内村鑑三マタイ伝 6講ーその1

6-イエス系図-
系図を以てする福音 去年十二月七日柏木聖書講堂に於て
大正3110日『聖書之研究』162号 署名内村鑑三
 
聖書、殊〔こと〕に新約聖書は世界唯一の書であると云ふ、有益なること第一、興味多きこと第一の書であると云ふ、
然るに之を開いて見れば劈頭〔へきとう〕第一に記てある事は乾燥無味の系図(けいづ)である論語は「学而〔まなんで時に〕之を習ふ、亦〔また〕説よろこばしからず乎」を以て始まり、法華経は「諸漏已〔すで〕に尽くして復また煩悩ぼんなうな無く、己利こりを逮得(たいとく)し、諸(もろ〳〵)の有結(うけつ)を尽、心また自在を得たり」とありて阿羅漢(あらかん)の頌徳〔しようとく〕を以て始まる、然るに新約聖書は無愛相(ぶあいさう)にも
アブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエスキリストの系図と云ひて人名の聯続を以て始つて居るのである、書史の意、載せて巻頭の一詞に在りと云へば、論語は時に之を
習ふべく、法華経は常に之を称歎(しようたん)すべしと雖〔いえど〕も、聖書は味ふべきに非ずと云ひて閉ぢて再び之に目を触れざるに至りし者ありとは余輩の曾〔かつ〕て耳にした所である、読者を牽附(ひきつる)方便として聖書は拙くせつの最も拙くせつなる者である、イエス系図を巻頭第一に置いて聖書は自分より読者を駆逐(おひやる)のである、何故に山上の垂訓を以て始めざる、何故に愛の頌讃を以て起さゞる、若し今日或人に由て唱へらるゝが如く、聖書の改作が必要であるならば、而〔しか〕して若〔も〕し其改作が彼等の指名に由て成る聖書改作委員の手に委ゆだねらるゝならば、彼等委員は彼等の新らしき新約聖書を始むるに決してイエス系図を以て始めない事は何よりも明かである、神の聖書は人の聖書と異り審美的でない、
牽引的でない厳格に事実的である、歴史的である、面白くはない、然し乍ら、路傍の雑艸〔ざつそう〕又は砂礫〔されき〕の如くに意味深長である。
 
一、アブラハムの裔なるダビデの裔イエスキリストの系図
少しく改訳の必要がある、アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストの系図と訳すべきであると思ふ、「裔」と云ふに及ばない、原語の文字通りに「子」と訳すべきである、又「アブラハムの子なるダビデの子イエス」と云ひてイエスアブラハムとの関係を間接に為すべきでない、イエスアブラハムの子であつて又ダビデの子であつたのである、即ちイエスは其身に於てアブラハムの信仰とダビデの王威とを代表して居〔あ〕つたのでる、キリスト即ち完全なる救主はアブラハムダビデの合体したる者である、即ち信仰と権威とを一身に体得したる者である、而してイエスは斯人このひとであつたのである、アブラハムの子にしてダビデの子、信仰の長子にして人類の王、
エス即ち信仰の先導みちびきとなりて之を完成まつたうする者
とある、此の意味に於て彼はアブラハムの子である(希伯来〔ヘブル〕書十二章二節)
諸(もろ〳〵)の王の王、(諸もろ〳〵)の主の主と、此意味に於て彼はダビデの子である(提摩太〔テモテ〕前書六章十五節)アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストと云ひて、イエスに関かゝはる過去と現在と未来とが悉〔ことごと〕く示されてあるのである、故に是は決して乾燥無味の言葉ではない、歴史的事実を以て言表(いひあら)はされたる最も意味深き言葉である、人の名は其人の性格を示し、事蹟を示し、理想を示す、ナポレオンと云ひ、コロムウエルと云ひ、ワシントンと云ひ、単に固有名詞ではない、ナポレオンの名が若し暴威を示すならば、コロムウエルの名は敬虔を示し、ワシントンの名は自由を示す、聖書に在りてはアブラハムの名は神に喜ばるゝ信仰を示す名であつて、固有名詞ではなくして、普通名詞である、ダビデの名と雖も同じである、聖書知識のうちにそだちしユダヤ人はアブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストと聞いて、其中に深遠量るべからざる意味を認めたのである、之を乾燥なりと云ひ、無味なりと云ふはそう云ふ人の無識に因るのである、アブラハムの何人なる乎、ダビデの何人なる乎を知りて、是等の二人を父とも有ちし(単に祖先と云ふのではない、父である)……アブラハムダビデとを父とよびしイエスの何人なりし乎、其深い深い意味が解かるのである。
二、アブラハムイサクを生み
イサクヤコブを生み
ヤコブユダと其兄弟を生み
三、ユダタマルに由りてパレスとザラを生み
パレスエスロンを生み
エスロンアラムを生み
四、アラムアミナダブを生み
アミナダブナアソンを生み
ナアソンサルモンを生み
五、サルモンラハブに由りてボアヅを生み
ボアヅルツに由りてオベデを生み
オベデエツサイを生み
六、エツサイダビデ王を生み
ダビデ王ウリヤの妻に由りてソロモンを生み
信仰のアブラハム静粛のイサクを生み、静粛のイサク感情のヤコブを生み、感情のヤコブ剛毅がうきのユダを生み、斯〔か〕くて各様(さま〴〵)の性格を具(そな)へたる父子孫十四代を経てダビデ王に至つた、彼等各自に就て語るべき事は多くある、然れ
ども、茲処こゝに之を語るの必要はない、唯〔ただ〕遊牧の民たりしアブラハムと其子孫とがダビデに至りて終〔つい〕にユダヤ国の王たるに至りしことを記憶して置けば足りるのである。
然し乍ら、猶〔な〕ほ其他に一つ注意すべき事がある、其れはアブラハムよりソロモンに至るまでの系図の中に婦人の名が四つ記されてある事である其一がタマル、其二がラハブ、其三がルツ、其四がウリヤの妻とありてバテシバである、其他イエス系図全部に渉わたりて婦人の名とては彼の生母たりしマリヤの名を除いては他に一つも録しるして
ないのである、然らば以上五人のほかに旧約聖書アブラハム家の婦人として記録しるす所がない乎と云ふに決して爾うではない、先〔ま〕づ第一にアブラハムの妻サラがある、何故(なぜ)彼女の名を掲(かか)げないのであるか、イサクの妻レベカがある、何故(なぜ)怜悧〔れいり〕なりし彼女の名を掲げないのである乎、ヤコブは其妻レアに由りてユダを生んだのではない乎 (創世記二十九章三十五節)、何故なぜ彼女の名を掲げないのである乎、何故に馬太〔マタイ〕伝の記者は是等有名の婦人を省はぶいて特にタマル外三人の婦人を掲げたのである乎、是れ少しく注意して此系図を読む者に何人にも起らざるを得ない問題である。
而して是には深い理由があるのである、而して其理由たるや、以て此系図の精神を明指するに足るものである、此系図は是れ決して乾燥無味なる唯たゞの系図けいづではない、是れまた福音であつて喜よろこばしき音信おとづれである、乾かわいたる砂ではあるが、然し金の粒つぶを混まじへたる砂である、砂金である、豊かに慰藉の金言を混まじへたる貴き福音である。
 
タマルは誰ぞ、彼女は如何〔いか〕なる婦人でありし乎、事は創世記第三十八章に詳〔つまびら〕かである、彼女は決して名誉ある婦人でなかつた、彼女は其身を娼妓(あそびめ)に装よそふて彼女の舅(しうと)なるユダを罪に陥おとしいれた、彼女の素情(すじやう)は多分娼妓であつたのであらう、舅(しうと)が其嫁(よめ)に対して為せし背倫的行為に由て出来たる二人の子がパレスとザラとである、而してイエスの祖先の中に斯かる者があつたと云ふのである、記者は殊更(ことさら)に斯かる記事を掲げたのである、祖先の恥辱であつて又子孫の恥辱である、而かも明白に此記事を掲げたのである、其目的如何(いかに)?
ラハブは誰ぞ、彼女は如何なる婦人でありし乎事は約書亜(ヨシユア)記第二章に詳かである、就て読むべしである、ラハブはタマルと違ちがひ純粋の娼妓であつた、彼等(ヱリコに)往きて娼妓ラハブと名〔なづ〕くる者の家に入り云々とある(〔一〕二節)此婦人が後にヨシユア配下の一人なる勇将サルモンに嫁し、彼等の間に儲(まふけ)し子がルツの夫をつとたりしボアヅでありしとの事である、タマルとラハブ、二人共に娼妓、其一人は多分、其他の一人は確実(たしか)に、而して彼等よりしてイエスが終〔つい〕に世に生れたりと云ふ、驚くべき記事、大胆なる記事、而かも是れ新約聖書の劈頭に於ける明白なる記事である。
 
世人の立場より見て、パリサイ人の立場より見て、サドカイ人の立場より見て、教会信者の立場より見て、娼妓を祖先に有もつことは確(たしか)に恥辱である、然し乍ら、エスキリストの立場より見て此事は決して恥辱でなかつた、然り、彼は反かへつて此事を誇り給ふたのである、彼は曾〔かつ〕て自己おのれの清浄を誇りし祭司の長(をさ)及び民の長老等に告げて曰〔い〕ひ給ふた、
実(まこと)に誠(まこと)に汝等に告げん、税吏(みつぎとり)(俗吏)及び娼妓(あそびめ)は汝等より先きに神の国に入るべしと(馬太伝廿一章三十一節)彼はパリサイの人シモンの家に客たりし時に、邑(まち)の中にて悪行(あしき)を為せる或る婦人をして(今日で謂〔い〕へば醜業婦(しうげふ)香油をもて己が足を濡さしめ、其頭髪かみのけをもて之を拭(ぬぐ)はしめ、而して人の彼と彼女とを咎(とがむる)あれば大に彼女のために弁じ、終に彼女を顧(かへり)みて言ひ給ふた、汝の信仰汝を救へり、安然にして往け
(路加〔ルカ〕伝七章三十六節以下)、斯くてエスに取りては婦人の娼妓たりしことは彼が彼等を愛するに些少(すこし)の妨害さまたげにもならなかつた、彼は神の眼を以て人を視たまふた、即ち人を視るに其の表面(境遇をも含む)を視ずして其衷心(こゝろ)を視たまふた、娼妓も亦神の女童こどもである、彼等と雖も神に対する其心の態度如何〔いかん〕に由りてはイエスの姉妹たることが出来るのである、而して神は娼妓をイエスの祖先の中に加へて堕落婦人の救済を確かめ給ふたのである、廃娼運動の本原は茲〔ここ〕に在るのである、エスが代りて死(しに)たまひし可憐の女子を救はんためである、我等は姦淫〔かんいん〕に由りて生れし者に非ず、我等に一人の父あり即ち神なりと言ひて自身の清浄を誇りしユダヤ人に対し、彼は汚けがれし婦人を弁護し、人の子は地に在りて亦姦淫の罪をも赦し且〔か〕つ之を潔きよむるの権能ちからあることを証あかしし給ふた(約翰〔ヨハネ〕伝八章四十一節)然らばルツは如何いかに? ルツは異邦モアブの婦人であつた、其民はヱホバの神を拝せずしてケモシの偶像に事〔つか〕へ、所謂〔いわゆる〕「イスラエルの籍に〔あらざ〕る異邦人にして、夫の約束を以て結び給ひし契約に与あづかりなき者」であつた(以弗所〔エペソ〕書二章十二節)、モアブ人はヱホバの会に入るべからず、彼等は十代までも何時いつまでもヱホバの会に入る可らざる也とはモーセの律法おきての規定であつた(申命〔しんめいき〕記二十三章三節)殊に異邦の婦人を娶〔めと〕りて妻となす事はモーセ律の厳禁する所であつた、汝、彼等(異邦の民)と婚姻を為すべからず、汝の女子むすめを彼の男子に与ふべからず、彼の女子を汝の男子(むすこ)に娶めとるべからずと(申命記七章三節)、今日の言葉を以て言へば、信者は不信者を娶るべからず、又不信者に嫁〔か〕すべからずとの事であつた。(続く)
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