内村鑑三 マタイ伝 71講 バプテスマの目的

71 マタイ伝 バプテスマの目的
 
四月廿二日埼玉県和戸教会に於て
明治39610  『聖書之研究』76号「講演」      署名なし
 
是故に汝等ゆきて万国の民にバプテスマを施し、之を父と子と聖霊の名に入れて弟子とし。馬太〔マタイ〕伝廿八章十九節。
バプテスマとは如何なる式である乎〔か〕、其事に就て予は今日述べんと欲するのではない、或ひは水に浸(ひた)す式である乎、或ひは水を掛ける式である乎、或ひは水を濡(ぬ)る式である乎、是れ予の明白に知る処ではない、或ひはバプテスマとは全く水を要せざる式である乎も知れない、バプテスマの字義に就て今日論議を闘はすのは全く要のな
いことであると思ふ。
聖書の言葉からバプテスマは如何なる式であつたかを定むることは甚だ六ケ敷〔むつかし〕い、然かしバプテスマの目的の何んでありし乎は聖書の明白に教ふる所である、バプテスマは如何なる式であるにもせよ、是れは人を父と子と聖霊の名に入れてキリストの弟子となす式であつたこと丈〔だ〕けは明かである、如何なる信者でも此式に与〔あず〕かるの必要がある、或ひは之を監督牧師宣教師などいふ教職の手より受けざるとするも、或る荘厳なる方法を以て、神と人との前にナザレのイエスの弟子と成りたることを表白するの必要がある。
然らばバプテスマの目的は何んである乎と問ふに是れは父と子と聖霊の名に入ることである、即ち三位一体の神を認め、之を我が主、我が理想、我が崇拝の目的物として崇(あが)め奉り、之に子として、僕として事(つか)へまつるに至ることである、三位一体の神を認むるまでは基督教のバプテスマを授かるべきではない、神は往昔(むかし)は独一無二の能力(ちから)ある神として自己(おのれ)をアブラハムに顕はし給ふた、又其後モーセを以てヱホバの神として自己を顕はし給ふた、故にユダヤ人は皆な雲と海にてバプテスマを受けてモーセに属(つ)けりといふ(コリント前書十章二節)、然かし基督信者の拝する神は単に天地万物の造主ではない、彼はまた単に正義仁愛の神ではない、彼はイエスキリストの御父なる神である、キリストに在りて世の罪を贖〔あがな〕ひ、彼に由りて生命の霊なる聖霊を下し給ふ神である、神を父、子、聖霊と認むるまでは基督教の信仰はない、ヱホバの神がユダヤ人の特別の神であつたやうに、父、子、聖霊は基督信者の特別の神である、我等基督信者は世界万民と共に同様の神を拝するのではない、即ちゾロアストル
教徒、回々教徒が拝する同じ神を拝するのではない、我等は三位一体の神を拝するのである、斯かる神は他の宗教にはない、是れは基督教が世に伝ふる独特の神である。
父と子と聖霊を認め、三者の聖なる相互的関係を識り、其信頼者、其帰依者、其崇拝家たらんと欲して茲〔ここ〕にバプテスマの式に与〔あず〕かるのである、此霊覚と決心とがなくして如何なる方式のバプテスマに与かるとも全く無益である、三位一体を認めざる者の受くるバプテスマ式は全然無意義である、バプテスマは教会の入会式ではない、
之は又何にも或る利益(りやく)の伴ふた儀式ではない、之は或る特別の信念を表白するための宣誓式である、基督教の伝ふる特別の神を明白に了解せざる者の徒らに受くべき式ではない。
日本訳の聖書には「名に入れ」とある、然かし之は意訳である、希臘〔ギリシア〕語にてはたゞ「名にまで」とあるばかりである、然かし「まで」といふは「に入れて」といふよりは意味が強くある、今全節を直訳すれば左の如くになる、
 
万国の民を父と子と聖霊の名にまでバプテスマし之を弟子とすべしと、扨(さて)、名にまでバプテスマするとは何(ど)ういふ事であらふか、「まで」とは希臘語ではeis といひ、英語ではinto 〔さて〕又はunto といふ、方向を示す言葉である、旅人が東京にまで往くといふは、東京に向つて往くといふことである、此小なる言葉の中に旅人の取るべき三つの態度が含まれてある、第一は東京に向つて其方向を転ずることである、第二は東京に向つて其歩を進むることである、第三は終に東京に到着することである、信者が父と子と聖霊にまでバプテスマを受くるといふのも同じことである、第一は三位一体の神に向つて彼の心の方向を転ずることである、第二は此聖き、高き愛の神を理想として、之に傚〔なら〕はんと欲して彼の日々の生涯を送ることである、第三は終にキリストと偕〔とも〕に神の子と成るを得て、此理想、此完全に達することである、是れがバプテスマの目的である、罪を離れ、愛を行ひ、終に父の完全(まったき)が如く完全くなることである。
以上がバプテスマの目的であるとすれば是れは一時の式でないことは明白である、我等は完全の神にまでバプテスマせらるゝのである、故に之に到着するまでは我等のバプテスマ式も了(おは)らないのである、我等は実に日々にバプテスマ式を授かるべき者である、即ち父の国に於てキリストと偕に栄を受くるまでは我等は常に此聖式に与かるべきである、バプテスマを一時の式と見るのは大なる誤謬である、是れは終生続くべき式である、我等は之を三位一体の神にまで受けたのである、爾〔そ〕うして今は彼に向つて進みつゝある者なれば、今尚ほ日々之に与〔あず〕かりつゝある者である、我等はバプテスマに由て信者となつたのではない、信者となり始めたのである、我等は今信者となりつゝあるのである、爾うして神の国に入つてキリストの貌(かたち)に傚(なら)ふを得て始めて我等のバプテスマ式は了(おは)るのである、父、子、聖霊の名にまでバプテスマし云々、我等は此小なる「まで」の一語を忘れてはならない。
三位一体論の詳細に就ては之を拙著『基督教問答』に於て見られんことを望む。
 
内村鑑三著 聖書注解全集 第8巻 「マタイ伝」ブログ化 以上にて完了。
内村鑑三全集DVD版より転載」
 
 
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