内村鑑三 創世記 造化の教訓

造化の教訓
 
創世記第一章の精神(一月十八日柏木聖書講堂に於て為せる講演の大意)
大正3210  『聖書之研究』 163    署名内村鑑三
 
創世記1131
、太初(はじめ)に神、天地を造り給へり。
聖書は人類救済の歴史である、神が人を造り、之を完成(まっとう)し、之を己(おの)が子と成し給ふまでの順序(じゅんじょ)過程(かてい)を記したる書である、聖書は人を離(はな)れて天地を論じない、天然のためにする天然研究は聖書の関与する所でない、人の完成である、人の救済である、天の使等(つかいたち)も知らんと欲する事は斯事(このこと)である(彼得〔ペテロ〕前書一章十二節)、故に聖書の初巻である創世記の示さんと欲することも亦〔また〕斯事(このこと)に外ならない、創世記第一章は猶太(ユダ)人の宇宙創造説を載せるものではない、是は又万物の起源に関する科学的事実を叙述するものでない事は言ふまでもない、是れは人類の救済の立場より見たる宇宙観である、創世記第一章が伝へんと欲する事は斯事(このこと)である、ゆえにあえてこの章を科学的に研究するの必要は無いのである、天文学又は地質学又は考古学を引証して之を説明せんとするに及ばないのである、創世記は聖書の一部分であれば是れまた聖書的に解釈すべき書である、即〔すなわ〕ち人類救済の立場より解釈すべき書である
 
故に「太初(はじめ)」とは万物の太初を云ふのではない人類救済の太初(はじめ)である神の聖業(みわざ)にすべて始初(はじめ)があり又終末(をわり)がある、「我は始(はじめ)なり又終(をわり)なり」と彼は言ひ給ふた(黙示録一章八節)、而(しか)して神の聖業(みわざ)の終末(をわり)は人類の完成である新らしきヱルサレム備(そなへ)整(ととの)ひて天より降り、復(ま)た死あらず哀(かなし)み哭(なげ)き痛(いた)み有ること無きに至て神の聖業は其終結(をわり)を告ぐるのである、而して此祝(しゅく)すべき終末に対する太初(はじめ)であるのである、人類の救済は天地の創造を以て始まれりと云ふことである、山未(いま)だ生出(なりいで)ず、神、未(いま)だ地と世界とを創造(つく)り給はざりし時より、人類救済の聖図(せいと)は神の聖意の中に存し、彼は其実行の第一着として天と地とを創造(つく)り給へりと云ふことである。
人類が救はれんがためには、然り、我れがキリストの救済(すくひ)に与(あずか)らんがためには、日月星晨は天空(そら)に懸けられ、山は高く地の上に挙げられ、海は深く其下に掘下(ほりさ)げらるゝの必要があつたのである、我が救済(すくひ)は容易(ようい)の事ではなかつた、是れは我が短かき一生を以て成就(なしと)げらるゝことではなかつた、我が救済(すくひ)は宇宙の創造を以て始つたのである此事を思ふて、朝暾(ちょうとん,朝日)水を離れて東天漸(ようや)く明かなる時、又は夕陽西山に舂(うすず)きて暮雲地をおおふ時、又は星光万点螢火の如くに蒼穹に燦爛(きらめ)く時に、我は我が救済の神を頌(ほ)め、彼に感謝の讃美を献(ささ)ぐべきである。
 
、地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして暗黒(やみ)淵の面(おもて)にあり、神の霊 水の面(おもて)を覆(おほ)ひたりき。
天地創造の目的は人類の完成にある、而して地は人類の住所(すみか)として造られたのである神は人を造り給ふ前に先づ地を造り給ふたのである。然るに其地たるや始めは定形(かたち)なく曠空(むなし)くして混沌たる状態に於て在つたのである、淵(わだ)と云ひ、水と云ふ、勿論未だ水があつたのではない、随(したが)つて海も河もなかつた、故に我等が今日いふ淵(わだ)の無つたのは言ふまでもない、「水」は流動体を称ふ、故に瓦斯(がす)をもエーテルをも斯(か)く称(い)ふたのである、瓦斯(がす)の淵(わだ)である、際限(かぎり)なく虚空(こくう)に拡(ひろ)がりし瓦斯(がす)の大洋である、而して暗黒(やみ)が此瓦斯(がす)の大洋を覆ふたとの事である、凄愴(せいそう)此上なし、荒涼(こうりょう)言語に絶へたりといふ状態である、形状(かたち)なし又光明(ひかり)なし、故に希望其中に有ることなし実(まこと)に造化は失望を以て始まつたのである。
然し乍〔なが〕ら神の霊 水の面(おもて)を覆(おほ)ひたりきと云ふ、希望は茲〔ここ〕に在つたのである、霊は活気である、働らかんとする生気である、黒暗(やみ)淵(わだ)の面にありしと雖(いえど)も神の霊之を覆ふて黒暗(やみ)は永久に黒暗(やみ)として存すべくなかつた、淵(わだ)(混沌)は永久に淵として存すべくなかつた、「覆(おほ)ふ」は抱擁の意である母鶏(めんどり)が卵子(たまご)を翼(つばさ)の下に抱(いだ)くの意である、地は混沌たること鶏子(けいし)の如くなりしと雖も、愛の翼(つばさ)の之を覆ふありて其中より善(よ)き宇宙は生(う)まるべくあつた。(p23)
豈(あに)惟(ひとり)太初の地のみならんや、万物みな悉〔ことごと〕く無形に始つて美形(びけい)に終り、暗黒に始て光明に終り、混乱に始て秩序に終るのである創世記第一章に曰ふ、地は定形(かたち)なく曠空(むな)しく、黒暗(やみ)淵(わだ)の面にありと、黙示録の末章に曰ふ、我れ聖(きよ)き城なる新らしきヱルサレム備(そなへ)整(ととの)ひて神の所を出て天より降るを見る……城(まち)は日月の照らすことを需(もと)めず、そは神の栄光これを照らし、且つ羔(こひつじ)、城の月燈(ともじび)なれば也と、神を識(し)らざる人の霊も、神を離れし人の社会も「黒暗(やみ)淵(わだ)の面にあり」と云ひて、其混乱の状(さま)を言悉(いひつく)して余す所がないのである、人にして若し其儘〔そのまま〕に放任せられん乎、彼は永久に混乱の状態より脱出することが出来ないのである、然し乍ら神の霊之を覆ふ(抱む)が故に、光明中に輝き、秩序其中に顕はるゝのである、「神の霊水の面を覆ふ」と、是れ既〔すで〕に大なる福音である、福音は福音書を以て始まるのではない、創世記第一章を以て始まるのである、人の心と世の状態とに就て言はん乎、地は定形(かたち)なくして曠空(むな)しく、黒暗(やみ)淵(わだ)の面にありと言ふよりほかに言葉は無いのである、而して暗黒の方面にのみ注意して我等は世と人とに就て失望せざらんと欲するも得ないのである、而して神を識らざる世と人とは光明の方面を見る能〔あた〕はずして、唯〔ただ〕暗黒(やみ)を見て歎(たん)じ、混乱を見て憤るのである、然し乍ら、聖書は之に附加(つけくわ)へて言ふ神の霊水の面を覆(おほ)ひたりきと、茲に光明の半面があるのである、働かんとする愛の神の生気が底なき淵(わだ)の黒暗(やみ)の面(おもて)を抱(つつ)むと聞(きき)て失望落胆の要なきに至るのである、而して太初に無形空漠の地を覆ひし神の霊は今猶〔な〕ほ地と其上に棲〔す〕むすべての物を覆ひ抱むのである故に希望は永久に神を信ずる者の心より絶えないのである、社会の淆乱(こうらん)其極に達するとも、人心の堕落其底を知らずとも、神の霊水の面を覆ふと知るが故に最後の釐革(りかく)を望んで
やまないのである。
 
神は六日の間に天と地とを造り給へりと云ふ、即ち之を六期に分ちて造り給へりと云ふ、即ち大略左の如くである、
光(ひかり)をして有らしめ、光と暗(やみ)とを分ち給へり、第一日。
蒼穹(おほぞら)を作り、上下の水を分ち給へり、第二日。
下の水は一処に集まり乾(かわ)ける土(つち)顕(あら)はる、地()と海とを分ち給へり、陸は植物を生(しょう)ぜり第三日。
天体を作り之を蒼穹(おほぞら)に箝(は)め給へり、第四日。
初めて生物(動物)を作り給へり、水には魚、空中(そら)には鳥を作り給へり、第五日。
獣類を作り給へり、最後に御自身の像(かたち)に象(かたど)りて人を造り給へり、第六日。
始めの三日は準備であつて、後の三日は遂行(すいこう)であつた、第一日に光を有らしめ、第四日に光の貯蔵所たる天体を作り給ふた、第二日に空気と水と(穹蒼の下の水)をあらしめ、第五日に空中に飛ぶ鳥と水中に泳ぐ魚とを作り給ふた、而〔しかし〕て第三日に陸と其上に生ずる草木を作り、第六日に陸の上に蕃殖する獣(けもの)と人とを造り給ふた、神の聖業(みわざ)に必ず順序がある、まづ準備があつて然る後に遂行がある神は御自身の能力(ちから)に任(まか)せて気儘〔きまま〕に奇蹟を行ひ給はない、事を為すに方〔あたつ〕て必ず順序を守り給ふ、しかして始めの五日は悉く最後の第六日に備ふるためであつた、御自身の像(かたち)に象(かたど)りて人を造るのが造化の目的であつた、天と地とは其れがために造られたのである、造化の最後の目的は霊的実在者の出顕と其完成とであつた、人は実(まこと)に万物の霊長である、星の作られしも、山の築かれしも、河の穿(うが)たれしも、地が森に掩(おお)はれしも、森が獣を宿(やど)せしも、皆な人が顕(あら)はれ、彼が完成(まっと)うせられて神の子と成らんがためであつた、
 
彼を受け其名を信ぜし者には権(ちから)を賜ひて之を神の子と為し給へりとありて、茲に造化の最後の目的は達せられたのである(約翰〔ヨハネ〕伝一章十二節)
ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
されども準備は甚〔はなは〕だ永くあつた、勿論一日二十四時間の六日ではなかつた、幾百万年又は幾千万年の一日を六回重ねた者であつた、人は永劫に渉る神の労働の結果である、神が特に人を愛し給ふは是れがためである、
 
万人、救済(すくひ)を受けて真理(まこと)を暁(さと)るに至らんことは神の望み給ふ所なりとある其理由は茲に在るのである(テモテ前書二の四)、人は神の丹精(たんせい)の作であるからである、彼が億万年を費して作り給ふたる者であるからである。
Ⅰテモテ2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 
造化の第一着は光の出顕であつた、光にして現はれざらん乎、何事も始まらないのである、
神光あれと言ひ給ひければ光ありきと云ふ光は暗黒の地より発したのではない、神の意識的努力に由て顕はれたのである、神は光である(約翰ヨハネ第一書一の五)
ヨハネ1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
 
故に光は神より発して地に伝はるものである、神が御自身より光を放ち給ふまでは天にも地にも光はないのである。
光が顕はれて暗(くらき)が分明(ぶんみょう)したのである、故にいふ神、光と暗(やみ)とを分ち給へりと、光明出顕前の黒暗は黒暗と称せんよりは寧〔むし〕ろ晦冥(くわいめい)と称すべき者である、朦朧(もうろう)として判別し難き者である、真(まこと)
の黒暗(くらやみ)は光明の反対である、光がありて始めて真の暗(やみ)あるのである。
何事に於ても爾(さ)うである、先づ光が顕はれて、暗黒が判然と認められて、然る後に釐革(りかく、改革)と進歩とは始まるのである、所謂〔いわゆる〕不信の状態は曖昧(あいまい)の状態である、何が善である乎、何が悪である乎判別すること能はざる状態である、而して光を認めざる多数の人は此曖昧糢糊(あいまいもこ)の状態に於てあるのである、善必しも善ならず、悪必ずしも悪ならずと彼等は謂ふ、彼等はすべて判然なることを諱(い)み、朦朧なるを称して美的なりと云ひ、其蔭(かげ)に蔵(かく)れて不得要領の意味なき生涯を送るのである。
 
されども一日(あるとき)神彼等の心に臨み、光あれと言ひ給ひて光あるや、彼等は始めて光を認むると同時に又暗(やみ)をも認むるのである、其時彼等の心の中にありて神、光と暗とを分ち給ふのである、神の光に接して人は始めて罪の罪たるを認むるのである言(い)ふ莫(なか)れ人は生れながらにして能く善悪の差別を知ると、然り、朦朧として之を知らん、然れども判然として之を知らざるなり、彼等は多くの悪事を善事として行ひつゝあり、光に命じて暗(くらき)より照出(てりい)でしめたる神、我等をしてイエスキリストの面(かほ)にある神の栄光を知るの光(ひかり)を顕(あら)はさしめんために我等の心を照らし給へりとある此光明(くわうめい)接受(せつじゅ)の実験に与かるを得て始めて判然と善悪の差別を明かにする事が出来るのである。故に先づ第一に光をして有らしめよ、然り、光をしてあらしめよ。
明暗(めいあん)の判別(はんべつ)、是れ造化第一日の事業であつた、是れに次(つづ)いて上下の判別があつた、神、言ひ給ひけるは水の中に穹蒼(おほぞら)ありて水と水とを分つべし、神、穹蒼(おほぞら)を作りて穹蒼(おほぞら)の下の水と穹蒼(おほぞら)の上の水とを分ち給へり、即ち斯〔か〕くなりぬとある、穹蒼は天蓋(てんがい)であつて、地を蓋(おほ)ふ円天井(まるてんじょう)である、神は之れを以て上下の水を分ち給へりと云ふ、実(まこと)に幼稚(えうち)なる宇宙観である、然しながら、明暗の判別ありて後に天地の判別ありたりとの観察は決して過誤(あやまり)ではない、若〔も〕し科学の言辞(ことば)を以て言ふならば、天体地体の分化 茲〔ここ〕に始まれりと言ふのである、無涯の宇宙に上下なしと言ふを得るならんも、然し乍〔なが〕ら天を上と称し地を下と呼ぶは常識の然らしむる所である、天地の区別、上下の判別は必ず無かるべからざる事である。
而して此事たる単(ただ)に現象的宇宙に限らない、すべての事に於て進歩の過程(くわてい)として必然起るべき事である、事物の上下の差別は其価値の差別である、何にが貴(とうと)くして何が賎(いや)しき耶、何が天に属すべき者であつて何が地に属すべきものである耶、其事を判別するは救済の必要条件である、而して神を識らざる多数の人は事物の此評価を明かにせずして幽暗(くらやみ)の間(うち)に彷徨(さまよ)ふのである、或ひは賎しき人を貴族として仰いで其前に跪(ひざまず¥)き貴き人を国賊と見做〔みな〕して彼を磔殺(たくさつ)す、砂礫〔されき〕に類する黄金を財宝として重んじ、金剛石よりも尊き正直の心を塵埃汚穢(ちりあくた)の如くに扱ふ、神の光明に接せず、其霊的造化に与からざる者の事物の評価は斯くも上下を顛倒して居るのである、茲に於てか彼の心霊の虚空(こくう)に穹蒼(おほぞら)成り、上の水と下の水とを判別するの必要があるのである、天は天、地は地、天に属〔つ〕けるものと地に属けるもの、永久的のものと暫時的のもの、神の属(もの)と人の属(もの)と、此区別が明瞭にならずして霊魂の救済(すくひ)は行はれないのである、明暗の判別に次ぐに上下の判別がありて、茲に造化は第二日の工(わざ)を竣(お)へたのである。
 
光顕(あら)はれて明暗(めいあん)の判別あり、穹蒼(おほぞら)成りて上下の判別あり、次ぎに来るべきは水陸の区別である動、不動の判別である、
神言ひ給ひけるは、天の下の水は一処(ひとつところ)に集りて乾(かわ)ける土(つち)顕はるべし、即ち斯くなりぬ、神乾ける土を地と名づけ、水の集まれる所を海と名づけ給へり。
動く海と動かざる陸、漂流(へうりゅ)常(つね)なき水と万古変らざる山、造化第三段の進歩は此判別である、進歩は分化である、判別である、光(ひかり)と暗(やみ)との判別、上と下との判別、之に次いで海と陸との判別、斯くして定形(かたち)なき者は定形(かたち)ある者となり、造化は徐々として完成(くわんせい)に近づいたのである。
海は変動(へんどう)窮(きわまり)なき状態である、不安不定、移(うつ)り易(やす)き有様である、預言者イザヤは神に叛〔そむ〕きし民の状態に就て述べて曰ふた、
彼等が嘯響(なりどよ)めくは海の嘯響めくが如し、若し地を望まば黒暗(くらやみ)と患難(なやみ)ありと(以賽亜〔イザヤ〕書五章三十節)、又使徒ヤコブは信仰の定まらざる人の有様を叙(じょ)して疑ふ者は風に撼(うごか)されて翻(ひるが)へる海の浪の如しと言ふた(雅各〔ヤコブ〕書一章六節)、之に反して人の救済(すくい)は完成(まつとう)せられ、地には平康(おだやか)、人には恩恵充るの状態を述ぶるに方て黙示録記者は曰ふた、海も亦有ることなしと(二十一章一節)、騒乱の状態、不安の状態、懐疑の状態、煩悶の状態、之を海と言ふたのである、海は地上の混乱である、其淵(わだ)である、天地の差別が立て後に猶ほ黒暗(やみ)は地上の淵(わだ)の面(おもて)にあつたのである。
而して始めに「光あれ」と言ひ給ひし神は又「乾(かわ)ける土(つち)顕(あら)はるべし」と言ひ給ふたのである、怒濤(どとう)澎湃(ほうはい)たる海の中より堅岩(けんぐあん)洪波(こうは)を砕(くだ)く陸顕はるべしと言ひ給ふたのである、而して神の言に応じて堅くして乾きたる土は顕はれたのである、其如く我動揺せる霊の海の中より神の言に応じて堅き動かざる信仰の巌(いは)は顕はれたのである、我は其時詩人の言を藉〔か〕りて言ふたのである、
 
ヱホバよ爾恩恵(めぐみ)を以て我山を堅く立て給へりと(詩篇三十篇七節)キリストは我が霊魂の巌(いわ)である、而して彼を中枢(ちうすう)として我が信仰の山は懐疑の海の上に立つのである、ヱホバよ爾の真実(まこと)は万世(よろずよ)におよぶ、爾地を堅く立てたまへば地は恒に在りとある(仝百十九篇九十節)、暗黒の中に光明あらしめ、曠空(くわくう)の中に上下の区別あらしめ給ひし神は、又海の中より陸を起し給ひて其恩恵の聖業(みわざ)を続け給ふたのである。
先づ光あり、次に空気と水とあり、其次に青草を以て掩はれたる陸現はる、斯くて生物発生の準備成り、魚と鳥と現はれ、次に獣(けもの)現はれ、最後に造化の目的物たる人が造られたのである。