内村鑑三 マタイ伝 47講 信仰表白の必要

47 マタイ伝
 
信仰表白の必要
(二月七日、今井館に於て)
明治42310日『聖書之研究』107号「講演」  署名なし
 
凡〔およ〕そ人の前に我を識ると言はん者を我も亦〔また〕天に在〔いま〕す我父の前に之を識ると言はん、人の前に我を識らずと言はん者を我も亦天に在〔いま〕す我父の前に識らずと言ふべし(馬太〔マタイ〕伝十章卅二、三節)
夫〔そ〕れ人は心に信じて義とせられ、口に認(いいあら)はして救はるゝなり(羅馬〔ロマ〕書十章十節)
 
信仰は心の事であれば之を衷〔うち〕に蓄へて置けば沢山である、何にも之を人の前に表白(いひあら)はすの必要はないとは今の基督信者の口より屡々〔しばしば〕聞く所である、彼等は信仰のために世と争ふの愚を説いて歇〔や〕まない、彼等はアリマタヤのヨセフの如くユダヤ人を懼〔おそ〕れて隠(ひそか)にイエスの弟子たるを以て満足する(約翰〔ヨハネ〕伝十九章三十八節)、彼等は自己の心の中に於て基督信者である、又基督信者の前に立て善き基督信者である、然しながらキリストを憎み福音を嘲ける世人の前に立てば慎んで彼等の基督信者たるを表白(いいあら)はさない、而〔しか〕して彼等は斯〔か〕かる態度を以て智慧であり、深慮であると言ふ。
然しながらキリストは斯かる態度を許し給はない、彼は或る場合に於ては我等より明白なる信仰の表白を要求し給ふ、パウロも亦斯かる態度に賛成しない、彼は信仰の表白は霊魂の救のために必要であると言ふて居る、是れ抑々〔そもそも〕何が故であらふ乎〔か〕。
我等は勿論、問はれざるに我より進んで我が信仰を世に吹聴(ふいちやう)するの必要はない、信仰は聖事である、是れは軽々しく人の前に曝出(さらけだ)さるべき者ではない、余輩は此点に於て信仰表白を以て伝道の手段とする一派の基督信者に反対する者である、聖事をやたらに露出すれば終〔つい〕に聖事たらざるに至る、信仰の表白は容易に為すべき事ではない。
余輩は又通常基督教会に於て行はるゝ所の信仰の表白なるものに少しも重きを置かない、是れ信者の前に於ける信仰表白(いいあらわし)である、多くの場合に於ては宣教師、牧師、伝道師等を歓ばせんための表白である、斯かる表白に何の苦痛もない、随〔したがつ〕て何の益もない、キリストは人の前に我を識ると言〔い〕へと曰ひ給ふたのである、即〔すなわ〕ち彼がピラトやカヤパの前に彼のキリストたるを表白し給ひしやうに、暗らきを好む此世の人の前に表白せよと教へ給ふたのである、今の基督教会に於ける信仰表白なる者はキリストの此訓誡とは何の関係も無い者である。
然らば我等は如何〔いか〕なる場合に於て我等の信仰を表白すべき乎と云ふに、不信者に問はれ、或ひは不信者が我等の信仰に就て疑惑を懐いて居る時に、彼等の前に於て、彼等の嘲弄と誹謗とを顧みず、我等の身に臨み来るすべての不利益と困難とを覚悟して、大胆に我等の信仰を表白すべきである、此場合に於ては勿論、教会に於て為さるゝ教会信者の表白の如く多くの言葉を用ゆるに及ばない、我等は何にも行々敷(ぎやう〳〵し)く「我は是を信ず、彼を信ず」と言ふに及ばない、然れどもキリストが其敵の前に於て為されしが如く「我はキリストの弟子なり」とか、「汝等が言ふ如し」とか、極く簡短に、而かも全心の力を罩〔こ〕めて、キリストに対する我等の遵服〔じゆんぷく〕を表白すべきである。
而してキリストは斯かる表白に必ず報ひ給ふとの事である、而して斯かる表白は我等の救済(すくい)のために必要であるとの事である、何故に爾〔そ〕うである乎。
斯かる表白は我等の意志を強くする、随て我等の人格を堅くする、我等の信仰を確実にする、思想は之を衷に蔵(かく)して置いて常に混沌の状態に於てある、之を外に言表はして始めて確実になる、人の前に信仰を隠して之を言表はさゞる者は自身信仰を懐くと想ふと雖〔いえど〕も実は未〔いま〕だ之を有〔も〕たないのである、表白せざる信仰は半信仰に過ぎない、是れは未だ信仰と称するに足りない信仰である、故に霊魂を救ふに足りない信仰である。
故に恩恵に富み給ふ神は我等の信仰を確実にせんがために時々信仰表白の機会を我等に供し給ふ、而して我等此機会を利用し、人の面〔かお〕を懼〔おそ〕るゝことなく、大胆に我等の信仰を世の人の前に表白して、我等は我等の眠らんとする信仰を醒まし、我等の死なんとする霊魂を活かすのである、然れども此機会を供せらるるや、大難の我身に臨みしが如くに感じ、懼れ戦慄(おのの)き、何にかツマらなき理屈に訴へ、口を噤(つむ)いで語らざらん乎、其結果は直〔ただち〕に我等の品性に及び、熱心は冷へ、霊魂は萎(な)へ、終に有りし僅〔わず〕かばかりの信仰までを失ふに至る、実に信仰の危機とは斯かる場合である、此時に方〔あたつ〕て「キリストを識る」と言ふのと、「識らず」と云ふのとに由て我等の永遠の運命は定まるのである。
今や信者の世才頓(とみ)に進み、信仰表白を無用視する「基督信者」は社会到る処に潜伏するに際し、キリストと使徒との言辞〔ことば〕に由る余輩の此注意は全く無益ではないと思ふ。
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 何の実でしょう。秋になる木の実は、名前不明なれども美しい小さな柿のような色をしている。我が西軽井沢のイングリッシュガーデンにて。