内村鑑三マタイ伝2講 聖書研究の一例

第二講聖書研究の一例 馬太〔マタイ〕伝一章一節の研究
 
○昔より言ふことであります、論語の全部は其巻頭第一の言葉なる「学んで而しかして時に之を習ふ亦説(よろこ)ばしからず乎〔や〕」の内に籠〔こも〕つてゐると。聖書に於ても其通り、亦それ以上でありまして、聖書各書の意味は其発端の一節又は数節の内に含まれてある事を看出します。創世記第一章第一節の内に創世記全部、更らに進んで聖書全部の意味を読むことが出来ます馬太伝一章一節は馬太伝全部の縮写として見ることが出来ます、更に進んで其内に新約聖書全部を読込むことが出来ます。如此くにして聖書研究の最善の方法の一は聖書六十六巻各書の最初の言を研究することであります。一節の内に全書が籠ると云ふのであります。不思議に見えて不思議でありません。
凡て完全なる者は斯〔こ〕うあります。全宇宙は人一人に現はれてゐます。大木は之を其葉一枚に於て読むことが出来ます。
詩人ワルヅワスが曰ひしが如くに、若し私供が草の葉一枚を完全に知るを得ば、宇宙人生を知り悉〔つ〕くすことが出来ます。
 
アブラハムの子なるダビデの子なるイエスキリストの系図
誠に簡短極まる言であります。是は之れ丈けの言であつて其内に何の深い意味の在り得やうとは思へません。
然し乍ら路傍に転ころがる礫いしころも見やうに由ては全地球の歴史を語るやうに、馬太伝巻頭の此一節も読みやうに由ては
全人類の歴史を語ります。先づ第一に知るべき事は人名は凡て歴史であると云ふ事であります。豊臣秀吉と云ふは単なる固有名詞でありません。長い歴史であります。秀吉の子秀頼と云ふは日本歴史に於て意味深い事であります。其如くにアブラハムと云ひアブラハムの子と云ふはユダヤ人の歴史に於て、然り全人類の歴史に於て意味深長の事であります。アブラハムユダヤ人の祖先であります。そしてユダヤ人は四千年の歴史を有し、今猶〔な〕ほ世界の大勢力として繁栄する民であります。そのアブラハムの子であると云ふのであります。イエスキリストはユダヤ人であります。若し人類の歴史に於て十六偉人を指名するならば、其内少くとも五人はユダヤ人であると云ふ、そのユダヤ人として生れた人であります。今や日本人の多数が憧憬の瞳ひとみを睜みはりつゝあるカール・マルクス
も亦ユダヤ人であります。日露戦争に際し日本に同情して軍資の応募に努力して国民の感謝を担ひし所の紐育〔ニユーヨーク〕の富豪シツフ氏も亦ユダヤ人であります。四千年前に偉大なりしユダヤ人は今に猶ほ偉大であります。アブラハムの子たるは、其事自身が既に偉大性を表はします。
○然し乍らアブラハムの子と云ふは単に其血を受けてゐると云ふに止まりません。其精神を承継うけついでゐると云ふ事であります。パウロは曰ひました
アブラハムの裔すゑなればとて悉く其子たるに非ず、惟〔ただ〕イサクより出る者汝の裔と称〔とな〕へらるべしと録〔しる〕されたり。
即ち肉に由りて子たる者、是等は神の子たるに非ず、惟約束に由りて子たる者は其裔とせらるゝなり(ロマ書九章七、八節)。と。アブラハムの心を以つてアブラハムの如くに行はざる者は、アブラハムの血統を継ぐと雖も其子に非ずとの事であります。そしてイエスは殊に其意味に於てアブラハムの子であつたのであります。アブラハムの特性は其信仰に於てありました。アブラハム神を信ず、其信仰を義とせられたり とあります(ガラテヤ書三章六節)。そしてイエスも亦信仰の人でありました。信仰の事に於て彼はアブラハム
唯一子であつたと云ふ事が出来ます。
唯一人を指して汝の裔と言へる也、是れ即ちキリストなり(同十六節)
とあるは此事であります。如此くに見てイエスは何の点から見てもアブラハムの正当の子であります。アブラハ
ムの血を受け、其信仰を受けて更らに之を完成した者であります。イエスの場合に於ては子は父に優〔ま〕さりました。
彼はアブラハム家の最善最美の者でありました。そして彼に在りて神が曾〔か〕つてアブラハムに約束し給ひし「万国の民は汝に由りて福〔さいわい〕を獲べし」との其御約束が成就されつゝあるのであります(同八節)アブラハムの唯一子、イサク以上の一子イエスキリストの伝記たる馬太伝は万民挙〔こぞ〕つて学ぶべき書なりとの事を示すのであります。
 
○イエスアブラハムの子であり又ダビデの子でありました。アブラハムは信仰の父であつてダビデは神の民の王でありました。そしてイエスアブラハムの子でありしと同じ様にダビデの子でありました。即ちダビデの血を承けしと同時に其位に即くべくありました。天使が処女マリヤに告げしが如くであります。
主たる神その先祖ダビデ王の位を与へ給へば、ヤコブの国を窮りなく治めん、且その国終ることなかるべし (ルカ伝一章三二、三三節)
 
エスアブラハムの子として万民を福ひするに止まらず、ダビデの子として万国を治むべき者であります。
彼に慈愛が有るに止まらず権威があります。彼は何時〔いつ〕までも人に蹂躙〔じゆうりん〕せられながら其忍耐を表はし給ひません、
 
時到れば其臂ひぢの力を発あらはして心の驕おごれる者を散らし、権柄いきほひある者を位より下し、卑賎〔いや〕しき者を挙げ、飢たる者を美食に飽かせ、富める者を徒しく返らせ給ふ(同五一、五二節)。故にイエスの伝記は十字架上の死を以て終りません。
彼に復活があり昇天があり再臨があらねばなりません。キリスト伝は福音書を以つて始まり、使徒行伝〔しとぎようでん〕、書翰を経て黙示録に終るが当然であります。彼はダビデの子であつて、其王位を承継〔うけつ〕いで万民を治むべき者であるからであります。彼が最後に御自身を称して「我はダビデの根また其裔すゑなり、我は輝く曙あけの明星なり」と言ひ給ひしは是が故であります(黙示録二十二章十六節)パウロも亦言ひました
彼れ凡ての敵を其足下に置く時までは王たらざるを得ざれば也(コリント前書十五章廿五節)
と。私供はイエスの使命の半面、殊に大切なる半面の彼が万民の王たる事であるを忘れてはなりません。
○如此くにして馬太伝一章一節の意味が少し明かになりました。「アブラハムの子にしてダビデの子なるイエス
キリストの系図」と云ふのであります。更に詳しく研究すれば「キリスト」なる称号の意味出所を究むるの必要があります。然し今日は之を略します。「系図」は之を「伝記」とも訳する事が出来ます。故に一章一節を馬太伝全部、更らに進んで新約聖書全体の表題として見ることが出来ます。
○如此くにして基督教は聖書に在ります、其各書に在ります、其各章各節に在ります。キリストの福音は聖書全部を通して漲〔みなぎ〕つてゐます。其何処を割〔さ〕いて見ても神の生命の血が迸〔ほとばし〕ります。そして夫〔そ〕れが喜びの音信であります。神が罪人を赦し救ひ給ふ其聖業みわざの告知つげしらであります。又万物の復興、宇宙の改造に関はる聖示せみしめしであります。
アブラハムの子にしてダビデの子なるイエスキリストの伝」。此一言に全宇宙の響きがあります、同時に又私の心の囁〔ささや〕きがあります。ハイドンの作曲『造化』の響きも此響に外なりません。ヘンデルの大作『メシヤ』も亦
此響きを伝ふるに過ぎません。他の事は悉く忘れられても、他の人は悉く消えても此人のみは残ります。世界の
歴史は偉人の伝記であると云ひますが、殊に其一人なるイエスキリストの伝記であると云ひて間違ありません。
人類は誇り顔に気儘放題を言ひ且行ひつゝある間に毎日キリストの伝記を綴〔つづ〕りつゝあります。彼は信者にはアブラハムの子として、不信者にはダビデの子として現はれ給ひつゝあります。何んと愉快なる事ではありませんか。
 
19288月「聖書の研究」より
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「八重の桜」の八重が始めて取り組んだのはマタイの福音書であった。ただしこの系図は学ばなかったようだ。その時世には内村がいなかったのではなく、「聖書の研究」がまだ発刊されていなかった。八重の夫になる新島襄は、内村の安中教会で最初の結婚式の司式をした。八重と新島が出会う前のことだが。