内村鑑三 ユブ記の研究ー2 第一講 約百(ヨブ)記は如何なる書である乎

約百記の研究(2)
 
本研究は全21講からなるが。19講まで内村自身で語られたが病に倒れて、
20講以降は弟子の畦上賢造によってによって語られた。
 
大正9610日―10 110
『聖書之研究』239246 号  署名内村鑑三  述畔上賢造記
 
第一講 約百(ヨブ)記は如何なる書である乎(四月二十五日)
○約百ヨブ記の発端は一章、二章にして、十九章がその絶頂たり、それより下りて四十二章を以て結尾となす、併〔しか〕し此四つの章を読みしのみにては足らず、その間に挾(はさ)まる各章を読むは恰〔あたか〕も昇路(はさのぼりみち)及び降路(くだりみち)に於〔おい〕て金銀宝玉を拾ふが如〔ごと〕くである、故に四十二ケ章全部に心を留めねばならぬのである。
 
○注意すべきは約百記の聖書に於ける位置である、凡〔すべ〕て聖書中に収めらるゝ各書の位置を知るは其書の研究上大切なる事である、先づ新約聖書を見るに馬太〔マタイ〕伝より使徒行伝〔しとぎようでん〕〔までは「歴史」、最後の黙示録(もくしろく〕は「預言」にして、その間〔ま〕に挿まる使徒等の書翰は「霊的実験の提唱」とも云ふべく「教理の解明」とも称すべく、又は簡単に「教訓」とも名〔なづ〕くべきである、歴史と預言は教会及び人類の外部の状態に関し、教訓は個人の内界に関するもの、外より教へ又内より教ふるのである、そして此事は旧約聖書に於ても同様である、その三十九書中、初の十七書は歴史、終の十七書は預言、そして其間の五書即ち約百(ヨブ)記、詩篇箴言〔しんげん〕、伝道之書、雅歌は心霊的教訓である、そして約百記が此教訓部の劈頭第一に位するに注意せよ、抑〔そもそ〕も創世記を以て始まりし歴史はイスラエルを通して伝へられし神の啓示を載するものである、而〔しか〕してそれが最後の以士帖(エステル)書を以て終るや茲〔ここ〕に約百記を以て一個人の心霊を以てする啓示が伝へられたのである、茲〔ここ〕に新なる黙示が伝へられたのである、神の教示が全く別の道を取るに至つたのである、即ち個人の実験を通して聖意が此の世に臨んだのである、歴史と預言とは過去と未来に於ける国民又は人類の外的表現に依りて聖意を伝ふるもの、之れに対して教訓は神と霊魂との直接関係そのまゝの提示である。
○神は外より探り得べし又内より悟り得べし、神を歴史に於て見、従つて神の教を国民的、社会的、政治的に見るも一の見方(みかた)である、されど之のみに止まる時は浅薄に陥り易い、これを個人心霊の堅き実験上に据〔す〕えて初てその真相を穿〔うが〕ち得るのである、かゝる実験の人が集まる処おのづから外部的に神の国は成立するのである、そして史的勢力となるのである、我等は我内界に不抜の確信を豊強なる実験の上に築き、そして又同時に其外的表現に留意すべきである、外にのみ走りて浅薄になる虞(おそれ)あると共に内にのみ潜みて狭隘〔きようあい〕となる嫌(きらい)がある、いづれにせよ旧約聖書に於て此個人的沈潜の深みを伝へし第一が約百記であることは忘るべからざる点である。
○約百(ヨブ)記を心霊の実験記と見る上に於て注意すべきは巻頭第一の語である、「ウヅの地にヨブと名〔なづ〕くる人あり」と記さる、ウヅとは異邦の地である、実に旧約聖書は其歴史部を終へて教訓部に入るや劈頭第一に異邦の地名を掲げ異邦人ヨブの実験を語らんとするのである、これ真に今人の驚異に値することである、ウヅの地とは何処〔いずこ〕なるかに就て諸説あるもそのパレスチナの中になきことは明かである、そして之をアラビヤ沙漠の北部地方(全沙漠の三分の一又は四分の一)の総称と見るを正しと思ふ、然る時はヨブの住みし村又は町は何処ぞといふ問題が次に起る、沙漠の最北部即ちパレスチナに接近せる辺と云ふ学者もある、併し沙漠の中央に近きヂュマまたはショフ(Duma; Dschof)であるとの説を余は採るのである、羊七千駱駝〔らくだ〕三千と云ふ如き大群の家畜を養ひ得んには広き緑野を要するのである、そしてヨブの外にも彼に匹敵する又は彼に近き豪農が住んでゐたことゝ当然推定せらるゝが故に、かゝる緑野の充分ある地はヂュマの他にはないのである、さればヨブの住みし地はパレスチナより見て純然たる異邦であつたのである。
○此事は何を我等に示すのであるか、イスラエルは神の選民たりと雖も神を求むるの心はイスラエルの独占物ではない、人は各個人直接に神を求むるを得、神は各個人の心霊にその姿を顕し給ふ、此意味に於て国籍民族の区
別は全く無意味である、そは実に個人的なるが故にまた普遍的である、故に神を求むる者を猶太〔ユダヤ〕人に限る要はない、異邦人にて宜〔よ〕いのである、否異邦人の方が却て宜しいのである、約百記が異邦人ヨブの心霊史を掲ぐるは神を求むる心の普遍的なるを示すと共に、神の真理の包世界的なるを示すのである、実に各個人の―従つて全人類の―実験を描かんとせば其主人公を猶太〔ユダヤ〕人以外に求むるを得策とするのである、而して旧約聖書はその教訓部の劈頭〔へきとう〕に異邦人の心的経験を記載して以て其人類的経典たることを自証してゐるのである、げに聖書ほど人類的の書はないのである、聖書を以て猶太思想の廃址と見るは大なる誤謬である、その然〔しか〕らざるを証するものは少なくないが約百(ヨブ)記の如きはその最たるものである、されば約百記は特に普遍的の書物である、特に国家なきアラビヤ人中より其主人公を選びて、誰人と雖〔いえど〕も、苟〔いやしく〕も人である以上は、神を知り神の真理を探り得ることを示したのである、約百記が特殊の力を以て吾人を惹〔ひ〕く所以〔ゆえん〕の一は茲にあるのである。
○神の選民たる誇りの中に住み居たる猶太人中、異邦人を主人公として斯〔かか〕る大信仰を開説したる約百記作者があつたのである、その如何〔いか〕なる人なりしかは今之を明にし難しと雖もその大胆なる態度とその自由なる魂とは羨〔うらや〕むべきである、同時にまた人生最高の実験を異邦人の実験として描きたる此書の如きを尊重し、之を聖書中に正経として加へたる猶太人の心の広さを我等は見落してはならない、げに此民ありて此著者ありと云ふべきである。
○人は何故に艱難に会するか、殊に義者が何故艱難に会するか、これ約百記の提出する問題である、これ実に人生最大問題の一である、そして此問題の提出方法が普通のそれと全く異り居るが此書の特徴である、先づ一章全
部と二章前半を見よ、ヨブに大災禍臨みて産は悉〔ことごと〕く奪はれ子女は悉〔ことごと〕く殺され、身は悪疾に襲はれ最愛の妻さへ彼を罵〔ののし〕るに至つたのである、かくて彼は唯〔ただ〕独り苦難の曠野に坐して此問題の解決を強〔し〕ひられたのである、実に彼は生涯の実験―殊に悲痛なる実験―を以て問題を提出せられたのである、教場に於ける口又は筆に依る問題の提出及び其解答ではない、哲学上の問題や文学上の問題の如く思想を以て提出され思想を以て答ふるものとは全然性質を異にする、ヨブは患難の連続を以て患難の意味てふ問題を提出せられそして事実的の痛苦、煩悶、苦闘を以て之に答へざるを得なかつたのである、彼の如き敬虔〔けいけん〕なる信者がかの如き大苦難に会したのである、これ果して愛なる父の所為〔しよい〕として合理なるか、神に対する我信仰は誤謬ならざりしか、寧〔むし〕ろ世に神なきに非ざるか、もし神在りとせば義者に患難を下し給ふは何故か―凡〔およ〕そ之等の疑問が彼の心霊を圧倒すべく臨んだのである、実に彼は実験を以て大問題を提出せられ実験を以て之に答へしめられたのである、故に約百記全体に活ける血が通つて居るのである、火と燃ゆる人生の鎔炉〔ようろ〕に鉄は鍛〔きた〕へられんとするのである、文学の上の遊戯ではない、生ける人間生活の血と火である、是れ約百記の特徴である、此事を心に収め置かずしては此書を解することは出来ない、約百記は美文でない、霊魂の実験録である。
○約百記が世界第一の文学なることは古来よりの定説である、之を単なる文学書として審美心或は思想愛好心よ
り研究するも全く無効には終るまい、併し乍〔なが〕ら是れ信仰的立場に於て初て充分に了解せらるゝ書である、我等は此書を研究する時先づ著者に対して深き同情と尊敬とを抱かねばならぬ、由来此書は文学書又は思想書として著されたものではない、著者自〔みず〕から書中に記す如き大苦難に会はずとするも、少くも之に似たる苦難に逢ひて其実験の上に此書を著したものと見ねばならぬ、故に之を文学とし又思想として研究する時は一の謎として終るのみである、身自〔みず〕ら人生の苦難に会し、悲痛頻〔しき〕りに心に往来するを味ひ、しかも神を信ずる信仰と我苦難との矛盾に血涙止めあへざりし人―此種の人が深き同感と少からぬ敬意とを以て此書に対する時は、此書を理解し得るのみならず、此書より得る処少なくないのである。
○今日までに約百記の註解は少からず現れた、而も其の多くは之を以て不可解の書となすのである、此書を美〔うる〕はしき仏文に移したるルナンの如きは聖書学者として又約百記研究者として有名なる人なるにも拘〔かかわ〕らず、約百記の真意を捕捉することを得なかつたのである、其他此書の研究者は概〔おおむ〕ね古代の習慣、思想等の考古学的研究に心を奪はれて此書の神髄を捉へ得ないのである、これ研究の態度が正しからぬためである、之を実験的に解さんとせずして思索的に解さんとする時は、如何なる学者にも此書は不可解の謎として残るのである、自分をヨブの位置に置き苦闘努力以て光明を得んとせし者には此書は決して不可解の書ではないのである、無学者と雖も老人小児と雖も此心を以てせば約百記を解し得るのである、聖書はその何〔いず〕れの書と雖も読者に斯る態度を要求するものであるが約百記の如きは格別にも然るのである。
○実験を以て与へられし問題を実験を以て解かんとしてヨブの苦める時、エリパズ、ビルダデ、ゾパルの三友人
現れ各々〔おのおの〕独特の思想と論法とを以てヨブを慰めんとする、かくて世に普通の解釈は皆与へられしもそは却〔かえつ〕て彼を苦むるのみであつた、其時青年エリフ仲裁者として現る、エリフは学識経験に於ては三人に劣れども同情に於て優〔すぐ〕れるため稍〔や〕やヨブの心を柔ぐるに於て成功する、最後にヱホバ御自身現れて親しく教示する、しかも此教示中直接ヨブの疑問を解くべき答は一も与へられて居らぬのである、義者に臨む苦難の意味については一言も答ふる所ないのである(三十八章以下を見よ)、これ不思議と云ふほかはない、然るに尚〔な〕ほ不思議なるはヨブがそれに全く満足し我罪を認めて全き平安に入りしことである、問題の説明供せられざるに彼の苦みが悉く取去られしとは寔〔まこと〕に不思議なる事である、初から問題を提出しないならばそれで宜しい、然るに之を明かに提出しながらその解答を載せざるは実に怪しむべきことである。
○しかし解答は与へられずして与へられたのである、実に神を信ずる者の実験は之に外ならぬのである、苦難の臨みし説明は与へられざれど大痛苦の中にありて遂〔つい〕に神御自身に接することが出来、そして神に接すると共に凡ての懊悩〔おうのう〕痛恨を脱して大歓喜の状態に入るのである、ただ神がその姿を現はしさへすれば宜いのである、ただ直接に神の声を聞きさへすれば宜いのである、それで疑問は悉く融〔と〕け去りて歓喜の中に心を浸すに至るのである、其時苦難の臨みし理由を尋ねる要はない、否苦難そのものすら忘れ去らるゝのである、そして唯不思議なる歓喜の中に凡てが光を以て輝くを見るのみである。
○今日基督信者の実験も亦〔また〕これである、彼に取つては之が患難苦痛の唯一の解釈法である、友人等の提供する種々の説明も彼に何等満足なる解答を与へない、或〔あるい〕は人生の長き実験より或は深き学識より或〔あるい〕は温き同情より彼を慰むれども何れも問題の中心に触れない、かくて彼の煩悶(はんもん)いよ〱加はる時遂に父はキリストに於て其姿を現はし其光彼を環照(めぐりてらし)し、此光の中に凡ての懐疑や懊悩がおのづと姿を収めるのである、そして凡てを失ひても之を糞土〔ふんど〕の如く思ひ得るに至るのである。
因〔ちなみ〕に記す、約百記は文学書にあらずして而も世界最大の文学書である、世界の大文学中約百記を手本として作られしものは少なくない、ゲーテのフハウスト、ダンテの神曲、シェクスピヤのハムレット、カアライルのサアター・レサアタス(Sartor Resartus) ブラウニングのイースタアデー(Easter Day)とラビ・ベン・エズラ(RabbiBen Ezra)等はそれである、又現代英の文豪たるG・H・ウエルスの『不死の火』(Undying Fire)の如きも約百記を手本とせる作物である、以て約百記の大を知るべきである。
 
 
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