キリスト教道徳

 
283 ロマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
 
内村鑑三は、ロマ書の研究で46講「キリスト教道徳の根底」と題してこの聖句を引用しています。次のように言います。但し聖書によって訳が違いますのでご紹介しておきます。
 
文語訳 さればなんじらに勧む、兄弟よ、神のもろもろのあわれみをもて、その身をささげよ、神の心にかなう聖き生ける供え物として、これ、なすべきの祭なり
されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸すすむ、
 
口語訳 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
 
塚本訳 (このように、神は偉大な計画によって人類を一人のこらず救おうとしておられるのであって、救いは確かである。)だから、兄弟たちよ、わたしは神のこの慈悲を指してあなた達に勧める。あなた達の体を(感謝のしるしとして神に)捧げよ。この生きた聖なる犠牲こそ、神のお気に入るものであり、(霊なる神を拝むにふさわしい、)あなた達の霊的な礼拝である。(あなた達の礼拝は動物を供えるような不合理なものでなく、全心全霊をささげる合理的な礼拝でなければならならない)
 
前田訳 それゆえ、兄弟たちよ、神の慈悲にたよってあなた方に勧めます。あなた方の体を、生き生きとした、聖らかな、そして神のお気に召すいけにえとしておささげなさい。それがあなた方の霊的な礼拝です。
 
新共同 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
この語をもつて、一章十七節以下の既説全部を受けての語であると見てゐる。この語は、ロマ書の敎義部と道德部の間に立つところの「されば」である。ゆえに敎義部の全体を受けての語であると見るが最上の見方と思う。すなわち「なんじら、キリストによりて義とせられ、神と新しき關係に入らしめられたれば」の意である(サンデー)。義とせられ、聖められ、救いの希望を持たせられたれば -- かく數々の大なる惠みに接したれば -- いいがたき喜びと安きを與えられたれば…という意である。かく「されば」をもつて呼び起こさるる道德の勧めである。ただなすべし、なすべからずの誡めではない。充分の根底ありて、おのずから現われねばならぬ勧めである。
 
實にその一字一句が意味深き語である。これ實にキリスト敎倫理の根本的原理である。實にこの一節をもつて倫理入門と稱することができる。
 
實践道德を説く、根なくして、葉の茂り花の開くはずがない。しかるにこの世の人らは営々としてこの不可能事に從事してゐる。さりながら敎義は人生の第一問題の解明である。神と人との關係がまず義(ただ)しくされなくては、他のすべての事は義しくされない
 
キリスト敎道義(道徳)はキリスト敎敎義を根幹として立つ花葉である。ゆえにこそ、根幹より養汁を受けて榮ゆるのである。根底なくしてただひとり立つところの倫理道德は、あたかも瓶に植えし花のごとく、しぼみ果つるほかない。この點において、キリスト敎道德は普通の道德と根本的に相違してゐる。自己の義とせらるる事、聖めらるる事、救わるる事の奥義を學び、進んで全世界に關する聖圖の秘義を學びて、歡喜と希望の歌が高く揚がる
 
 しかるのち實際道德に入るのである。われら、心の根本に生命を供給せられずば、いかに傑秀なる道德といえども、これを實行する道がない。人生の根本問題が解決され、罪の苦悶がその根底より癒やされ、神の前に義とせらるるに至り、榮化の聖望に心おどりて歡喜と平和わが全身をうるおすに至るときは、心はおのずから生命と力に滿ちて、道德は求めずしておこなわれるのである。これ道德的生活を實現する最上の道である。
 
「神のもろもろのあわれみをもてパウロは何を勧めるのか。いわく「その身をささげよ」である。パウロがここに、その身(体)をささげよとのみいいて、全身全靈をささげよとも、なんじ自身をささげよともいわなかつたことについては種々の説がある。しかしながら、その身すなわち肉体をささげよと明示してある上は、それが肉体的獻身を意味することはもちろんである。パウロは何ゆえこの事に重きを置いたのであるか。彼は第二節において「心をかえて新たにせよ」と勧めてゐるゆえ、第一節にはもっぱら体のことをいうたのであろう。そもそも人の肉体なるものは、人間が事をおこなう道具である。これをもつて、人は惡をもなしまた善をもなす。これをサタンの誘うままに濫用し惡用するが世の常である。その最もはなはだしき例はすでに一章末段にしるされた。この惡用されやすき、また罪の機關となり得る肉体を、神にささげて、彼のために用うるは、心をきよむると共にまた肉体を聖むる道である。神のために、この肉体 -- この頭、手、足を用うるが、ここにパウロのいう獻身である。その身をささげよとは、卑近なるがごとくにして實は深き勧めである。」(ロマ書の研究46講、「キリスト敎道德の根底」)
 
キリストはわれらに代わりて、「世の罪を負う神の小羊」として、みずから燔祭の壇におのれを滅ぼせしゆえ、われらの燔祭はすでに終わりて、今や感謝を表する酬恩祭をささぐべき時となつたのである。しかしながら今や牛や羊をささぐるは神の心にかなうところではない。今ささぐべき犧牲は自己の肉体である。聖き生ける供え物である。死せる牛や羊は今や供え物たる價をもたない。生けるわが体を全部 その肢体と共に全部 ささげてしまうこと、これ「神の心にかなう」供え物である。これをわれらは感謝の意味において、恩惠に酬(むく)ゆる意味においてささぐべきである。そして神の聖きみわざのためにわが体を全部用うべきである。
273 ロマ6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい
 
 
十二章一節はそのように言っているのです。、まことにこれがキリスト敎道德である。キリスト敎道德は全き獻身をまず第一とする。それよりすべて行爲の細末にわたるのである。しかし、獻身というも、單なる命令ではない。まず神の恩惠に豐かに浴し、人生の根本問題を解かれて、歡喜滿悦のあまり當然なし得る獻身のすすめである。かくして深められたる心より自發的に起こるところの愛のおこないと生涯である。何の根底なき道德ではない。根底を明らかにせられしゆえ合理的になし得るところの道德である。理にかなつて心からおこない得る道德である。賦課ではない。心からなし得る獻身、喜んでなし縛る獻身、およびその結果としての行爲である。これがキリスト敎道德である。わずかに一節の中に、キリスト敎道德の大体が説かれたのである。
 
道徳とは、
人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く
 
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