内村鑑三 角筈聖書 ヨブ記について

 
余は独り約百記を以て(之に関する百家の説を離れ)古来人間の筆に成る最大著述の随一と為す。人洵〔まこと〕に此書を読まば其希伯来(ヘブリユー人)の製作に非〔あら〕ざるを感ず可〔べ〕し。高貴なる愛国心や、或は宗派心等と異りて、別に一種の高崇なる抱世界的博通主義の其間に貫くを見む。嗚呼〔ああ〕高貴の書なる哉、世界万民の書とは夫れ実に之を謂〔い〕ふ乎! 是永劫已〔や〕むこと無き千載不朽の大問題―即ち人間の運命及び上帝の摂理に関せる最古最元の記録也。而〔しか〕して其之を記すや、文辞流暢簡潔にして大に誠渾飄逸を極め翻紙一番読過すれば、恰〔あたか〕も神韵を聞くが如く、大珠小珠の宛転として、
宛〔さな〕がら玉盤に落るが如し。裡〔うち〕に霊慧なる活眼有り、温和なる知性有り、要之書中〔これをようするに〕何れの所を見るも徹頭徹尾誠実にして万事万物に通貫せる真の達眼達識有る也。此事や独り無形上の物のみならず、有形上の物に於けるも亦実に此の如し。其馬を叙するに曰、「汝其鬣に雷霆を纏へり乎?―馬は鎗の閃くを見て唖然として哄笑す」と!。生民在てより以来、此の如き霊活なる真に逼〔せま〕るの形容有る無し、荘美の悲哀、荘美の慰藉、正に是人心の和調にして最古瀏朗の和調也―何ぞ其典雅にして爾かく高荘偉大なるや。薀藉深情宛がら夏の夜半の如く又其海と星とを有する宇宙の状に髣髴たり。惟〔おも〕ふに之と匹儔して能く文功を競ふもの、聖書の内、聖書の外亦他に存するを認めざる也。
 
角筈聖書』の性質
角筈〔つのはず〕聖書の目的は読者をして、註解者の註釈に依ること成るべく少くして、聖書を其本文に於て解せしむるにあり、故に編者は力を専〔もつぱ〕ら本文の訂正并に配列に注ぎ、評註は簡潔を主として必要と認むるもの而已〔のみ〕を加へたり。
訳文は普通日本訳聖書に依れり、而〔しか〕して其辞句の難渋なるもの、或は意義の透明を欠くものに対しては、自由に編者の改竄を加へたり、然れども編者の改竄〔かいざん〕なるものゝ果して改善なるや否やは之を読者の判断に任かすより他に途〔みち〕なきなり。
読者に聖書の独創的見解を促がさんと欲する編者は自身亦、各章に彼の評註を附するに方〔あたつ〕て、彼の独創的解釈を主とし、多く先哲の意見に依らざりき、然れども彼の見解の多く誤謬に陥らざらんがために、彼も亦普通の註解書は之を渉猟(しょうりょう)するに怠らざりしと信ず、殊〔こと〕に約百〔ヨブ〕記の本旨の在る所を探るに方(あたっ)ては彼は米国アマスト大学教授ジナング氏の著Epic of the Soul に負ふ所甚〔はなは〕だ大なりき、亦、本文の意義を究むるに方て、彼は多く英国聖書学者デビッドソン氏の約百記註釈に学ぶ所ありたり、而して探究の遺漏なからんがために彼は常に独逸神学者博士デリッチ氏の大著を参照せり、簡潔は彼の目的なれども、浅薄は彼の欲する所にあらず、彼は彼の力量以内に於て及ぶべき丈け該博(がいはく)ならんことを努めたり。
然れども神の聖書を研究するに方(あたって)て、依るべきは人の説にあらずして、聖霊の光なり、考証、如何に該博を極むるとも、研鑚如何に深遠に渉るとも、若し天よりの此光なかりせば、聖書は我儕〔われら〕に取りて一大謎語たるに過ぎず、
 
此光なくして、独逸哲学も英国神学も聖書の真義に就て我儕に何等の伝ふる所あるなし、聖書の聖書たる所以〔ゆえん〕は人の智慧を以てしては之を解し得ざるにあり、聖書研究に就〔よ〕ては約百記に於けるブジ人バラケルの子エリフ能く其秘訣を語れり、彼は曰く
我は年少(わか)く、汝等は年老ひたり、是をもて我、憚(はばか)りて我意見〔おもい〕を汝等に陳〔のぶ〕ることを敢てせざりき、……然れども人の裏〔うち〕には霊のあるあり、全能者の気息〔いき〕(Inspiration) インスピレーシヨン人に聡明を与ふ、大なる人すべて智慧〔さとり〕あるに非ず、老いたる者すべて道理〔ことわり〕に明かなるに非ず(卅二章六―九節)
聖書研究に就ては博学畏〔おそ〕るゝに足らず、老練頼むに足らず、只直接に神に教へられし者のみ、真正の智識を有す、我儕(われら)は勿論、博識、練磨を侮らざるべし、然れども聖書に隠れたる神の聖旨を探ぐるに方ては我儕何人と雖〔いえど〕も、上よりの独創的見解に接するの特権を有す、此書最と微(ちい)さきものなりと雖も亦多少此恩恵の跡を留めざるに非ずと信ず。
 
明治三十七年七月廿五日東京市角筈村に於て内村鑑三
I am fi rmly r esolved to di e in the study of the Scr iptur es; in them are al l my joy
and al l my peace.” ― Erasmus.
余は堅く聖書の研究を以て余の一生涯を終らんと決心せり、余の総ての歓喜と余の総ての平和とは其中に存す。ヱラスマス
 
約百記の性質
義人ヨブの生涯を以て苦痛の理由を解釈せんと試みしもの、是を約百〔ヨブ〕記と做〔な〕す、其思想の遠大にして其文字の荘美なる、世界文学中其儔(たぐい)あるなし。
 
約百記は哲学書に非ず、実験録なり、故に苦痛の理由を攻究するに方〔あたつ〕て組織的に之を為さずして、実話的に之を為せり、約百記に苦痛の哲学的説明あるなし、然れども能く之を究めて其中に苦痛の摂理的作用を発見するを得べし、約百記解釈の困難は此一事を忘却するより来る、即ち其中に苦痛の哲理を求めて、苦痛が人の霊魂に及ぼす練磨的作用を探らざるに因る、而して此一事を心に留めて、此書の解釈は決して困難ならず。
此書の文躰の主に詩的なるは、必しも其美文的著作なるの証に非ず、凡て深遠なるものは詩的なり、心の深所より湧出でし此書は自(おのず)から詩的ならざるを得ざりしならん、作詩を以て閑人の業なりと見做〔みな〕すは今人の思考に属す、散文的なるは俗人の証なり、人は何人と雖も誠実にして詩的ならざるを得ず、約百記は実に熱誠の人の当然
の実験録なりと信ず、幽暗の中に無限の神を探りて吾人何人にも此音楽なかるべからず。
約百記は何人の著なるや、之を知る者なし、或はヨブなる人の自伝なりと云ひ、或ひは神の人モーゼの心霊的実験録なりと云ひ、或ひは大王ソロモンの作なりと云ひ、或ひは預言者ヱレミヤの自白なりと云ふ、然れども著者の名を明記せざる此旧記の著者に就て吾人の推測を弄するは全く無益の業に属す、霊に名なし、彼は宇宙の実在物なり、約百記は永遠に渉る霊の声なり、其著者の名の如きは知るも全く用なきなり。
著者の名を知らず、故に著作の時代を明にする能はず、或ひは聖書中最も旧(ふる)き書なりと云ひ、或ひは猶太〔ユダヤ〕民族バビロン移植以後の作なりと云ふ、而して学者各掩鎬(しのぎ)を削りて其説を維持す、然れども是れ真理問題とは関係の至て遠き問題なりと信ず、开は永遠の真理は其顕出の時代を以て其真価を増減するものにあらざればなり、真理に空間なし、亦〔また〕時間なし、其何時代の作たるに係らず、茲〔ここ〕に時と共に古びざる書の人類に供せられしあり、吾人は其中に含まれたる不易の真理を探れば足れり。
約百記は真理を供す、然れども聖書の一部分なるが故に特別なる真理を供す、聖書の供する真理は罪の贖主〔あがないぬし〕なるイエスキリストに中心す、故に直接又は間接に彼を世に紹介せざる者は聖書に非ず吾人は須(すべか)らく約百記に於て此特種の真理を探るべきなり、之を普通の大文学と見て其真価を知る難し、之を「福音以前の福音」の一と見て、其真意義は解せらるゝなり、イエスキリストを其中に発見し得ざる者は未だ以て約百記を解し得る者と称すべかざるなり。
其真髄は基督教的真理なり、然れども其外装は古代に於ける西方亜細亜(アジア)の智識、風俗、人情なり、吾人は全注意を外装の研究に奪はれざるべし、然れども能く外皮を知るは能く中心に達するの途なり、考古学的智識の約百記研究に必要なるは全く是れがためたり、吾人は往古の埃及〔エジプト〕、巴比倫〔バビロン〕の文明に徴しながら基督教的真理を其中に探らざるべからず、是れ難事なり、然れども亦快事なり、能く約百記を究めて、吾人は信仰を増すと同時に三千年前の大古に溯て、其文物に接するを得るなり。
 
 
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*1:住谷天来氏訳『英雄崇拝論』より写す