ロマ書の研究第45講

第四十五講 ユダヤ人の不信と人類の救い(三)
十一章

 

 
 ユダヤ人は今キリストをしりぞけてゐる、それは第一に、神の聖旨に基づくことであり、第二に、彼らがおのれの義に執着せるからのことである、かくてイスラエルは救いの外にあると。これ九章、十章の大意である。これを受けて、パウロは十一章の劈頭(へきとう)においてまず問う、「さらば、われいわん、神はその民を捨てしや」と。そして直ちに答える、「きわめてしからず。いかにとなれば、われもまたイスラエルの人、アブラハムの裔(すえ)、ベニヤミンの支派(わかれ)なり」と。純粹のユダヤ人たるわれ自身が、すでに神に招かれてその恩惠に浴した、さらば他のユダヤ人もまた同一の恩惠に浴し得ないはずはないと。これパウロの意である。エホバは豫言者エリヤに向かつて「われみずからのために、バアルにひざまずかざる者七千人を残せり」(二 ~ 四)と告げたもうた。「かくのごとく、今もなお惠みの選びによりて残れる者あり」(五)とパウロはいう。今も民族全体の不信の中にごく少數の除外例がある。僅少の同胞がともかくも福音を信じてゐる。これは「残れる者」である。この者が根となつて、やがて救いの、ユダヤ全民に臨む時が来ると、パウロは確信したのである(一 ~ 一○)。
 わが日本民族についても、われらは同樣のことを考える。彼らを民族全体として見るとき、福音を明白に拒否してゐる。彼らは自己の利害のために焦慮して、神の福音については無關心である。日本國は佛敎國である。各地にあるところの寺院巨刹(きょさつ)を見よ。死する時に営まるる葬式を見よ。よし佛敎の生ける精神は多く失(う)せたりとはいえ、その形式はなお固くわが民族を把握(はあく)しつつある。草と木が日本の全國土をおおえるごとくに、不信者は日本の全社会をおおうてゐるのである。そして表面においてはキリスト信者であつて實はしからざる者、また一たび信ぜしもこれを捨てし人々、これらはその數においてはなはだ多い。ひそかに虞(おそ)る、神はわが日本を捨てしにあらざるかと。しかしながらまた思う、われのごとき頑梗(がんこう)深罪の者すら神の恩惠に浴したではないか、さらば他の日本人の救われぬ理由がどこにあるかと。また思う、少數の日本人はすでに神の招くところとなつた、その數は少なしとはいえ、これ日本民族の一部である、かくその一部が救われた以上は、その全部もついに救われるに相違ないと。これわれらがパウロにならいてわが同胞についていだくところの希望である。
 
 日本人は、東洋の兄弟たるシナ人、朝鮮人を蔑視(べっし)しつつ來た。今も依然として蔑視してゐる。中には彼らをしいたげるをもつて快としてゐる者がある。神は高ぶる者を低くし、低き者を高くしたもう。日本人が彼らに先だちて歐米の物質文明を吸収し、そのために一等國の列に入りて、東洋の兄弟を輕しむる時、神はその物質文明を日本に與え置きて、その福音をその手より奪い、これをシナ人、朝鮮人に與え、しかるのち彼らをもつて福音における日本人の師となし、ついに生命の光を全東洋にみなぎらしむるの道を取りたまいつつあるかも知れない。いずれにせよ、パウロがその同胞たるユダヤ民族の救いについて失望しなかつたように、われらもまた同胞たる日本民族の救いについて失望しない。神は必ず何らかの方法をもつて、全東洋を救うと共に、全日本民族を救うであろう。全世界を救うと共に、全ユダヤ民族を救うであろう。われらは、パウロと共に、希望の喜びの中に、わが痛みつつある心を安息せしむる者である。
 次の十七 ~ 二十四節は、有名なるオリブの接木(つぎき)のたとえである。普通の接木は、良き實を結ばざる元木に良き實を結ぶ木の枝をつぎ、もつてその木全体をして良き實を結ばしむるものである。しかるにオリブの木には特殊の接木法があつた。それは、野性のオリブの木の枝を、栽培せるオリブの木につぐのである。しかる時は、兩者にとつて良き結果が起こる。すなわちオリブの老樹は精氣を囘復して若々しくなり、野生の枝は栽培せられしオリブの枝のごとくに醇化(じゅんか)するのである。イスラエルは神の庭に多年栽培せられしオリブの木である。もとより野に放置せられ來たりし野生のオリブたる異邦人と比すべきものではない。しかしながら幾千年の間、神の道をいだき來たつて、今やいたく疲れた。靈的の力衰えて、主の福音をさえしりぞくるの悲境に入つた。ここにおいてか神は野生のオリブたる異邦人を抜き來たつてこれに接木した。これ兩者にとつて幸いな事であつた。そのために異邦人は神の光に浴して心靈の醇化更生を遂げた。そしてそれに励まされてユダヤ人もまた靈的に復興するのである。
 
 兄弟よ、われ、なんじらがみずからを賢しとすることなからんために、この奥義を知らざるをこのまず。すなわち幾分のイスラエルの鈍きは、異邦人の數滿つるに至らん時までなり。しかしてイスラエルの人ことごとく救わるるを得ん…昔なんじらは神にそむきしが、今彼らがそむけるによりてなんじらあわれみを受けたるがごとく、今かれらのそむけるは、なんじらのあわれみを受くるによりてまたあわれみを受けんためなり。それ神はすべての人をあわれまんがために、みなこれを不順(そむき)の中に入れかこめり(二五 ~ 三二)
 
 イスラエルの大部分は不信の中にある。しかしこれは救いの異邦に臨まんためである。やがて救わるべき異邦人がみな救われた時には、福音はユダヤに歸りて、イスラエルはことごとく救わるるであろう。
世界人類の前途には滿々たる希望がある。神は一たび、いずれの民族をも「不順の中に入れかこむ」といえども、これすなわち後にあわれみを施さんためである。冷たき冬の後に暖かき春は必ず來たる。今はユダヤ民族の冬である。しかしながら、これ後に到來するところの春の光明と生命とを豫示するものである。かくして神はその聖旨(みこころ)をおこないたもうのである。
 パウロは右のごとくに考えた。そしてこの偉大なる思念の中に、先の憂いと痛みとは失せ去つた。残るところはただ贊美のみである。三十三節以下において彼は歌う。
 
ああ神の知と識の富は深いかな。その審判(さばき)は測りがたく、その道は尋ねがたし。たれか主の心を知りし。たれか彼と共に議(はか)ることをせしや。たれかまず彼に與えてその報いを受けんや。そは萬物は彼より出で、彼によりて成り、彼に歸ればなり。願わくは世々榮光神にあれ、アァメン
 
 これ偉大なる贊美の歌にして、八章終尾の贊歌と相對してその美を競うものである。かれは救いの確實なるを知りて擧げたる凱歌(がいか)、これは神知の宏大なるを歎美したる贊歌、共にまれに見るところの壯大なる辭である。攝理の中にすべてを見るがその特徴である。まことに九章より十一章にわたる人類救拯論の結尾としてふさわしきものである。
われらまたかく信じ、かく望みて、パウロと共に神の知と識との富を贊美しよう。
 これを矛盾と見なす人がある。しかり、しからず。純理の上においてはそこに矛盾が存する。しかし愛は理論以上である。愛は全宇宙ほどそれほど大である。愛の中にはいっさいの矛盾が調和せられる。神の愛は春の光のごとく柔らかに全人類をおおうてゐる。人は神の愛のいかに大なるかを知らない。しかしながら時來たつて新しき天と新しき地の開かるるその復活の朝においていかに。その時、與えらるる恩惠のあまりに大なるに驚かざる者はたして幾人ぞ。その時、神の愛の絶大に目くらまざる者はたして幾人ぞ。その時、自己のあまりに弱かりしを恥じざる者はたして幾人ぞ。實に神の愛は人の目いまだ見ず人の心いまだ思わざるものを與えんとするのである。この大愛の中に世界の現在と将來とを見たるパウロの救拯觀(きゅうしょうかん)、それは實に宏大なる希望に波うつ魂の叫びである。この大思想の前にこの世の哲學は煙のごとく失せ去るではないか。人間の理知をもつてする小懐疑はみじんに打ち碎かるるではないか。そして残るはただ神知に對する贊美の歌のみである。
 
 
第四十五講 約   説
神の攝理
 
 イスラエル人の多數は救われなかつた。パウロ自身が生粹(きっすい)のイスラエル人であるにかかわらず、彼は神の召しにあずかり、キリストのしもべとなることができた。一は十を示す。パウロ自身の救われたるは、すべてのイスラエル人が救われ得べき可能性をあらわすものである。しかしてパウロ以來今日に至るまで、ユダヤ人にして忠實なるイエスの弟子となりし者は絶えなかつた。 イスラエル人は、少數を除いては、キリストにつまずいた。
  地中海沿岸の農夫は、老齡に達して衰弱せるオリブの木を若返らしめんがために、その上に野生のオリブの木を接木(つぎき)するを常とする。そのごとく、神は、古例舊慣にその靈氣を喪失せるイスラエル人の上に、生氣旺盛なる靈界の野人異邦人を接木して、福音の復興をおこないたもうたのである。イスラエルの信仰の上に、ギリシャの知識とローマの常識を接木して、前者は復興して後者はきよめられた。これは兩者にとりて善き事であつた。ここにいわゆる歐洲文明なるものが起こつた。その宗敎はユダヤ的、その學問はギリシャ的、その政治はローマ的であつた。これは世界を征服すべき文明であつて、ユダヤ人自身もまたその恩惠に浴するに至つた。しかしてユダヤはどこまでもその根であつて、ギリシャとローマとはその枝であつた。ユダヤの産せしキリスト敎が根となつて歐洲文明を保つのであつて、歐洲文明がキリスト敎を保つのではない。異邦はユダヤに向かつて誇ることはできない。文明の元木はやはりユダヤである(十七 ~ 二四)。
 
 福音はユダヤ人を離れてギリシャ人に臨んだ。
  「それ神はすべての人をあわれまんがために、彼らすべてを不順の内に閉じ込めたまえり」。まず一たび不信不順の内に閉じ込め、彼らをしていいのがるべき道なからしめて、しかる後に恩惠を施して、救いの自由に入れたもう。人が自分にたよる間は、救いは何びとにも臨まない。のがるべき道なきに至り、暗黒の底より救いを呼び求むるに至つて、神はあわれみをもつて彼に臨み、大なる救いを施したもうのである。イスラエル人が祖先の功績にたより、自己に救わるべき権利がありと思う間は、救いは決して彼らに臨まない。たとえアブラハムの正統の子孫たりといえども、その罪を糺(ただ)され、不順の内に閉じ込めらるるにあらざれば、あわれまれて救いに入ることができないのである(三二)。
 「ああ神の知と識との富は深いかな。その審判(さばき)は測りがたくその道は尋ねがたし」である。神のなしたもうところに矛盾があるように見ゆる。しかしながら矛盾は思想上の矛盾であつて事實上の矛盾でない。神はその愛の行爲(みわざ)によつてそのすべての矛盾を調和したもう。神に至上意志あり、人に自由意志あり、しかして二者は共に働きて、神を愛する者の益となる。ここに神の攝理がある。「攝理」は「整え治むる」の意である。英語の Providence はラテン語の Pro と videre より成りしことばであつて、「前に見る」の意である。神は前より人類の未來を見通(みとお)したまいて、その先見の明に從つて萬事を攝理し、すなわち統べ治めたもうのである。これを思うて、人はただ彼の前に平伏し、ヨブと共にいうのである、「われ知る、なんじはすべての事をなすを得たもう。またいかなる聖意にてもなすあたわざるなし。無知をもて道をおおう者はたれぞや。かくてわれはみずから悟らざる事をいい、みずから知らざる測りがたき事を述べたり…ここをもて、われみずから恨み、ちりと灰の中にて悔ゆ」(ヨブ記四二・二 ~ 六)と。萬人の救われん事は神の聖旨(みこころ)であつて、世界歴史はこれに達するの道たるにすぎないのである(三三 ~ 三六)。
 
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