ロマ書の研究第54講

第五十四講 キリスト敎道德の第四
社会の一員としての愛
十三章八 ~ 一〇節


 

 
 パウロは十二章において愛の道を説き、その最後においては愛敵の勧めに入り、これに促されて、十三章においては政権服從の大義を唱道し、その終わりにおいて「なんじら、受くべきところの人にはこれを與えよ。貢(みつぎ)を受くべき者にはこれに貢し、税を受くべき者にはこれに税し、恐るべき者には恐れ、敬うべき者はこれを敬え」(七)というた。そして彼は次の八節より十節までにおいて再び愛の敎えを説く。ゆえに八節より新題目に入つたのではあるが、意味においては七節の続きである。いわく「なんじら、愛を負うのほか、すべての事を人に負うことなかれ。そは、人を愛する者は法律を全うすればなり」と。税を納めよ。貢を納めよ。拂うべき者にはすべて拂え。愛のほかは、すべての事において人に負うなかれ。いっさいの負債義務責任を果たせよと敎えるのである。
 八節 ~ 十節は、十二章後半と同樣に、愛の敎えである。從つて、パウロに反復または冗長の罪を歸(き)する人もある。しかしながら十二章の愛は、一個の人として隣人に對していだくべきものをいい、十三章のそれは、國家の一員たる者にとつての法律の實行力としての愛である。同一の愛にしても、全然異なる立場よりながめられたものである。甲は個人道德としての愛であり、乙は國民道德としての愛である。これは、前後の關係より見てきわめて明らかなることである。
 八節前半「なんじら互いに愛を負うのほか、すべての事を人に負うことなかれ」の一語は、パウロの發せし偉大なる語の一つである。これを正確に譯せば、「何びとにも何ものをも負うことなかれ。ただ相互に對する愛だけは別なり」となる。何びとにも何ものをも負うなかれ。負債はことごとく償却し、義務はことごとく果たせ。ただし愛を負うことだけは全く別である。愛の義務は一生負うておるべきものであるという意味である。
 愛のほか、何びとにも何ものをも負うなかれとは、人生の一軌範としてまことにたいせつなることである政府に對し社会に對し隣人に對し、果たすべき義務はこれをすみやかに果たせ。あるいは物質をもつてする義務、あるいは身体をもつてなすべき責務は、できるだけ正確に果たせ。たとえば納税のごとき、これを怠りていつまでも負債として止め置くなかれ。期限内に正確に納入して、負うところなきに至れ。また借財のごときは斷じてこれを避くべきである。やむを得ずしてこれにおちいりたる時は、一刻も早く償却すべく努力すべきである。負債の中にあるは、健全なる生活の大なる支障である。そのため人に對する独立心を喪失し、卑屈陰柔の生活におちゐるおそれがある。あるいはそのために親族故舊の間の友誼を妨げ、誤解を生み、人をもわれをも害し苦しむる恐しき結果を起こしやすきものである「負うなかれ」とは、單に借財を誡めた語ではない。これはすこぶる廣義において人生の全般に關する誡めである。負うなかれとは、義務を果たさぬままにしておくなかれの意である。人は世に生まれ來て、各方面に對してなすべき義務をいだいてゐる。主権者に對しては忠誠の義務、師長に對しては尊敬の義務、親に對しては服從の義務、人に對しては奉仕の義務をいだいてゐる。その他、この世に生を享(う)け、家族の一人として、また社会の一員として、また國家の民として、各種の義務を双肩にになつてゐる。これ人として自然のことである。人はこの義務を承認し、これをりっぱに果たすべきである。これすなわち負債償却である。何びとにも何ものをも負うなかれとは、この負債償却 - 義務遂行 - を怠るなかれとの意であるしかるに現代の多くの人は義務は少しも果たそうとしない。
 しかし「愛」の一擧に至りては全く別である。愛は相互に對して負えるままにてよいのである。愛はとうてい果たし得ない負債である。人を愛することには限界がない。ある程度まで、またはある時期まで愛したからとて、愛の負債は償却されない。愛は一生涯持ちつづけねばならぬもの、ゆえに一生涯かかりても拂いつくされぬ負債、果たしつくされぬ責務である。ゆえに愛を施すべき責任は常に持ち続くべきものである。すなわち愛だけは負うがよいのである。愛を負わずといえば、もはや全く愛さなくなつたのである。されば、相互に對する愛だけは、あくまで熱心に負うべきものである。
 人と人との間にありては、相互に對する義務は完全に果たして、賃借なしの關係においてあるべきものである。されば人は相互に對して愛の負債をいだきて、その關係を一生涯つづくべきである。もともとわれらは、神に對してなすべき務めを果たさずして、重き負債の中に陥没しおりたるものである。しかるに神はそのひとり子の死をもつてわれらの負債を消除したのである。換言すれば、ひとり子がわれらに代わつて負債を辨償しくれしゆえ、われらはもはや神に對しては自身負債償却の道に入る必要が失(う)せたのである。ここにおいてか、神に對して拂うべきを、人に移して拂うに至るべきである。別の語をもつていえば、神すでにわれらの罪をキリストのゆえに赦免したるゆえ、われら、この大愛に感激して、人を愛するの態度に出づるを當然とするのである。これすなわち愛の負債である。愛さねばならぬという義務である。これ一生涯かかりてもとうてい拂いつくせぬ負債である。これだけは、ありて名譽、無きは不名譽である。
 
 
 九節はいう、「それ姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、僞りの證を立つるなかれ、むさぼるなかれといえるこのほか、なお誡めあるとも、おのれのごとくなんじの隣を愛すべしといえることばの中にこもりたり」とここに列擧せし五つの禁條は、十誡第六條以下である。おのれのごとくなんじの隣を愛すべしとは、レビ記十九章十八節にある誡めである。イエスは、この誡めおよび神を愛すべしとの誡めをもつて、すべての律法中の最大なるものとなし、「すべての律法と豫言者はこの二つの誡めによれり」(マタイ傳二二・四〇)とさえ、いい切られた。パウロもまたこの精神になろうて、この誡めをもつて、十誡第六條以下、すなわち對人道德を一括せしめたのである。まことにしかり。人に對する道を列擧すれば、十誡の第二部を初めとし、この世の道德、この世の法律、その數をさえ數え得ないほど多くある。しかしながら「おのれのごとくなんじの隣を愛すべし」といえば、これらのすべてを盡くしてゐるのではないか。隣人を愛すること、われを愛するごとくすれば、いかなる場合においても對人道德は滿たし得るのである。ゆえにすべての道德や法律は失(う)せ去つてもよい。ただ「おのれのごとくなんじの隣を愛すべし」との誡めだにあれば足るのである。
 八節後半には「そは人を愛する者は律法を全うすればなり」の句あり、また十節は「愛は隣を害(そこな)わず。このゆえに愛は律法を全うす」とある。ここの「律法」なる文字には定冠詞が附いていない。ゆえにモーセ律または舊約律法のみをさしたのではなく、おおよそ法律という法律、道德という道德を不定的にいうたものである。法律とは、人々の権利を維持してその侵略を防ぐためのものである。ゆえに、法律の種類、その無數の條文、それのために生存する裁判官と辨護士……なんぞ複雑のはなはだしき。ただ愛あれば、隣人の利を計るも害を計らない。ゆえに、愛あるところ、法律はあるも無用である。愛によりて、他人の生命や處有物が確保さるれば、法律の要はなくなつたのである。いかにして法律を民に厳守せしむべきかは、一つのむずかしき問題と見られてゐる。しかしパウロのここに提出する道は愛である。「人を愛する者は律法を全うすればなり」は、「…したればなり」の意味である。人を愛せし者は、事實上すでに法律を全うしてしまつたというのである。そして法律を全うしてしまえば、法律はその目的を達したのである。
 國に對する道いかに。國家の一員としての責務いかに。まず権能服從である。次は、すべて愛をもつて人に對することである。この愛さえあれば、法律の各個條はおのずから實現されるのである。愛のなきところには、法律はいかにその威権を増すも、充分には實行せられない。すなわち愛は、社会の一員として社会的の義をおこなう道である。ことにクリスチャンにおいてはこの事を明確に悟りおらねばならない。誡めはしごく簡單なれども、意味は深長、效果は明確である。古來、福音のよく行きわたれる社会においては國法のよく守られたるは、この理由によるのである。服從と愛とをもつて國法に從い、かつこれを全うしたからである。法律を守ることは、法律以上の愛の上に立ちて、法律を超越して、初めて可能である。これを超越せるゆえ、これに拘泥(こうでい)せず、かえつてこれを守り得るのである。
 
「かくのごとくなるべし」とは、以上いっさいの實践敎訓を實行すべしとの意である。そして「われらは時を知れり。今は眠りよりさむべきの時なり。そは信仰の初めよりさらにわれらの救いは近し」といい、以下有名なる大文字となるのである。これすなわち再臨の希望をもつて、道德の實行、行爲の緊張を迫つたのである。翻つて十二章の初めを見るに、「されば」といいて、恩惠の救い全部の説明を受け、「神のもろもろのあわれみをもてなんじらに勧む」といいて、もっぱら道德の土臺として、信仰による恩惠を置いてゐる。そして今最後には、再臨救濟の希望をもつて道德實行の奨励者となしてゐる。おこないは信と望との間にある。信をもつて土臺とし、望をもつて激励者として、おこないは擧がる。そしてキリスト敎において、おこないといえば、愛というと、ほぼ同一である。信だけにては足らず、望だけにても足らず、兩者兼ねそなわりて、愛は初めておこなわれるのである。これすなわちパウロ特愛の三連語として彼の書簡に散見せる「信、望、愛」の敎えである。(その最も著しきものがコリント前書十三章にあるは、人の知るところである)。信をもつて義とせられて、感謝のあまり愛の生活に入る。しかも何か、あるあざやかなる目標の、前程にそびゆるなくしては、愛の歩みはともすれば弛緩(しかん)しやすい。すなわちここに救いの希望がある。救いの日は、信仰の初めよりますます近よれりとの實感は、一脈の緊張味を愛の歩みに與えるのである。かくて信望愛は信仰生活の三要素として缺くべからずである。まことに完全なる敎え、至れり盡くせる人生の指針というべきである。われらはいつまでも父、子、聖靈の神を信じて、信、望、愛の三標語を守らんかな!
 
 
第五十四講 約   説
負債とその償却(十三章八 ~ 一〇節)
 
 
 何びとにも何ものをも負うなかれ。ただし相互に對する愛は別なり(ロマ書十三・八)
 このゆえに、律法を完全(まっとう)するものは愛なり(同十三・一〇)
 
 
 「何びとにも何ものをも負うなかれ。ただし相互に對する愛は別なり」。負債はことごとくこれを償却すべし。ただしすべてを償却するなかれ。あるものを負うて、相互の間に關係を維持せよ。しかして愛の義務は永久にこれを果たし終わることあたわず。愛の負債は永久にこれを償却するあたわず。愛はこれを何びとにも負わざるべからず。しかして愛の負債を存して、人は互いに相負うて、相互と親密の關係を維持することができる。
 法律に限りなし。「愛は律法を完全す」。愛ありて、刑事訴訟法民事訴訟法も全く用なきに至る。キリストの愛の福音があまねくおこなわれて、法律は不用となる。「醫者いらず」の良薬あるがごとく、「法律いらず」の明敎がある。キリストの福音がそれである。
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