内村鑑三マタイ伝5講

マタイ5
クリスマス演説イエス系図
明治391210日『聖書之研究』82号「講演」署名内村鑑三
 
アブラハムの裔〔こ〕なるダビデの裔〔こ〕イエスキリストの系図。馬太〔マタイ〕伝第一章第一節。
 
是れは新約聖書劈頭〔へきとう〕第一の言葉である、爾〔そ〕うして聖書を読む者の大抵〔たいてい〕が何の思考(かんがへ)もなくして読み下す一節である、彼等は此一節に何の意味も含まれて居らないと思ふ、彼等の多くは新約聖書を繙〔ひもと〕き其の困難むづかしき名の行列を以て始つて居るのを見て、ツマラない書であると云ひて之を閉ぢる、イエス系図の中に貴い基督教の真理が含まれてあるなどゝは彼等は聞いても容易に信じない。
然しながら是れ深く聖書を究めないからである、或ひは基督教に就て深く考へないからである、聖書は神の言葉であると云ふ、然らば其発端に於て無用の文字が書いてありやう筈〔はず〕はない儒教のすべては論語の劈頭第一、学而がくじの一節の中に籠つて居るといふではない乎〔か〕、基督教のすべては馬太伝一章一節の中に籠つて居らないであら
ふ乎〔か〕、余は聖書を読む者が此事に注意しないのを見て甚〔はなは〕だ怪しとする者である。
アブラハムの裔こなるダビデの裔イエスキリストの系図」と、先づ第一に改訳の必要がある、「裔」は「子」と改むべきである、「ダビデの子」の下に「なる」の二字を加ふるの必要がある、又「アブラハムの子なる」の下に句切くぎりを打つの必要がある、アブラハムの子なるダビデの子イエスキリストではない、アブラハムの子にして又ダビデの子なるイエスキリストである、イエスキリストは直接に二人に関係して居るのである、此一節は即ち左の如くに改訳すべき者である、
 
アブラハムの子なる、ダビデの子なる、イエスキリストの系図
と、邦訳聖書改訳の必要は其馬太伝第一章第一節に於ても顕はれて居る。
此一節の言辞ことばを原文に於て読めば左の順序となる、
系図、イエス、キリストの、子、ダビデの、子、アブラハム
と、すべて七字である(原語のBiblios-geneseos を一字として読む) 爾〔そ〕うして其各字の中に大なる福音が含まれて有る。
系図」イエスキリストにも系図があつたとのことである、以て知るべし彼は歴史的人物であつたことを、イエスは詩人の夢想に成つた人物ではない、彼は洵〔まこと〕に人なるキリストイエスである(提摩太〔テモテ〕前書二章五節)、彼が人でありしことを知るのは彼が神でありしことを知るだけ必要である、彼は奇跡を行ひ、死より甦〔よみがえ〕り、天に昇りし者でありしと雖〔いえど〕も、霊ではなくして肉と骨とを着つけたる人であつた、彼は此世に在て生き、呼吸し、食ひ、泣き、愛し、憎まれし者である、そは我等が弱きを思ひやること能〔あた〕はざる祭司の長〔おさ〕は我等に有ることなし、彼はすべての事に於て我等の如く
 
誘〔いざな〕はれたり、然れど罪を犯さゞりき(希伯来〔ヘブル〕書四章十五節)
エスキリストは其肉体に於ては我等と同じ人であり給ふた、系図を有つて居る血と肉との人であり給ふた、
故に彼は我等の救主と成ることが出来たのである(希伯来書二章十七節参考)
「イエス」イエスとは希臘ギリシヤ語であつて希伯来ヒブライ語のヨシヤである、ヨシヤとは旧約聖言の約書亜〔ヨシユア〕記のヨシヤと同じ名である、其意味は「ヱホバは救ひなり」である、万民を救ふ故にイエスと名〔なづ〕けたり(馬太〔マタイ〕伝一章廿一節)
然かし其名の意味は別に注意すべきではないと思ふ、注意すべきはその性質である、イエスの名はユダヤ人の中(に在て最も普通なる名の一つであつた、ユダとか、ヨハネとか、ヤコブとか云ふと同じく多くの男子に附けられ、)たる名であつた、ナザレの小村にも幾人いくたりかのイエスがあつたに相違ない、我国に於て云へば重蔵とか佐平とか太
郎とか云ふと同じく最も普通なる名であつた、エスの名に由て彼が平民中の平民であつたことが分かる、彼は学者や官吏が何の注意をも払はない者であつたに相違ないナザレのイエス、太田村の佐平、誰か此人が世に生れ来りし最大の人物であると思ふたらふ、ローマのカイザル、ヱルサレムのカイヤバと聞いたら何人も尊敬の意を表したであらふが、イエスと聞いては其名に何の貴い所がなかつた。
「キリスト」希伯来ヘブライ語のメシヤを希臘ギリシャ語に訳したものである、「塗ぬる」とか「注ぐ」とかの意であつて、受膏者の意である、メシヤとは猶太〔ユダヤ〕人の理想の人である、預言者イザヤは此メシヤに就て言ふた
一人ひとりの嬰児みどりご我等のために生れたり、我等は一人の子を与へられたり、政事まつりごとはその肩にあり、その名は奇妙、また議士、また大能の神、永久とこしへの父、平和の君と称へられん(以賽亜〔イザヤ〕書九章六節)
と、斯〔か〕かる者は人ではない、神である、猶太人の思想に従へばメシヤ即ちキリストは神の子であつて、人の王である。
然るにイエスがキリストであるとのことである、ナザレのイエスが、大工の子イエスが、大能の神、永久の父、平和の君と称へらるべきメシヤ即ちキリストであるとのことである、是れ驚くべき告知しらせではない乎、人は容易に此事を信ずるであらふ乎、試に茲〔ここ〕に若〔も〕し太田村の佐平なる者が天子の子であると云ふ者があるとしたならば誰が
其宣言を信ずるであらう、イエスキリストと、イエスはキリストなりと、洵〔まこと〕に我等が宣ぶる所を誰が信ぜしや
 (以賽亜〔イザヤ〕書五十三章一節)、然かも馬太〔マタイ〕伝の記者は大胆にも其福音の劈頭に於て此宣言を為したのである、是れ神の福音にあらざれば狂人の妄語たわごとである、驚くべき言とて之に勝〔ま〕さるものはない。
而〔し〕かも此エスは普通の平民ではない、彼は罪人として、神を涜けがす者として十字架の刑に処せられたる者である、賎しき生れの者であつて耻辱の死を遂げたる者である、国賊である、背信者である、凡て木に懸る者は詛のろわれし者なりと聖書に録してある、然るにイエスは木に懸けられたる者である、故に詛〔のろ〕はれし者である、世に嫌ふ
べき、避くべき、遠ざくべき者にして此イエスの如きはない。而かも此イエスがメシヤであるとのことである、若し然らば人間の思想はすべて間違がつて居つたのである、若し然らば貴き者は王公貴族にあらずして平民である、若し然らば世の罪人必しも悪人ではない、人類の模範たるメシヤは平民であつて、罪人として殺されたる者
である、嗚呼〔ああ〕、若し然らば帝王は帝王ではない、平民は平民ではない、罪人とて禽獣扱ひを為さるべき者ではない、イエスがキリストなりと聞いて世界は震動した、之に由て帝王の位は揺動ゆるぎだした、平民の向上かうじやうは始まつた、イエスキリストと、此賎いやしき名と貴き名との並列に由て人類の歴史に新期限〔紀元〕は開かれた。
エスは洵「まこと」にキリストである、人類を救ふ者は実に彼である、帝王ではない、富豪ではない、学者ではない、
ナザレの村に大工の職を執り、静かにして貧しき生涯を送りし後に、罪人として十字架の刑に処せられし者である、是れが人類の救主で、亦〔また〕我等各自の救主である我等基督信者の信仰はすべて「イエスキリスト」の名に含まれて居る、イエスをキリストとして戴くが故に我等はすべての困難、すべての屈辱に耐え得るのである、イエスがキリストであると信ずるが故に人の下に立つことを恥と思はざるのである、イエスをキリストとして受けて我等の人生観は一変した、我等は大なる人とは高楼玉殿に住つて居る人であると思ふた、然れどもイエスがキリストであると聞いて、我等は偉人を農夫、職工、商人の中に探ぐるやうになつた、人類に伝へられし福音にして之に勝りて貴い者はない、イエスキリスト、イエスがキリストである、頭を擡〔もた〕げよ、平民と労働者よ。イエス
キリストである、謙遜へりくだれよ王公と貴族。千九百年前に此名が響き渡つて、世界の根本的改造が始まつた。
ダビデユダヤ人の理想の王、すべての権能の代表者、其「子」たりとは其血統を引いた裔すえであると云ふに止まらない、子とは其精神の継承者である、エリシヤはエリヤを我が父我が父と呼んだ(列王紀略下二章十二節)、而かも彼はエリヤの肉体の子ではなかつた、エリシヤはエリヤの精神を承〔う〕けた故に其子であつた、其の如くダビデの子とはダビデの権能と栄位とを承継うけついだ者である、爾うしてナザレのイエスは真正の意味に於てダビデの子である、彼は肉体に由ればダビデの裔より生れたばかりではない(羅馬〔ロマ〕書一章三節)、彼れはより深き、又、、より高き意味に於てダビデの子である、彼は洵(まこと)に王である、ユダヤ人のみならず、人類全体の王として仰がるべき者である、神は彼にすべての権能を授け給ふた、彼は人を救ふ者で又人を鞫さばく者である、彼は愛すべき者で又恐るべき者である、故に詩人は彼に就て予言して曰ふた、子に接吻くちつけよ、恐くは彼れ怒を放ち、汝等途に滅びん、その忿恚(いきどほり)は速かに燃ゆべければなり、すべて彼に依頼む者は福〔さいわ〕ひなり(詩二篇の十二節)
 
アブラハムの子」イエスダビデの子であると同時に又アブラハムの子である、権能の代表者であると同時に又信仰の代表者である、信仰の美徳は其のすべての形に於てイエスに於て顕はれた、彼は死に至るまで順ふ
(腓立比〔ピリピ〕書二章八節)、イエスの場合に於ては子は遥かに父に優まさつた、イエスの信仰は遥かにアブラハム以上であつた、アブラハムの真正の子はイサクではない、イエスである、イエスに於てアブラハムの信仰は其最高点に達した。
アブラハムの子にして、ダビデの子なるイエスキリストの系図是れは実に貴い言葉である、約翰〔ヨハネ〕伝第一章第一節にも劣らない、深い貴い言葉である、是れは聖誕節の標語として最も適切なる言葉である、彼は彼の祖先の希望を悉〔ことごと〕く身に体して生れ給ふた者である、彼は彼の驚くべき生涯と死とに由て人類の思想を一変し給ふた、彼は最大の改革者である、我等が今日あるを得しは全く彼が在つたからである、我等は今日アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストの弟子であることを忘れてはならない、
 
栄光は永久に父と子と聖霊の上にあれ、とこしへアーメン。
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