ロマ書の研究第22講

 

第二十二講 神の殿(みや)
[ 詩編133 ]
 都上りの歌。ダビデによる
 133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
 133:2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
 133:3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
 
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
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  2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
 
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
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 15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
 
エペソ
 4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
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 4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
 
ロマ書の研究を継続して第四章に入るに當つて、なお豫備として述べたき「神の殿」なる問題についてである。コリント前書第三章十六節、十七節を見るに、左のごとくしるしてある。
汝らは神の殿にして、神の靈なんじらの中にいますことを知らざるか。もし人、神の殿を毀たば、神かれを毀たん。そは神の殿は聖きものなればなり
ここに「神の殿」なる句が三度用いられてゐる。普通の見方は、これを個々の信者と見るのである。クリスチャンはうちに聖靈を宿すものであるゆえ、神の宿りたもう處、すなわち「神の殿」である。ゆえに「聖きもの」である。さればこの聖き神の殿すなわちクリスチャンを毀つ者は、かならず神の毀つところとなる。手をもつて造れる神殿は、これ決して神の住みたもう處でない。
「至高(いとたか)き神は、手にて造れる處に居たまわず」(使徒行傳七章四八節)とある。今や神の靈おのおののクリスチャンに宿りて、各自が一人一人「神の殿」である。この意味において、我ら各々は聖く、貴く、永久的の値いあるものである。人よ、クリスチャンを毀つなかれ、クリスチャンよ、みずからを重んじて汚すなかれと、これをパウロの意味であるとなすのが普通である。
右の見方のすこしく誤れることに氣づくのである。そしてそれがわずかの誤りのごとくであつて、實は大なる誤りであることを知るのである。日本語には、名詞に單複の区別なきため、この點不明であるが、原文聖書または英譯聖書によれば、「汝ら」という主語は複數であるのに、「殿」という客語は單數である。これによつて汝らの一人一人が各々一殿であるというのではなく、汝らすべてで一の殿を形づくつてゐるというのである。すなわちクリスチャンのある一団(この場合においてはコリントの敎會)が聖靈の宿る處であつて、換言すれば、一の「神の殿」であるというのである。葡萄樹の枝は、その樹をはなるれば枯死する。人體の各肢體(目、耳、手、足、指等)は、その體をはなるれば死滅する。枝たるもの、肢体たるものは、生きんためにはぜひともその本體につながりおらねばならぬ。聖靈は団体の上に降る。兄弟姉妹の集合せる處に神の殿は成り立つ。ゆえに聖靈を受けんためにはこの神の殿の一部と成らなくてはならぬ。そして神の殿にありて、ともに聖靈の滋雨に浴さねばならぬ。神の殿をはなれては、本體より切りはなされし肢体のごとく、死滅するほかはない。ぜひとも兄弟姉妹とともに一団となりて、その中にありて聖靈の雨を浴びねばならぬのである。
裏書きするものとして、詩篇第一三三篇を引用したいのである。
1 見よ、はらから相睦みてともにおるは、いかに善く、いかに樂しきかな。
2 首にそそがれたる貴きあぶら、鬚に流れ、アロンの鬚に流れ、その衣のすそにまで流れしたたるがごとく、
3 またヘルモンの露くだりてシオンの山に流るるがごとし。そはエホバ、かしこに福祉(さいわい)をくだし、かぎりなき生命をさえ與えたまえり。
 
 
これ實に簡潔にして優美なる詩として、もつとも代表的なものである。一節は兄弟姉妹の美しき団居(まどい)を述べしものであつて、いかに獨立を愛重する者にも、この一節の貴さは充分に感知せられるのである。二節は我ら日本人にはすこしく奇怪なる形容のごとく見ゆるけれども、鬚々(さんさん)として垂るる美しき鬚を有するシエム人種のあいだにありては、いかに良き形容として感ぜられたことであろう三節上半は、ヘルモン山に流れそそぐ瀧のごとき雨が、ついに乾けるシオンの山をまでうるおすの意であつて、これまた聖靈のくだるありさまを描いたものである。第三節後半「そはエホバ、かしこに(その集会の上に)福祉をくだし、かぎりなき生命をさえ與えたまえり」とあるはこれである。
さればこの歌は、神の靈、あぶらのごとくまた露のごとく上よりくだりて、一団の会衆の上に臨むありさまを描いたのである。聖靈は膏である、聖靈は露である。魂の傷を癒し、魂の渇きをうるおす。次ぎにこの問題について見るべきは、使徒行傳第二章の有名なるペンテコステの記事である。
1 ペンテコステの日に至りて、弟子たちみな心を合せて一處にありしに
2 にわかに天より烈しき風のごときひびきありて、彼らが坐するところの家に充てり。
3 焔のごときものあらわれ、分れて、彼ら各人の上にとどまる。
4 ここにおいて彼らはみな聖靈に滿たされ、その聖靈の言わしむるに從いて、異なる諸國の方言を言いはじめたり。
ここに代表的なる聖靈降下の叙述がある。この問題についてもつとも有名なるこの箇處は、三節において明記さるるごとく「焔のごときものあらわれ、分れて、彼ら各人の上にとどまる」と言う。すなわち聖靈は初めから別々に一人一人の上に降つたのではなくして、まず焔のごとき一つのものとしてあらわれ、それが分れて各人の上にとどまつたのである。「分れて」は意譯である。改譯聖書に「火のごときもの、舌のようにあらわれ」とあるは、原意に忠ならんとつとめたのであろうが、不正確な譯である。「あたかも火の分れし舌のごとく」とでも譯すべきであろう。すなわち一の火がありて、それよりいくつかの舌が出でて、その一つ一つの舌が各人一人一人の上にとどまつたというのである。火は一としてくだる、そしていくつもの舌を出して、各人の上にとどまる聖靈を受くることは、クリスチャンとしてもつとも大切なることであるこのことなくしては、いかに聖書を反復熟讀するも、いかに萬巻の註解書を讀破するも、いかにグリーク、ヘブライの原語を精究するも、心靈上にはいささかの效果がない。否な、かえつて心靈を毒するのみである。不消化の知識は今や日本人を苦しめつつある。知識を山のごとく貯えて、しかも人生の方向に迷いつつある人のいかに多き。ことに聖書の研究においては、聖靈をともなわざる知識は有害無益である。「人、聖靈に感ぜざれば、イエスを主と言う能わず」(コリント前書十二章三節)とある。我らは聖靈を受けてクリスチャンとなり得、また聖靈を受けて信仰生活の維持進展をなし得るのである。聖靈血を受くるのは信仰的生涯の最必要事である。
然らばいかにして聖靈を受けんか、これ問題である神の靈は「神の殿」にくだる。集會の上に、膏と露と焔とはくだる。そしてこれが會衆の上に分れてくだるのである。過去において聖靈はおおむねかくのごとくにしてくだつた。ゆえに今においても然り、また将來においても然るであろう。集會の必要、祈祷会の必要ともに福音を學びともに父に祈るの必要は、ここにおいてか起るのである孤立は大なる禍いである、聖靈の下賜をさまたぐることである。我らは相つらなり相結びて、全体において一の「神の殿」を形づくり、この殿の上に一としてくだる聖靈を、各自が分與せらるるようつとめねばならぬ。それが余輩の長年唱え來りし無敎会主義にそむかざるか如何は別の問題である。それが如何であつても、聖靈降下の道は過去の事實に訴えて明らかである。會衆相結びて一の「神の殿」を造り、そして各自が神の靈を受くべきである。
聖靈は団体の上にくだるを常則とする。その良き例は我らのこの安息日ごとの会合である。安息日の十時よりこの集合が開かるるや、神は我らをあわれみたもうて、我らの祈りに應じてここにその靈をくだしたもう。ゆえに一種の言いがたき靈氣がここにみなぎる。人々はこの堂を動かす一種の靈氣を呼吸せんとして、かく多く集い來るのである。全世界に神のエクレーシヤはただ一つある。神はこれを殿としてその内に宿りたもう。而して人は何人もこのエクレーシヤにつらなりてのみ聖靈の恩賜にあずかることができる。その意味において、「靈は一つ、主一つ、信仰一つ、バプテスマ一つ」である。またその意味において、舊き敎會の唱道に誤りはない、いわく「敎会以外に救濟あるなし」と。しかしながらいずれが眞の敎會なるか、それが問題である。而して敎會は天國のごとくに「ここに見よ、かしこに見よ」と言いて指定し得るものではない。敎会は靈的實在者である。ゆえに靈的にのみその實在をみとむることができる人は聖靈を受けざればイエスを主と稱(よ)びまつることができないように、聖靈を受けざれば、信者または敎會の眞僞を判別することができない。神の靈によつてのみ神のことを知ることができる俗人にも不信者にもみとむることのできるような、そんな敎會は、いずれの世にも存在し得ないのである。そんな敎會を建設しようとおもうがゆえに、多くの僞りの敎會が成立して、人を僞り世をあざむくのである。目に見ゆる眞の敎會は、キリストが再臨したもうときに成立する。そのときまでは成立しない。しかし今は眼に見えないが、存在することは確實である。而して信者は、今は眼に見えざる主を仰ぎつつ、限に見えざるエクレーシヤにつらなりて、その信仰的生活をいとなむのである然り、眼には見えぬがほぼ知ることができる。眞の信者は和合して、ほぼ相互にその眞の兄弟姉妹なることを知る。まだ完成されざるこの世にありて、誤察はまぬかれない。肉にありては、信者といえども、いま鏡をもて見るごとく見るところおぼろである。されどかの時には面を對(あわ)せて相見るのである(コリント前書十三章十二節)、信者は大衆である、而して一団である。そのことは確實である。その中に僞信者はおらないとはかぎらない。からすむぎは麦とともに、収穫の世の終りまで存在するであろうとのことである。然れども、そのことあるにかかわらず、神はこの暗き世の内に、彼の選びたまえるエクレーシヤを持ちたもう。而して人はこれに加わりてのみ、神が人に賜う最大の恩賜なる聖靈を受くることができる。ここに眞正の聖徒の交際がある。一つの靈の分賜にあずかるがゆえに、信者は眞に兄弟姉妹である。
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先週の御代田の別荘の庭は紅葉真っ盛り。