ロマ書の研究第35講

第三十五講 救いの完成(二)
八章一節

 

 
 ロマ書八章の大意は前囘において述べた。これより各節の研究に入るにあたつて、ロマ書全体の研究につきて一つの注意を與えたい。ロマ書を研究しつつここに來たつて、われらは同一の事を反覆し來たつたような感をまぬかれない。問題は「義とせらるる事」といい「きよめらるる事」というがごとき二、三にとどまつて、實に單純である。いな、單調である。いかにパウロが熱誠をつくして述ぶるとも、反覆と單調とはとうていまぬかれがたい。   
 他の多くの書がすたれつつある中に、聖書のみは何ゆえにすたれないのであるかなぜロマ書は聖書の中心として常に信者の注意の焦點となつてゐるのであるかこれ人間社会における正義實行の問題をその深き根底において解くものは聖書ことにロマ書であるからである。けだし人間相互に對する正義實行の問題は當然さかのぼつて個人の正義實行の問題事となり、個人の正義實行の問題はまた當然さかのぼつて神の前に義たる道いかんの問題となるのである。何となれば、神の前に義たる人にして初めて個人として正義の實行者であり得、個人として正義の實行者である者にして初めて人間相互に對する正義の實行者であり得るからである、ゆえに、いかにせば人間社会に正義がおこなわるべきかの問題は、その究竟(きゅうきょう)においては、いかにして人は神の前に義たるべきかの問題に歸着するのである。
 
 ゆえに人類間の平和問題は、つまり神人間の平和問題である。人と人との間の正義の問題は、つまり神と人との間の正義の問題であるワシントン会議においては、わが日本人がいかほどこの問題に心を傾けてゐるかが試驗せらるるのである。聖書は依然として人類を支配してゐるといい得る。かつてある人のいうたことがある、「豫言者イザヤがイザヤ書において平和の豫言をなせし以來二千六百年間、人類世界は依然として戰いをやめないけれども、しかし、いかにかして戰いをやめたしという希願と理想とをいだきつつ來たつた」と。平和は實に聖書問題である。聖書の精神は、平和實現の日を見ずばやまじというにある。人類を最も強く動かしつつあるものは聖書である。ゆえに人類が最も熱心に研究せねばならぬものは聖書である。
 
 ロマ書八章の骨子は、前講に述べしごとく、罪よりまぬかるる事、死よりまぬかるる事、神の子とせらるる事、世嗣(よつぎ)とせらるる事である。そして罪よりまぬかるる事は、一節 ~ 四節の主題である。まず第一節を見よ。 これを原文に忠實に譯せば、
「このゆえに 今や キリスト・イエスにある者は罪せらるることなし」 と改めねばならぬ。
 
 語(ことば)はすこぶる簡單である。これを分析すれば、「このゆえに」「今や」「キリスト・イエスにある者」「罪せらるることなし」という四つの語句より成つてゐるのである。
「このゆえに」(ギリシャ語のara 英語therefore)は何を受けての語かが、まずむずかしい問題である。 
 七章六節を見るに、「されども、今われらをつなげるものにおいて死にたれば、律法よりゆるされ、儀文の舊きによらず、靈の新しきによりて仕う」とある。これを、八章一節の「このゆえに」が受けたとすれば、意味の連絡はすこぶる合理的である。儀文は捨てて聖靈によりて仕うるに至りしゆえに、キリストにある者は罪せらるることなしといえば、だれにも意味が明瞭となるのである。八章との境界線の上に立ちて、「このゆえに」というのである。いよいよこれより救いの完成、全き榮化を論ぜんとする分水嶺上の「このゆえに」である。一つの小さい語であつても、その位置は決して小さくないのである。
 
 「今や」は、今においてはである。キリストすでにわれらの罪をにないて十字架にかかりし今は、キリストすでに復活して神の右に坐する今は、このキリストを信じて義とせられ、きよめらるるに至りしは今は…である。
 
 
 
 「キリスト・イエスにある者」とは何を意味するか。キリストにあるというのは、おのれをキリストの中に入れてしまつた状態である。キリストの大なる靈の中にわが小なる靈がはいつて、二者一つとなつたことである。あたかも理想的の君臣、理想的の夫婦のごとく、乙が甲の心の中に飛びこんでしまつたありさまである。キリストにあるとは、キリストとの合体であるゆえに信仰の最も徹底せるものである。キリスト信者はもちろんキリストを信ずる者であり、またキリストのしもべたる者である。しかしキリストとの最も深き關係を示す語としては「キリストにある者」である。實にうるわしき語である。
 
 「キリスト・イエスにある者は罪せらるることなし」という。罪せられぬということ、神より滅亡(ほろび)の宣告を與えられぬということ、罪の實(み)たる死滅を課せられぬということ、これ人たる者の最上の希願かつ努力でなくてはならぬ。ゆえに、キリストにある者は罪せられずというは實に大なる福音である。キリストにありさえすれば、罪の實たる罰をまぬかるるというのである。實に大なる特権、至大の惠みである。刑罰の恐怖は、眞實に神を思う者においてはまぬかれがたきところである。ゆえに罪せらるることなきを知りてこの恐怖の失(う)する時、いいがたき平安は人の魂にみなぎるのである。
 
 八章一節は、短けれども偉大なる言葉である。何ものをもつてもわれは罪せられず、自己の深き罪をもつてしてさえ罪せられずと知りて、何らの幸いかこれに過ぐるものがあろうか。されば、天上天下いかなる事がわれに起こり、いかなるものがわれを襲うても、患難、迫害、飢餓、危難、剣その他のあらゆる惡しき事が來ても、死が來てさえも、未來永劫(えいごう)罪せらるることなしとの確信が起こるのであ
 
 
第三十五講 約   説
罪よりまぬかるる事
 
 マッシュー・アーノルドがいいしがごとくに「人生十分の九は正義である」。正義を發見し、正義を實行す。人生十分の九はこれにて盡きてゐるのである。
 
 聖書の貴き理由はここにあるのである。それは特に正義の書であるからである。聖書は第一に、神と人との義(ただ)しき關係について敎える。第二に、人と人との義しき關係について敎える。それゆえに聖書は永久的に貴いのである。しかして世界思想を支配するものは聖書である
 
 ロマ書第八章は聖書の最高峰である。ゆえにその一言一句もゆるがせにすることはできない。その第一節にいわく、「このゆえに、イエス・キリストにある者は、罪せらるることなし」と。「このゆえに」は、五章以下七章までの議論の結論を受けていうものと見るが當然である。すなわち信仰によりて義とせられ、キリストの死と復活とによりてきよめらるるがゆえに「このゆえに」というのである。 
  
 「キリスト・イエスにある者」 クリスチャンの何たるかを示したことばである。クリスチャンは單にキリストを信ずる者ではない。彼をあがめ、また拝む者ではない。「キリストにある者」である。キリストの内に自己を投げ込んだ者である。キリストと同体になつた者である。われ彼にあり、彼われにありという状態においてある者である。「人もしわれにおり、われまた彼におらば」とヨハネ傳十五章五節にいうその状態である。親密その極度に達したる關係である。キリスト信者というよりもさらに深い意味を含む名稱である。
 
 「罪せらるることなし」改譯(大正譯)には「罪に定めらるるとなし」とある。罪をいいわたさるることなし、また罪を罰せらるることなし。罪とその結果とより全然釋放せらるとの意である。罪責(ギルト)ならびに刑罰よりまぬかるとのことである。キリストにある者には完全なるゆるしがあるとのことである。
 
 「今」は、不信時代の過去に對していうのである。
 「罪せらるることなし」という。これ何びとにとりても大恩惠である。この恐怖なくして、福音の福音たる理由はわからない。しかも近代人にこの恐怖がないのである。彼らは神は愛なりととなえて、彼が、罪を憎み、罪人の責任を問い、悔い改めざる罪人を罰したもうことを信じないのである。近代人は神の愛を誤解して、彼を恐れない。彼らは聖書に「生ける神の手におちゐるは恐るべきことなり」(ヘブル書一〇・三一)と讀んで、その恐ろしさを感じない。彼らが福音のありがたさを感じ得ない理由はここにある彼らがまた宗敎的熱心を發し得ざる理由もここにある。パウロを始めとして、ルーテルも、クロンウェルも、バンヤンも、深い信者という信者はすべてこの恐怖を感じた。
 
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