ロマ書9講

 
第九講 問題の提出(三)
-第一章十六節、十七節の研究 -
ロマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
前講において説きしごとく、十七節の中心問題は「義」である。神の義が福音においてあらわれたというのがその主眼である。原文において「義」なる語が眞先に出てゐることに注意すべきである。神の能(ちから)も恩惠も、その義をはなれては加えられぬというのである。福音を單なる恩惠または愛の敎えと解すべきでない。義が厳然としてその根柢をなしてゐるのである。そして單にこの十七節が然るのみならず、ロマ書全體がこの「義」を根柢としてゐるのである。
 
神の義」の眞意如何、またいかにしてそれが福音においてあらわるるか、この問題については學者間に諸説紛々たるありさまである。委細は第三章後半に至つて明瞭となることであるゆえ、ここでは一つの注意だけに止めておく。そもそも「われは福音を恥とせず」と斷じたるパウロは、その理由として、「この」福音はユダヤ人をはじめギリシア人、すべて信者を救わんとの神の力たればなり」と言うた。然るに彼はこれをもつてなお不充分なりと感じて神の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至ればなり」と附加したのである。福音は萬人を救う神の力であるのみならず、この福音において神の義が顯彰せられてゐるというのが彼の主張である
 
神の力である、また彼の義である。義であるがゆえに力である神にありては、義ならざるものは力でない。福音は神の力であると言いて、勿論彼の腕力ではない。またこの世のいわゆる権力ではない。神の義である。ゆえにその力の顯彰(あらわれ)である。人にありては、力が義と離れて存在する場合がすくなくない。然れども神にありては、力すなわち義である。義すなわち力である。キリストの福音が人を救うための唯一の力である理由は、それがもつとも明らかに神の義をあらわすからである。義をもつてはたらく力であるがゆえに、パウロは福音を恥としなかつたのである。
 
神の義は信仰によつて受け、信仰によつて保ち、信仰によつて完成するものなることを意味したのであると。
 
神の義とは神より人に與えらるる義、神よりあらわしたまいし義であつて、人の努力の産物たる人の義ではない。人は自己の行(おこない)や功(いさおし)によらずして、ただ信仰のみによつて神に義とせらるるのである。すなわち神の義を信仰によつて受けるのである。これ人に與えらるる大なる恩惠にして、また人の抱ける大なる特権である。いかなる人といえども、ひとたびひるがえつて父なる神と主イエス・キリストとを信ずるに至れば、その信仰という一事をもつて、罪をゆるされて義とせらるる恩惠に浴するのである
 
然らばこの恩惠の継続のためには自己の努力を必要とするか否な、ただ主キリストを仰ぎ見る信仰をもつてのみ足る。すなわち義を持続する道は、そして聖められ進む道は、ただ信仰を保つのみである。換言すれば、信仰によつて義とせられしのちの生涯は、信仰によつて聖められるのである。すなわち神の義を信仰によつて保つのである。
 
然らばこの義はいかにして完成さるるか。人の努力によるか。否な然らず。ただイエスを仰ぎ見る信仰の結果として與えらる。換言すれば、信仰によつて義とせられ、信仰によつて聖めらるる生涯は、その終りにおいて、信仰によつて榮化さるるのである。榮化は義の完成である。すなわち神の義は信仰によつて完成さるるのである。
 
右のごとく、神の義は信仰によつて受け、保ち、完成さる。これ「神の義は信仰より信仰にまで(あらわる)」の意味である。信仰をもつて始まり、信仰をもつて進み、信仰をもつて終る。その最始において、その中道において、その最終において--そのすべてにおいて信仰中心である。
 
信仰に入り、その信仰を持続するというただの一線の上に、宇宙間においておよそ人に加えられ得る最大の幸福が與えられるのである。これを傳うるが福音である
 
神の恩惠は宇宙に充ちてゐるではないか。神の愛は萬物にあふれてゐるではないか。天より露を下して草木をうるおし、野の鳥に生の歡喜を聾高く歌わしめたもう神は、無限の恩寵を人に與えんとして、つねに準備したもうのである。ただこれを受くべき人が心足らずして、あるいは頑執(かたくな)をもつてこれをしりぞけ、あるいはむなしき努力の幽谷に彷徨して、受くべき唯一の資格に思い到らないのである。受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざるときにおいては、與えんとして待ちたもう天父も、ついに與うるに道がないのである。
 
然り、ただ信仰である。信仰をもつて始終一貫するのである。「地獄に落つるとも、あくまでキリストに依り頼まん」とバンヤンは叫んだ。この世においても、後の世においても、キリストに依り頼みて變らざる信仰である。
 
この信仰の持続ありて、義とせられ、聖められ、榮化せらる。言いかえれば、信仰のゆえに義は與えられ、保続せられ、完成せらる。救いは義を根柢とし、信仰のゆえに實成するのである。
 
然らばこの義は何ゆえに、信仰によりて與えられ、保たれ、完成せらるるか。この義と神の愛との共存する理由如何。これを明白に解明したのがロマ書である。ロマ書研究の價値と興味とはここにある。委細は後に出ずるところ、今はただ問題として提起せられたのである。
 
義人は信仰によりて生きん」とは、ハバクク書第二章四節よりの引用である。
 
義しき者は信仰によりて活くべし」と。語それ自身が偉大なる語である。そしてこれを、汚濁なる世相を前にして發したる豫言者の確信としてながむるとき、その傳うる精神の壯烈と思想の高貴とは覗く我らを打つのである。パウロはこの偉大なる語を引用し究つて、これをロマ書の大精神として描出したのである
 
義人」の意義如何、また「生きん」の意義如何。いかなる罪ある者も、信仰によりて罪をゆるされて義とせらるというのであるから、むしろ「罪人は信仰によりて生きん」と言う方、可なりと思う人があるかも知れぬ。また「世の人こぞりて神の前に罪ある者」である以上、一人として義人はないはずであると言うこともできる。
 
しかしながら、ここにパウロが義人をもつて意味する者は、かのみずからをもつて義とするパリサイ的義人でないとともに、何ら罪を犯すことなき道德的に完全なる者ではない。完全に義しき人は、この世においては一人もない。そもそもロマ書は、信仰をもつて義とせらるることを説くをもつて主眼とするゆえにこの場合、豫言者ハバククの語を引用せし際においても、パウロは「義人」の一語の中にこの一事を包含せしめたに相違ないと思う。すなわち道德的に神の前に完全に義しき義人にあらず、信仰をもつて神に義とせられたる義人である。パウロはそれを意味したのであると思う。次ぎに「生きん」の語において意味するところは、現代人の意味するところのごとく茫漠たるものではない。「生命」の一語はすなわち永生を意味するのである。されば「生きん」の一語は「かぎりなく生きん」を意味するのである(ヨハネ傳六章五七節、五八節參照)。すなわち滅亡をまぬかれて永遠の生命に入ることを意味するのである。
 
思うに「信仰により(よる)」の句を、前にも後にも關係せしめて、「信仰による義人は、信仰によりて生きん」と讀むは、パウロの眞意にもつとも近きものではあるまいかそもそもパウロの意味する義人は「信仰による」義人である。信仰によりて義とせられし義人である。かかる義人はまた「信仰によりて」生くるのである。信仰によりて義とせられ、信仰によりて生く。これパウロ的意味におけるキリスト信者である。
第一本館は、
第一、義とせらるること(一章十八節 ~五章)
第二、聖めらるること(六章、七章)
第三、榮化せらるること(八章)
 
の三に分たるるのであるが、「信仰による義人」の一句は第一に當り、「信仰によりて生きん」の一句は、第二、第三に該當するのである。すなわち「信仰による義人」とは、信仰によつて義とせられしクリスチャンを指すものにて、第一章十八節~第五章に當り、「信仰によりて生きん」は、この世より來世にわたる永生を意味するものにて、聖めらるることと、榮化せらるること(六章より八章まで)に當るのである。されば「信仰による義人は信仰によりて生きん」の一語は實にロマ書の第一本館の模型というべきものである。この一語をまずかかげたるパウロは、これを引きのばして第八章までの大論述をなしたのである。そして第一章~第八章は實にロマ書の主體であつて、。十六節、十七節はロマ書の主題提示で、ロマ書の縮圖であるが、その主題の最後にあるこの一句は、さらに小なるその縮圖というべきものである。我らはこの一小句に深甚なる注意を拂うべきである。
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蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀(どべい)のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
 
そうして、さうして、神さまは、
小ちやな蜂のなかに。