内村鑑三 マタイ伝67講 地上再会の希望

67マタイ伝
 
地上再会の希望
(十一月九日午後)
大正8110  『聖書之研究』222   署名内村鑑三 藤井武筆記
 
我れ汝等に告げん、今より後汝等と共に新しき物を我父の国に飲まん日までは再びこの葡萄にて造れる物を飲まじ(馬太〔マタイ〕伝廿六章廿九節馬可〔マルコ〕伝十四章廿五節路加〔ルカ〕伝廿二章十八節参照)共観福音書記者等はイエスの最後の晩餐を記(しる)すに当り三人共此の一言を附加せずしては措(お)かなかつた、イエスは茲(こゝ)に曰ひ給うたのである「之れ最後にして最後に非ず、今より後再び父の国にて汝等と共に葡萄にて造りたる新しき物(葡萄にて造れる物とは葡萄酒に非ずして葡萄の汁(しる)ならんとは有力なる解釈である)を飲む時あるべし、其時来る迄汝等は度々(たびたび)集(つど)ひて之を飲みて我が来るを待つべし」と、離別の辞(ことば)として実に美(うる)はしきものである、
若(も)し我等自身の世を去らんとする時愛する友人に対して斯(か)かる言(ことば)を発したりとせば一層適切に其情趣(じやうしゆ)を味ふ事が出来る、然〔しか〕しながら茲〔ここ〕に一の大なる問題がある、今より後再び汝等と共に葡萄にて造れる新しき物を父の国にて飲む日ありとは如何〔いかん〕、キリストの其霊を以て弟子等の心に宿り給ふ事は何人も之を信ずるも死にたる者が今一度び杯(さかずき)を交はし得とは果して何の謂(いい)である乎おもふに古来幾人の信者が此処に躓(つまづ)かなかつたであらう乎。
余は試に之を余の書斎に於ける数多(あまた)の無言の師に就て問うて見た、先づ蘇(スコットランド)の碩学にして註解者、希臘語聖書(スコツトランドエクスポジトルスグリークテスタメント)の筆者なるA・ブルース博士に問ふて見た、彼は曰ふ、之れ散文を以てせる詩にして感情を表はすものに外ならず、新しき物とは即〔すなわ〕ち聖霊の葡萄酒なりと、次に費府ヒラデルヒヤ聖公会神学校の希臘〔ギリシア〕語教授にして万国批評的註解書(インタナシヨナルクリチカルコンメンタリー)中  馬可〔マルコ〕伝の記者なるグールド先生も亦〔また〕此語の物的解釈に対しては大反対を唱へて居る、同じ註解書中馬太〔マタイ〕伝の記者アレン氏も同様、或点に於ては遥〔はる〕かに正統的(オルソドクス)なるプランマー氏の路加〔ルカ〕伝も亦全然同様である、之等諸先生にして既〔すで〕に然り、況〔いわ〕んやカイム、プフライデレル、ヷイス等の解釈に至ては言ふ迄もないのである。
斯〔かく〕の如〔ごと〕く多くの権威ある学者が霊的解釈を維持するに対しまた明白なる物的解釈を主張する偉大なる学者がある、其第一は近世聖書研究の祖と称せられ未〔いま〕だ彼を知らざる者は共に聖書を語るに足らずと称せらるゝ先の独逸〔ドイツ〕スツツトガルトの聖書学者ベンゲルである、其第二は聖書註解の王(きんぐ)と呼ばれ深遠該博なる知識を有し多くの問題に就き最大の権威なるH・A・W マイヤーである、其第三は尊敬すべき篤信の学者瑞西〔スイス〕人F ゴーデーである、彼等は皆曰ふ、此語は之を文字通に解せざるべからず、イエス再び其弟子等と共に葡萄にて造れる新しき物を神の国に於て飲む時あるなりと。
死にし者甦〔よみがえ〕りて再び葡萄の汁(しる)を飲む時あるべしといふ、信仰問題としては単純に之を信ずるを得ん、然しながら学術上の問題としては如何、斯の如き事実は果して有り得るであらう乎、科学の立場より見て復活といひ再臨といふが如きは全く意味なき一篇の詩ではあるまい乎。
然り復活又は再臨は詩である、然れども偉大なる詩である、詩以上の詩である、“The return of Christ is the cosmical affair(基督の再臨は宇宙的出来事なり)、神の造り給ひし宇宙は決して其力を消尽したものではない、
神は宇宙に尚〔なお〕無限の力を貯へ給ふ、而してキリスト来り給ふ時此の力に由て我等の身体は救はれ世界万物迄が救はるゝのである、再臨又は復活は決して学問上全く説明すべからざる出来事ではない、之を非科学的と嘲〔あざけ〕る者は大抵科学の知識に乏しき牧師神学者等である。
今仮に東京全市に灯火を供する唯一の電気会社ありとせよ、其処〔そこ〕に一人の技師あり今や蓄へられたる電気を放たんとして時を待ちつゝある、而して時到らん乎、スヰツチ一旋忽〔たちま〕ち暗黒の街(ちまた)は化して光明の都となるのである、神も亦斯〔かく〕の如し、神は宇宙の中心にありて自己のエネルギーを限なく貯へ給ふ、而して人は其好むが儘〔まま〕云為すと雖〔いえど〕も神は黙して待ち給ふのである、やがて其時到らん乎、神は其の天使をしてスヰツチを一旋せしめ給ふ、而して見よ、全宇宙のエネルギーは発動し死者は復活し万物は復興し人の心未だ思はざる大なる事実が実現する
のである、其時我等は復活体を以て再び地上に主キリストと相会し豊熟せる葡萄にて造りし甘き新しき汁を飲み
て共に我等の救を感謝し神の恵を讃美するであらう、「今より後汝等と共に新しき物を我父の国に飲まん日」、然り、其日は確かに来る、之を信じて全宇宙は詩以上の大なる詩となるのである。
嘗〔かつ〕て仏国の一婦人マダム・クリエー、ラヂウムを発見せしより其有する驚くべきエネルギーが研究されつゝある、研究の結果に由れば豆大のラヂウムの中に含まるゝエネルギーは之を十分に利用せんには大列車をして地球を一週せしむるに足るといふ、而して凡〔すべ〕ての物が皆ラヂウムに変化し得るといふ、即ち一片の石塊も亦このラヂウムたり得べしと、然らば宇宙に蓄蔵せらるゝエネルギーの総量は我等の想像し得ざる所である、神一度〔ひとた〕び此の無限の力を使用し給はん乎、死者の復活何かあらん、世界の一変何かあらん、死にたる後信者再び相会して葡萄にて造れる新しき物を共に飲む事何ぞ怪(あや)しむに足らん、神は此事を成すの力を有し給ふ、而して聖書は神の力を伝ふるの言である、我等は唯〔ただ〕文字通りに之を解釈すべきのみ、之れ聖書の真正なる読方である、之れ聖書に対し信者の取るべき当然なる態度である。
附記パレスチナの地は善良なる葡萄の産出を以て有名である、民数紀略十三章廿三節に曰く「彼等エシコルの谷に至り、そこより一房の葡萄のなれる枝を砍(き)り取りて之を竿に貫き二人にて之を担(になえ)り」と、近頃の事であつた、ユダ人の此地に移住せる者に由て栽培せられし葡萄は之を世界第一と称せらるゝカリホルニヤ産の物に比べて更(さ)らに其上に位ゐせしと云ふ、改造後のパレスチナに於て信者が主と共に飲む果汁は斯(かか)る葡萄より成りし者であらう、又教会に於て執行せらるゝ聖晩餐式の意味は茲に在るのである、是れ過去に於けるキリストの功績を記念するための儀式ではない、未来に於ける再会を期するための祝宴である。
1919(大正8)1
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