ロマ書の研究第37講-1

 

第三十七講 救いの完成(四):1
八章五 ~十三節
 
ロマ書八章の一節より十三節までを讀みて、たれにも明らかなることは、「肉」なる文字の多いことである。この語は第三節より出はじめて、十三節までに、實に十三囘の多きに達してゐる。パウロは何ゆえに、かく數多くこの語を用いたのであるか。それは、靈の反對は肉なるゆえに、肉について知るはすなわち靈について知るゆえんであるからである。換言すれば、靈の事を明白ならしめんためには肉について知るを要するからである。
なお注意すべきは、ロマ書八章を研究する時の心得である。この章は救いの完成について説いたもので、パウロの信仰の絶頂であり極致である。從つてこれを理解することは容易でない。しかもパウロは今までとちがつて、これに數章を費さずしてわずかに一章を用いたのみであるゆえ、。
本講は、この意味において「肉」なる語を説明し、これについての誤解をただすを目的とする。われらはまず左のごとき語に注意する。
肉のことを思うは死なり(六)
そは肉のことを思うは神にもとるがゆえなり(七)
肉におるものは神の心にかなうことあたわず(八)
もし肉に從い仕えなば、死ぬべし(十三)
人はこの世にありて肉体に包まれて生きてゐる。最も貴しといわるるその靈魂さえも肉体の中に宿つてゐる。肉体を保持するためには、飲食、衣服、住居の必要がある。もし肉のために計ることが惡いというならば、人は一時も生存してゐることができぬ。さらばパウロの右の語は、あたかもわれらに向かつて「自殺せよ」というと同じではあるまいか。もし、しかりとせば、これ人に向かつて不可能をしゐることであるといわねばならない。
キリスト敎を禁欲主義、隠遁主義(いんとんしゅぎ)の敎えと見る人を大別して二極とすることができる。第一種の人は不信者の中にある。彼らはキリスト敎を禁欲隠遁の敎えと斷じ、とうてい實行不可能なりとし、ゆえにとうてい信受することあたわずという。キリスト敎を禁欲の宗敎と見る第二種の人は、信者中のある者であるこれは昔より今に至るまで、一つの流れをなして歴然として存してゐる。キリスト敎の歴史を見れば、時を異にし處を異にして禁欲的傾向の出現するを見る。しかしながらキリスト敎ははたして禁欲隠遁の宗敎であろうかパウロがしりぞけしところの「肉」なる語の意味はいかように解すべきであろうか。これ明らかに一つの問題である。まず注意すべきは、キリスト敎の根本精神が決して禁欲厭世にないことである。キリストがしばしば婚姻の例を引きて、自己を花婿にたとえたるは周知の事實である。「花婿の友、その花婿と共におるうちは悲しむことを得んや」(マタイ傳九・十五)といいて、自己を花婿にたとえ、また自己の再臨を花婿の入來(にゅうらい)にたとえた(マタイ傳二五-二六章)。キリストは花婿であつて、信者は花婿の友であり、あるいは花嫁であるというのである(パウロがコリント後書十一章二節において、「われ、なんじらを一人の夫に婚約せり。これなんじらをきよきおとめとしてキリストにささげんとするなり」といいしを見よ)。またイエスはその實際生活において、ヨハネの禁欲生活と對照せられて、「食をたしなみ酒を好む人」といわれたほどであつた。またヨハネの弟子やパリサイの人の斷食するに對して、彼の弟子は斷食しなかつたとある(マタイ傳九・十四)。彼の生活には何ともいいがたき、一種のうるわしき自然さがあつた。それは斷食その他の禁欲的行爲をもつて宗敎の要諦(ようてい)と考えていたパリサイの輩と著しき對照をなした。エスの敎訓と生涯とを見て、キリスト敎が禁欲の宗敎ならざることは明らかである。
キリスト敎は禁欲主義の宗敎でないのみならず、かえつて禁欲主義を排斥する宗敎である。パウロは、晩年において、キリスト信徒の間に禁欲的傾向の起こつた時、これを誡めていうた、「なんじら、もしキリストと共に死にてこの世の小學を離れしならば、なんぞ世にありて日を送る者のごとく人の誡めと敎えとに從い、さわるなかれ、味わうなかれ、觸るるなかれという律法の下にあるや……」(コロサイ書二・二〇~ 二一)と。これ禁欲を主とする舊き律法の下にあるを非難せし語である。また彼は結婚を禁ずる一派を異端として排した(テモテ前書四章)。「めとることを禁じ食を斷つことを命ずる」敎えを「人を惑わす靈と惡鬼の敎え」となして排し、「それ神の造りしものはみな美(よ)きなり。感謝して受くるときは捨つべきものなしキリスト敎は禁欲主義の敎えでない。さりとてその正反對なる放縦主義の敎えでもない。キリスト敎は主義ではない。生命である。すなわち死せる原理や律法ではない。生ける一つの生命である。生命なるがゆえに、固形した規則や主義法則はない。常に溌剌(はつらつ)として動くものである。いまロマ書八章十三節を見るに、「もし肉に從い仕えなば死ぬべし。もし靈(聖靈)によりて体の働きを殺さば生くべし」とある。生命の動くところ、まことにかくのごとくである。まことに自力をもつて肉を殺すのではない。律法として肉が禁ぜられるのではない。聖靈の力をもつて適當に肉を處分するのである。「体の働きを殺す」とあるも、人としての固有の欲を禁壓してしまうという意味ではない。肉をして人を支配せしめないようにすることである。すなわち肉の支配を脱することである。聖靈の力をもつて肉の支配を脱し、聖靈の指導の下に適宜に欲を處理して行く。これがパウロの意味するところである。「靈(聖靈)によりて」という一句に深い意味がある。この句がなければ、パウロも普通の禁欲的信者と選ぶところがない。この一句にキリスト敎の特殊的性質が含まれてゐるのである。
聖靈は、キリストを信じキリストを仰ぎ見る結果として與えらるこの聖靈を與えられて、その指導と力の中におのれをゆだねる時、人は肉に支配されないで、肉は適當に支配される。禁欲という一方の極端に行かず、放縦という他方の極端に走らずして、よろしきにかなうに至るのである。聖靈をもつて肉を支配してゆく道は、第一には、有效的であるという長處がある。自力によらず聖靈の力によるのであるゆえ、自力のごとく失敗に終わるおそれがない。これすなわち有效的なるゆえんである。そして第二の長處は、この道による時は自然にして無理なくまた見苦しからぬという點である。いわゆるよろしきにかないておのずから則(のり)を超(こ)えずである。この二つは明らかにその長處である。
。聖靈を受け聖靈の指導をもつて適宜に肉を處分してゆくよりほかに、人が肉に勝つ道はないのである。
さらば欲はいかがの程度において制限すべきか。答えていう、自己を義とせざる範圍においておこのうべしと。たとえば慈善は、自己のある物を捨てたのであつて、一種の制欲である。この慈善をなして、自己を義としてきよしとし、美(よ)き事をなしたりと誇るようでは誤つてゐる。誇り得ざる程度内にて施すべきである。自己をきよしとせざる程度において、すなわち自然にできる程度において施すべきである。ただし聖靈の指導の下にありておこなわねばならない。ゆえに時に從つて變化があり増減がある。聖靈ゆたかに下らば、施しの度もまたゆたかとなり、聖靈の力を感ずること小なる時は、施しの度もまた小となるのである。
規則ではない。主義ではない。鞭撻(べんたつ)ではない。聖靈に導かるる生活である。ゆえに、禁欲というも、普通の禁欲ではない。禁酒禁煙というがごときも、われらは主義や律法としてこれに支配されておこなうのでない。靈が滿たされて、心に平安滿悦を味わう自然の結果として、おのずから酒やたばこが不用となつたのである。これがキリスト信者の禁欲(もし禁欲といい得べくば)である。
 
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