ロマ書の研究第19講

 

十九講 神の義(三)
- 第三章二三、四節の研究 -
 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです
 今,律法の外に神の義が顕はれたとは二十一節の主張であつた、この神の義はキリストを信ずる者に区別なくあたへらるゝとは二十二節の主張であつた、然り神の義は律法以外に現はれそしてキリストを信ずる者に与へらるゝ所のものである、何故に斯くの如き義が顕はれ斯くの如くにして義が与へらるゝか、この疑問に答ふるものが二十三、四節である、邦訳聖書には「そは人皆すでに罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、只キリストイエスの贖に頼りて神の恩恵を受け功なくて義とせらるゝ也」とある、大体に於て原文の精神を捉へた訳ではあるが原文の直訳は左の如くである。
 
23そは、人みな罪を犯したればなり
それゆえに神の榮えに達せず
24つねに義とせられつつ
賜物として その恩惠により
キリスト・イエスのあがないによりて。
 
かくて二三節、二四節は、短き句または語を接ぎ合せたような文章である。ことに二四節のごときは、語と句を並べたというまでのもので、一の成文となつていない。上掲の直譯は、この兩節を假に六行に分けてしるしたのであるが、原文にて、その第一行は三字より、第二行は六字より、第三行および第四行はともに一字より、第五行は三字より、第六行は七字より成つてゐる。(ともに冠詞をも加算して)。全部合せて三一字である(二三節は九字、二四節は十二字)。かく短く、とぎれとぎれの語をもつて、人類永遠の運命に關する大眞理が説かれたのである。そはあたかも電報のごとくである。語は簡單であるが、意味はすこぶる深長である。
まず二三節を見るに、その二二節の理由を提示せしものたるや明らかである。二二節は、神の義が信ずる者に與えらるることを説く。すなわちこれみずから起すところの義にあらずして、他より與えらるるところの義である。然らば何ゆえに人はみずから義たるを要せずして、他より義を與えらるるに至つたのであるか。これに二三節は答えてまず言う、「そは、人みな罪を犯したればなり」と。既往において人はみな罪を犯したからであると言うのである(二三節の前半句の動詞は過去であつて、後半句のそれは現在なるに注意せよ)。人はみな、誰人といえども、一人残らずすでに罪を犯したのである。人はいずれも既定的に罪人である。ゆえに律法の行いによつて義たらんとするも不可能である。みずから義を立てて、神の前に己れ義たらんとするも、そはすでに破れし紙を本どおりにせんとし、こぼれし水を舊に返さんとするがごとく不可能である。ゆえにかかる人類というものが、義を得べき唯一の道は、この義を神より與えられるよりほかにはないのである。すなわち人はみな罪人なれば、信仰のゆえに神より義とせらるる恩惠を受くるほかないのである。これ實に義ならざるに義とせらるる唯一の道であるすなわち人はみな罪を犯したるゆえ - 犯したる結果として - 神の榮えに達しないというのである。さらば「神の榮えに達せず」とは何を意味するのであるか。人は罪を犯した、そのために本具の榮えを喪失したのである。あるいは、人は罪を犯した、そのために後に受くべき榮えを受け得ないのである。これ實に人間の實状である。何かあるものがこの状態を破らないかぎりは、人はこの悲惨なる運命より解かれ得ないのである。人はみな罪を犯して神の榮えを遠ざかつてゐる。人は律法の行いをもつて神の前に己れを義とすることはできない。ゆえに律法のほかに今、神の義があらわれた。神はキリストを信ずる者に、その信仰のゆえに、義を賜う。すなわち人はキリストを信ずれば、そのために、罪人たるままにて義とせらるるのである。まず二四節を見るに、第一に「義とせられつつ」の語が立つ。英語にては being justified と二字に譯してあるが、原語は δικαιουμενοι(ディカイウーメノイ)の一字である。これ文法上のいわゆる現在分詞である。ゆえに「つねに」という意味をふくんでゐる。されば「つねに義とせられつつ」と譯して初めて原意を充分に表明したことになるのであるわずかに一語であるが、その中にかぎりなき恩惠と慰籍とを我らは感ずる。我らはつねに義とされつつある。我らの義とせられるのは一時のことにかぎられないで、継続することである。我らは悔い改めて神に歸するに至つたのちといえども、決して全き聖浄無罪に達するものではない。波瀾重畳は實に信仰生活のつねの姿である。比較的聖きこともあるが、罪におちいりて悲しむこともまた度々である。ひとたび誘いに克ちて喜びにあふるるも、ただちにまたこれに負けて、深き悲歎と重き憂鬱に襲われる。罪を犯してのちはいたくこれを悔ゆる。しかし悔いし罪をまたたちまち行うに至る。我らの信仰生活において、理想と實際との相去ることは千里もただならぬのである。これキリスト信者特有の苦惱である。そのために自己を僞善者と見て大いに失望し、その極、ついに信仰を捨つる者も決してすくなくない。ある人は、悔い改めしのちの生涯においては、人は決して罪を犯さないと言う。しかし不幸にしてこれ我らの實際の經驗と相反してゐる。人は信仰に入りてもつねに罪を犯しつつあるのである。ゆえに「つねに義とせられつつ」行く必要が起るのである。人の信仰生活においてなし得ることは、絶對的に罪を犯さないことではない。十字架のキリストを仰ぐことである。そしてこの信仰のゆえに、人は「つねに義とせられつつ」行くのであめる。人はつねに罪を犯しつつ、つねにゆるされつつ行くのである。ゆえに「つねに義とせられつつ」すなわちディカイウーメノイの一語は、罪に惱めるキリスト信者にとりては大なるなぐさめの語である。かくして初めて我らに眞の安心が臨むのである。一度義とせられしだけにて、後はみずから義たらねばならぬということならば、我らの生涯は重荷の壓迫に潰え果つるだけのものである。つねに義とせられつつ進み行くは、この上なき恩惠、類例なき慰藉である。
いやしくも眞に悔い改めたる、そして主の十字架を負いて從わんとしつつある誠實なる信徒にとつては、これが健全にしてかつ強力なるなぐさめを與うること、言うまでもない。
すなわち神よりの義は「賜物として」與えらるるものである。報いではない、報酬でも給料でもない、ただ賜物として、子が何かを親よりもらうごとくにもらうのである。すなわち、もらいに行きさえすれば自由に與えらるるところのものである。實に絶對の恩惠、何ら人の功によらず、來る者の汲むにまかするところの、生命の泉なる「神の義」である。ただし信仰という汲み器を持ち來らざる者は、この泉より生命の水を汲み取るを得ない。。これみな「賜物として」の意である。「願う者は、價いなしに生命の水を飲むべし」とあるごとき、その一例である。
然るに賜物として與えらるる神の義は「全く恩惠として」與えらるるのである。神の恩惠これすなわちこの賜物の與えらるる意味である、神はその義を義ならざる者に與えたもう。恩惠としてこれを與うるが神の神たる處以である。親はその子に對するにもつぱら恩惠をもつてす、これ愛のゆえである。神は罪あるものに對するにもつぱら恩惠をもつてす、これ愛のゆえである。彼はこの親心をもつて人に臨みたもう。ただ恩惠より出でて、賜物として義を人に與えたもう。そのために、人は義ならざるに義とせられて神の前に立つことができる。人は「賜物として、その恩惠によりて」つねに義とせられつつ行くと。これパウロの強く主張した全恩惠の福音である。
キリスト・イエスのあがないによりて」と言う。これ人の義ならざるに義とせらるることの根柢である。
すなわちキリストのあがないあるによりて、人はただ信仰のみをもつてつねに義とせられつつ行くのである。キリストの十字架を萬民の罪のあがないと見るは、實に福音主義の根柢として缺くベからざるものである。今や新しき神學がこれを舊思想として排しつつあるにもかかわらず、贖罪そのものの貴重なる實は、とこしえに魂の傷をいやす靈薬として立つのである。神の独り子の貴き血が萬民のために流され、その死が、萬民の罪を一身ににないてのあがないの死であればこそ、罪ある我らも罪なきものとして見られ、義ならざる我らも義なる者と見なさるるのである。さればキリストの贖罪は實に福音の根柢である、これ實にパウロ主義の基調であるのみならず、他の使徒たちもこれを信じ、かつ説き、また當時の信者もみなこれを信じた。實に贖罪は新約の福音そのものの根柢に横たわる一大事實である。天の高きがごとく、地の廣きがごとく、この一事は明らかである。
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