ロマ書の研究第57講ー訳説

第五十七講 約   説
パウロの傳道方針(十五章十四 ~ 三三節の解譯)
 
兄弟よ、私はここに長々と、福音の實理とその應用について諸君に書き贈つた。しかしながら、これ決して諸君が愛と知識とに不足してゐると思うたからではない。私は、諸君が慈愛に滿ち、すべての知識をもつて滿たされ、また相互を勧め得ることをよく知つてゐる(十四)。しかしながら諸君よ、私はなお諸君に、諸君がすでによく知る事を思い起こさせんがために、ここかしこに、少しくはばからずして書き贈つたのである。かくなせしは、神が私に賜いしところの惠みによる(十五)。惠みというは他なし、私が異邦人のためにイエス・キリストの役者(えきしゃ)となり、神の福音をもつてする祭司の職に當たり、聖靈によりてきよめられて、神の聖旨(みこころ)にかなう供え物として異邦人をささげんために選まれしというその惠みをいうのである(十六)。このゆえに、私は他の事については語ることはできないが、神の事に關しては、イエス・キリストによりて語ることができると信ずる(十七)。すなわちキリストが、異邦人をしてご自身に服從せしめんがために、私をもつて働きたまいしこと、言葉と行動(はたらき)と、しるしと奇跡の力と、聖靈の力とをもつて、私をもつて働きたまいし事、しかしてかくのごとくにして、エルサレムよりあまねくイルリコに至るまで、私をして福音を傳えしめたまいし事、これらの事のほかは、私はあえて何事をも語らないであろう(十八 ~ 十九)。その他に、私になお一つの野心がある(φιλοτιμεομαι)。それは、私が、他人の置いた土臺の上に築かないということである。私はキリストの名のいまだ唱えられざる處に福音を宣べ傳うるをもつて私の方針と定めた(二〇)。すなわちイザヤ書五十二章十五節にいえるがごとし、

   いまだ彼について宣傳を受けざりし者が見るであろう、
   いまだ聞くことを得ざりし者が悟るであろう(二一)

と。かかるしだいであつて、私は幾たびも妨げられて諸君にいたり得なかつた(二二)。しかるに今やこれらの地方に福音を傳うべきの處なく、また私は年來諸君の處に行かんことを願えるがゆえに(二三)、いつにても私がイスパニヤに行かん時に諸君の處に行くであろう。私はかの地に行かんその途中に諸君を見んと欲する。しかしてほぼ意(こころ)に滿つるを待てのち、諸君に送られてかの地に行かんと欲する(二四)。されども今や私は聖徒に貢(みつぎ)せんがためにエルサレムに行かんとしてゐる(二五)。その理由(わけ)は、マケドニヤとアカヤの人々、エルサレムにある聖徒の内の貧しき者のために寄付をなすことを喜びとしたからである(二六)。まことに彼らは喜んでこの事をなした。彼らは彼らに負うところがあるのである。そは、もし異邦人たる彼らがユダヤ人たる彼らより靈につけるものを受けたらんには、彼らは肉につけるものをもつて彼らに仕うるの義務があるからである(二七)。このゆえに私がこの事を成就(じょうじゅ)しこの實(み)を彼らに渡してのちに、私は諸君にいたり、また諸君に送られてイスパニヤに行くであろう(二八)。そして私は知る、私が諸君の處にいたらん時に、キリストの惠みみに滿ちていたるであろうと(二九)。

 かかるしだいであれば兄弟よ、私はイエス・キリストにより、また聖靈の愛により、諸君に願う、諸君が私のために力をつくして私と共に神に祈らんことを(三〇)。すなわち私がユダヤにある信ぜざる者の手より救われ、またエルサレムにおける私の奉仕が聖徒の心にかない(三一)、しかして神の聖旨(みむね)により喜びをもつて諸君にいたり、諸君と共に慰めを得んことを(三二)。願わくは平安の神、諸君と共にいまさんことを。アァメン(三三)
 
 以上によつて、パウロのローマ敎会に對する態度が判明する。すなわちローマ敎会はパウロの建てた敎会ではないのである。ゆえに彼はこれに對するに大なる遠慮をもつてした。彼がガラテヤ敎会に對して「愚かなるかな、ガラテヤ人よ」といいしがごとく、またはピリピ敎会に對して「わが愛するところ、慕うところの兄弟、われの喜びわれの冠たるわが愛する者よ」といいしがごとき言葉をもつてローマ敎会に對しなかつた。自分の建てた敎会でなかつた、ゆえにこれに對して適當の遠慮と禮節とをもつて臨んだ。しかしてかくなすのが當然である。「愛は非禮をおこなわず」という。他人の子を自分の子として扱つてはならない。これを稱して「敎職の禮儀」という。しかしてこの禮儀のおこなわるる處にのみ傳道は成功するのである。
 エルサレムよりイルリコまで。遠い距離である。直径にして千四百マイル(約二、二五〇キロメートル -- 編者)ある。ちょうど鹿兒島より青森までの汽車線路のマイル數である。パウロは彼の三囘の傳道旅行において、少なくともこれに四倍するの距離を通過したであろう。その間に數個の大市があつた。キリキヤよりアナトリヤ高原に達するに有名なる「キリキヤ門」の峡路があつた。黒海よりアドリヤ悔までバルカン半島を横斷する Egnatian Road の國道があつた。その間に多くの人種が住まい多くの國語が話された。かつてアドルフ・ダイズマンがパウロ研究を遂げんと欲して、彼の足跡を踏まんとして、大なる困難を感じたことがある。汽車汽船の便なかりしローマ帝國時代における困難は推量せられる。コリント後書十一章二十五、二十六節を見よ。
 
 パウロは謙遜と從順を旨とするキリストのしもべであつた。されども彼にもまた一つの野心があつた。第二十節に「われ愼みて」とあるは弱い譯字である。英譯には so have I strived(われ努めて)としてあつて、欄外に being ambitious(わが野心とするところは)と記入してある。ギリシャ語の φιλοτιμεομαι は、字義なりに譯して「われ名譽を好む」である。ゆえにパウロがここに「われに野心あり」というたと解して少しもさしつかえないと思う。そしてその野心は何であつたかというに、「われは他人のすえた土臺の上に建てじ」ということであつた。パウロは愛の人であつたと同時に名を重んじ恥を知るの人であつた。彼はコリント人に書き贈つていうた、「わが誇るところ(名譽)を人にむなしくせられんよりは、むしろ死ぬるは善きことなり」(コリント前書九・十五)と。パウロに日本武士の魂があつた。彼は卑しい事はなし得なかつた。武士が「拾い首は取らない」ように、パウロもまた他人の功を奪わなかつた。「ペテロに能力(ちから)を與えて、割禮を受けたる人の使徒となしし者、またわれにも能力を與えて、異邦人の使徒となせり」と彼がいいしとおり、彼は初めより彼の傳道の区域を定めた。そしてこの規定を厳守して彼は決して他の使徒たちの領分に切り込まなかつた。ペテロはユダヤとその付近に、トマスはたぶん東の方インドヘ、その他使徒たちは各自それぞれ傳道の区域を割り當てられたのであろう。しかしてパウロの領分は當時の世界において最も文明に進みたる部分であつた。いわゆる「異邦」であつた。ギリシャ文化の行き渡りたる國々であつた。アカヤ、マケドニヤ、イタリヤ、イスパニヤ、地中海北岸の全部であつた。そしてこの廣い区域にキリストの福音を宣べ傳うる事と、これにあわせて他人のすえた土臺の上に築かざる事とが彼の傳道の方針であり、またクリスチャンとしての欲望すなわち野心であつた。ローマにいたらんとす。されども長くとどまらんとしない。イスパニヤにいたらんとするついでにこれをおとなわんとする。ローマは異邦の首府である。ゆえにパウロの領分に屬する。されどもローマ敎会の土臺は他人によりてすえられた。ゆえにこれに干渉するを好まない。これを重んずる。愛する。これを敎えんがために長き書簡を書き贈つた。しかしこれを自分の敎会として扱わない。他人の権利を重んじ、その事業を尊ぶ。彼は帝國の首府はその傳道に先鞭(せんべん)をつけし人たちに譲り、自分は世界の西端イスパニヤに行いて、そこに十字架の福
イメージ 1
 
音を傳えんとした。偉大なる、ノーブルなる、男らしきパウロよ。もしも梁川(やながわ)庄八正國のごとき日本武士がキリスト敎の傳道師となつたならばパウロのごとくにおこなつたであろう。されども、ああ