ロマ書の研究第20講

第二十講 神の義(四)
-第三章二五節、二六節の研究
 
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
 3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
 

律法をはなれて、いま神の義はあらわれた、すなわちキリストを信ずる者に神はその義を賜う、そは人はみな罪を犯したるゆえ、みずから義たる能わざれば、ただ神の恩惠を受け、功なくして(價いなくして、賜物として)義とせらる、これキリストの贖罪によるのである。--かくパウロは二四節までにおいて説いた。ここにおいて一の問題は生起せざるを得ない。何のゆえに贖罪の必要ありしか、贖罪なくも罪の赦免は可能なるごとく思わるるに、ことさらに贖罪という手つづきを要したる理由如何と。この問題が提出せられしと考え、そしてその答えとして、二五節、二六節を見ることができる。すなわちこの兩節は、贖罪の意味、必要、理由等を説いたものである。換言すれば、贖罪の内面的觀察である。

邦譯聖書には、この兩節を譯して「神はその血によりて、イエスを立てて、信ずる者のなだめの供え物としたまえり。そは神忍びて過ぎこしかたの罪を寛容にしたまいしことにつきて、今その義をあらわさんため、すなわちイエスを信ずる者を義とし、なおみずから義たらんがためなり」としるしてゐる。今これを意譯して、左のごとくにすることができる。
神はイエスを立てて、なだめの供え物となしたまえり(これ信仰によりて受けらるべきもの、その血をもつて提供せられしものなり)…これ一には、神が忍耐の中に既往の罪を見逃したまいしことにつきて、その義をあらわさんため、二には、今の時にその義をあらわさんためなり。これ神みずから義たり、而して同時にまたイエスを信ずる者を義とせんがためなり。
實にこの兩節は、ロマ書中、最重要の句と言うべきである。詳細は他日にゆずり、ここには大意を述ぶるだけにとどめたい。
 
この兩節は二四節に出でしあがないの説明である。そしてそのうちまず明瞭なることは左の三事である。
一、神はイエスをもつて、罪人のためのなだめの供え物となしたまいしこと。
二、神は今までは寛大であつたが、今はいよいよその義をあらわすに至りしこと。
三、そして右の目的は、信ずる者を義とするとともに、また神御自身が義たらんためであること。
委細の點は別として、この三つだけは、この兩節を讀みてただちに了知し得ることである。
「神はイエスを立てて、なだめの供え物となしたまえり」とは、何を意味する語であろうか。人より神をなだめるのであるに相違ない。
 
このことについて、ここにすこしく考えてみたい。子が親に對して罪を犯したる場合に、子が謝罪したとて親はただちにゆるすべきものであろうか。この際 親は子の罪のために大なる苦しみを受け、この苦しみありてのち初めてゆるし得るということであれば、子は我が罪の恐しきをさとりて、眞の悔い改めをなし、以後は決して罪を犯さじとの決心を起すに相違ない。然らば親は愛のためにかえつて輕々しく子をゆるすことはできない。子のために計る親としては、子のますます惡に沈むような道を取ることはできない。
しかし悔いたという一事のみをもつてただちにこの殺人者をゆるしたならば、その結果は如何。主権者の威厳は失せ、國法の権威は落ち、犯罪は全國に充ちて、國を擧げて無秩序の状態におちゐるであろう。のみならず、かくやすやすとゆるさるることは、犯罪者彼自身にとつて大なる不幸である。かくては到底眞の改悛は起らない。そしてさらに惡をかさぬることになりやすい。ここにぜひとも刑罰の必要がある。これ彼の眞の改悛のために必要である。否な、殺人者にして眞に改悛したならば、その犯せし罪の恐しさにふるえて、むしろみずから死を願い、以てその犯行の申しわけをするとともに、この場合において國法のかたく維持せられんことをあくまで望むこと必定である。
神は輕々しく罪ある者をゆるし得ない。彼もし罪人を無條件にてゆるすならば、彼の威厳は失せ、彼の公義の権威は落ち、彼の宇宙の秩序は破るるに至る。すなわち神は神ならぬものとなつてしまうのである。神の威厳はぜひとも保たれねばならぬ。彼の公義の権威はぜひとも保たれねばならぬ。彼の宇宙の秩序はぜひとも保たれねばならぬ神はぜひとも神でなくてはならぬ。ゆえに「罰」はぜひともなくてはならぬ。公義はぜひとも維持せられねばならぬ。公義は厳として立つ。神といえども公義を宇宙の外に排逐し去ることはできない。ゆえに公義は神をさえ束縛するのである。彼は公義をみずから立てて、その公義にしばらるるのである。あたかも一國の主権者が、みずから憲法を立ててその憲法にしばらるるごときものである。この公義ある以上、神はただ罪をゆるすことを得ない。罰は當然ともなわねばならぬ。換言すれば、神は義をもつて人の罪をゆるすほかはない。のみならず、輕々しく罪のゆるさるることは罪人自身にとつて不幸である。これは神が神たるため、公義維持のため、また罪人自身のために、きわめて必要なることである。
 
神は罪人をゆるさんと欲す、しかし罰なしにはゆるし得られないもし罪人に對して正當なる罰をもつて臨まんか、人類は誰一人として滅亡の悲運をまぬかるるを得ない、しかしながら、これ神の、人に對する愛の、忍びがたきところである。義のためには罰せねばならぬ。愛のためにはゆるしたしと思う。滅ぼすべきか、生かすべきか。永遠の死か、永遠の生か。永遠の否定か、永遠の肯定か。永遠の暗黒か、永遠の光明か。永遠の呪詛か、永遠の祝福か。永遠の悲哀か、永遠の歡喜か。永遠の絶望か、永遠の希望か。--いずれを選ぶべきか、事はすこぶる至難である。一を選ぶときは他を捨てねばならぬあたかも火と水とを抱いて兩者のともに全きを計る類である。これ人には到底できぬことである。然るに「人のなし得ざるところは神のなし得るところ」(ルカ傳十八章二七節)である。神は「その生みたまえる獨り子」を世につかわし、彼を十字架につけ、彼にありて人類のすべての罪をとこしえに處分し、以て人の罪のゆるさるる道を開き、我ら彼を信ずる者は、彼にありて罪を罰せられ、彼にありて義とせられ、彼にありて復活し得るに至つたのである。げに人の思いに過ぐる偉大なる智慧よ! ああ神の智と識の富は深いかな。彼はこの至難なる疑問を、その獨り子の降世と受難とをもつて見事に解きたもうたのである。ために義も立ち、また愛も行わる。罪は罰せられ、そしてゆるさる。人は亡ぼされ、そしてまたとこしえに生くる。人はキリストにありて永遠に亡ぼされ、そしてキリストにありて永遠に生くるのである。
このことをみとめし上において、上掲の意譯の最後の句なる「これ神みずから義たり、而して同時にまたイエスを信ずる者を義とせんがためなり」に對するときは、その意味は明瞭となる。すなわち神はイエスを立てて、なだめの供え物となしたもうた。彼を十字架につけ、以て彼にありて人を罰するとともに、また人を義としたもうた。すなわち彼は自己の義をあらわして人類を罰するとともに、人類の罪をゆるしてこれを義とする道を開きたもうた罰すると、ゆるすと、罪に定むると、義とすると、二つのことを、キリストの十字架をもつて同時におこなつた。すなわち「神みずから義たり、而して同時にまたイエスを信ずる者を義とせんがため」である。自己の義を顯揚するとともにまた人を義とするのである。しかし何ゆえに「人類全體」と言わずして、ただ「イエスを信ずる者」とかぎつたのか。勿論原理としては、萬人が十字架において義とせられた。しかし原理は個々の場合に適用せられて初めてその値いを生ずる。すなわちキリストを信ずる個々の人が事實上義とせらるるのである。すなわち罪を悔いて神に服歸し、主イエス・キリストに信從するに至つてのみ、人は初めて神に義とせられるのである信仰によつてのみ、この特殊の義--すなわち義ならざるに受くる義--を、わがものとするを得るのである。
 
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いわし雲に隠された太陽