内村鑑三 マタイ伝 48講 「我に来れよ」

48 マタイ伝
 
「我に来れよ」
明治43610日『聖書之研究』120   署名なし
 
我に来れよ、すべて労する者又重荷を負ふ者よ、我れ汝等を息(やす)ません、汝等己れに我が軛(くびき)を取れよ、而〔しか〕して我に学べよ、我は柔和にして心に謙遜(へりくだ)る者なり、然らば汝等安息(やすみ)を獲べし、そは我が軛は易く我が荷は軽ければなり。馬太〔マタイ〕伝十一章廿八―三十節、自訳。
 
「我に来れよ人に往く勿〔なか〕れ、パリサイの人と学者に往く勿〔なか〕れ、教会と神学者に往く勿〔なか〕れ、我れに来れよと主イエスは曰〔い〕ひ給ふ
「すべて労する者又重荷を負ふ者よ」すべて煩悶する者よすべて益なきことのために労して倦〔う〕み疲かるゝ者よ神学問題を以て苦む者よ、教会問題に心を悩ます者よ、而して其明白なる解決を得ざるが故に、自(みづ)から身を束縛の地位に置て、儀式と規則と慣例と信じ難き信仰箇条との重き荷物を担ふ者よ。
「我れ汝等を息ません」我は誠に汝等を息(やす)ません、我れ神の子イエスは教会、神学者と異なり、休息を約束して之を与へざる者にあらず、我れに来れよ、我れ必ず汝を息ません、汝の煩悶(はんもん)をして無からしめん、汝の重荷を
取除かん、汝に汝の欲する難問題の解決を供せん。
「息ません」憂苦に暇(いとま)を告げしめん、同時に新なる力を加へん、鷲の如く翼(つばさ)を張りて昇らしめん、走れども疲れず、歩めども倦まざらしめん、「息ません」と云ふは神気を回復せんと云ふに同じ、休息のための休息に非ず活動のための休息なり、煩雑極まる宗教問題と、不快極まる教会問題とを去りて、快活有為の神の子供たらしめん。以賽亜〔イザヤ〕書四十一章卅一節。
「汝等己(おの)れに我軛(くびき)を取れよ」汝等我が命令に聴けよ、我に服従せよ、我が弟子と成れよ。
「而して我に学べ」直〔ただち〕に我に学べよ、直に教訓を我より受けよ、人を顧る勿れ、神学者の説に心を労する勿れ、教会の命令に耳を傾くるを要せず、我に学べよ、我を汝等の模範として受けよ、我れのみを汝等のオーソリチーとせよ。
「我は柔和にして心に謙遜(へりくだ)る者なり」我は威を以て人に対せず、和を以て之に臨む、我は我が権能を自己のために振はず、我は悪に抵抗せず、敵を愛す、我は強しと雖〔いえど〕も優さし、父は万物を我に予〔あた〕へ給へりと雖も、我は人の僕(しもべ)となりて之に仕ふ。
「心に謙遜(へりくだ)る者なり」心より謙遜なる者なり、神の聖旨(みむね)を行はんと欲するより他に何の野心をも懐かざる者なり、自己のために何の要求をも為さゞる者なり、神の前に平伏して其命維〔な〕れ従はんと欲する者なり、「心に於て低き者」なり、僕の位地を以て満足する者なり。
「然(さ)れば汝等心に安息を獲べし」如斯〔かくのごと〕き我に学びて汝は休まざらんと欲するも得ず、如斯〔かくのごと〕き我に学びて汝の宗教問題は自(おの)づと決解せらるゝなり、先〔ま〕づ道徳的に我に学べよ、然らば智識的に明瞭なるを得ん、我の如く柔和
に我の如く謙遜にして汝は真に自由の人となるべし、教会も神学者も汝の上に何の重荷をも課する能〔あた〕はざるに至るべし。
「然れば汝等、汝等の心に安息を獲べし」心(心臓(ハート))に於て謙遜(へりくだ)れよ、然らば心(心意(マインド)に於て安息を獲(発見す)べし、煩悶(はんもん)は去るべし、難問題は解決せらるべし、脳髄は無益の労働を廃〔や〕めて、心身自づから爽快を感ずべし、
心臓は鎮まるべし、脳髄は休むべし、而して平静にして効力(ちから)ある活動は始まるべし、所謂〔いわゆる〕「内部の分裂(インターナル・シズム)」は去り自己は一団体となりて、難事に当て挫(くじ)けざるの勢力となるべし。
「そは我が軛は易く、我が荷は軽ければ也」我は軛(くびき)を置かざるに非ず、然れども其軛(くびき)は運(はこ)ぶに易し、我は重荷を課せざるにあらず、然れども其荷は担ふに軽し、我にも亦〔また〕我弟子に課するの義務と責任とあり、然れども我に学びて之を負へば難(がた)しと雖(いえど)も易(やす)し、重しと雖(いえど)も軽し、義務は或ひは世のそれよりも難かるべし、然れども我と偕〔とも〕に之を負ふなれば、之を易く感ずるなり、責任は或ひは世のそれよりも重かるべし、然れども我と偕(とも)に之を担ふなれば之を軽く感ずるなり、我に学びて事に当れば難事も易し、重荷も軽し、我は大なる義務と重き責任とを充たすの秘訣を知る、而して汝等我に学びて此秘訣を汝等の有(もの)となすを得べし。
然らば主イエス、我等汝に到らんと欲す神学を去り教会を去り人を去り、制度を去り、教義を去り、教則を去り、直に汝に到らんと欲す、我等汝に到らんと欲して、直に汝に到らずして長き間迷へり、我等は平和を哲学、宗教、教理、教会等に求めて、之を獲る能はずして労したり、然れども今や新たに汝の聖召(みまねき)の声を聞て茲〔ここ〕に直に汝に到るなり、主イエスよ我等を納(う)け給へ、我等を汝の直弟子となし給へ、教会の会員に非ず、又教理の奉体者に非ず、使徒の弟子に非ず、汝の弟子たらしめ給へ、汝に在りて分裂なし、汝に在りて懐疑なし、谷の百合花にして峯の桜なる汝は美にして深し、優にして厳なり、我等汝の弟子たれば足る、然れば汝の信ずるが如く信じ、汝の行ふが如く行ふ、故に教義の要なし、教則の用なし、汝と偕(とも)に在りて我は自由にして準(のり)を踰(こ)へず、誠に汝は人の理想なり、我れ汝に到りて我が辛労は悉〔ことごと〕く止み、茲に我が生涯に新紀元の開かるゝを感ずるなり。
 
 
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マタイ伝11章28節は私を救いへと導いた御言葉である。以来30数年全てを神様に委ねて生きてこられたが何一つ困難はなく苦しみもなく常に祝福の内に生きてこられたのは主のおかげであります。この御言葉の力こそ全ての人間に知って欲しいことです。
この生後7ヶ月の貴桜(きお)チャンもママに全てを委ねているようにイエス様に委ねてこれからの人生を生きて行かれるように祈るばかりです。