりし乎〔か〕を察する事が出来る(続く)
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