内村鑑三 マタイ伝 35講 目の善悪

35 マタイ伝
 
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11月24日は74回目の誕生日に家族で食事会、最も勘定はこっちが持つのですが。
孫が大きくなって、子供のいない(可愛げのない)家族です。
 
 
 
 
 
 
馬太伝六章廿二―廿四節、希臘(ギリシャ)語のハプルースとポネーロスとの研究、「山上の垂訓」の研究の一節。
大正3610 『聖書之研究』167  署名内村鑑三
 
身の光は目なり「光」ではない、「燈(ともしび)」である、第五章十五節に謂(い)ふ「燈(ともしび)を点(とも)して斗(ます)の下に置く者なし。」とある。
其燈と云ふと同じ言葉である、光を与(あた)ふる者である、ランプである、「身のランプは目である」とのことである、勿論今日の我等は爾(さ)うは言はないのである、我等は光は太陽より来る者であつて、目は外の光を内に受くる機関であると言ふのである、乍然〔しかしながら〕、実際の所、縦令(たとへ)、外に光があるにもせよ、若〔も〕し之を内に受くるための機関がないならば、我等各自に取り外の光は無いと同然であれば、身の燈は目であると言ふことが出来るし、又更らに進んで身の光は目であると言ふことも出来る、外の光を内に導く者は目なりと云ふ事を簡略にして「身の光は目なり」と云ふたのである。
汝の目瞭(あきらか)ならば茲(ここ)に「瞭(あきらか)」と訳せられし希臘語のは意味の甚だ錯雑(さくざつ)したる辞(ことば)である、故に支那訳並に日本訳聖書に於ても訳者に由て種々(いろ〳〵)の文字を以て訳されて居る、或ひは「浄(きよ)からば」とか、或ひは単に「清くば」とか、或ひは「眩(くら)まずば」とか云ふ文字を以て訳されて居る、或ひは哥林多〔コリント〕後書十一章三節に傚(なら)ひ「誠実(まこと)」と訳しても可(よ)いのである、又同八章二節、同九章十一節、又羅馬(ロマ)書十二章八節に於ては之と類似の辞が「吝(おしみ)なく」と訳してある、「吝(おしみ)なく施(ほどこ)すべし」とある、以上に由て観れば「汝の目瞭(あきらか)ならば」とあるは、之を
「浄(きよ)からば」とも、亦(また)は「誠(まこと)ならば」とも、亦(また)は「吝(やぶさか)ならずば」とも訳して差支(さしつかえ)ないのである、而して原語の
「ハプルース」にはすべて是等の意味が籠(こも)つて居るのである、「汝の目ハプルースならば」と言へば、「汝の目透(とう)明にして浄(きよ)く、誠実(せいじつ)にして吝嗇(りんしょく)ならずば」と謂ふ意味を通ずるのである、何(いず)れの国語に於ても斯かる例(ためし)は必ず有るのである、一ツの辞にして相互(あいたがい」に関聯する種々(いろ〳〵)の意味を通ずる辞があるのである。全身も亦明かなるべし「明かなるべし」では足りない、バプテスト教会訳聖書にては「明(あか)るからん」と訳してある、些少(すこし)の相違(ちがい)ではあるが、然し多少の改良であると思ふ、希臘語のΦωτεινòν は「光り輝く」又は「光にて充つ」の意である、馬太〔マタイ〕伝十七章五節に「かゞやける雲」とある「かゞやける」は此辞である、「燦(さん)たる光
を放つ」の意である、故に「全身も亦明かなるべし」とあるは、之を「全身光にて充つべし」とか、亦は「全身輝き渡るべし」とかに改むべきである。
若し汝の目眊(あし)からば原語の儘(まま)に「之に反して」なる反意語(はんいご)を加ふべきである。漢字の「眊」は「暗」である、孟子に「胸中正しからざれば則(すなわ)ち眸子(ぼうし)眊(くら)し」とあるとの事である、孟子の此言、以てイエスの此教訓の善き註解として見ることが出来る、「眊」なる漢字は之を「あしゝ」と訓(よ)むことは出来ない、然しマタイが茲に用ひたる辞はポネーロス(πουηρòς)であつて「悪」の意である、故に「眊」と意訳せずして、ラゲ訳又は左近訳の如くに明白に「汝の目もし悪しからば」と訳すべきである、而して斯く訳してイエスの此教訓の意味が更らに一層明かになるのである。
悪しからば目の悪しきは目の病みたるのである、或ひは何等かの故障に由りて目が歪(くる)ふたのである、目が完全の用を為さないのである、或ひは全く光を遮(さえぎ)りて内に暗黒を来たすのである、然し悪は善に対して謂ふ辞である、故に「目悪し」と謂ふは「見るものを悪意に解す」とか亦は「悪のほか何物をも見る能〔あた〕はず」とか、亦は「真理を曲解(きよくかい)す」とか謂ふ意味に解することが出来る、馬太〔マタイ〕伝二十章十五節に我が善に因りて汝の目悪しき乎とあるは、斯かる意味に於て解すべきであると思ふ、「汝の目悪しきが故に我が善が悪しく見ゆるや」との意味であると思ふ。
然し聖書に在りては「悪」は止(ただ)に道徳上の悪ではない、聖書に在りては「悪」なる辞に特別の宗教上の意味がある、悪を行ふとは神より離れ神ならぬ者に事(つか)ふることである、イスラエルの子孫(ひと〴〵)ヱホバの目前(めのまえ)に悪を行ひしかば
と繰返して士師記に記されてあるのは此事を謂ふのである、即〔すなわ〕ちイスラエルの民がヱホバを離れ彼の命に反(そむ)きて偶像に事(つか)へたりとの意である聖書に在りては悪とは偶像崇拝の事である、神が善(ぜん)であると同時に(路加(ルカ)伝十八章
十九節)、偶像は悪であるのである。
若し汝の目悪しからば若し汝の目疾みて其用を為さず、真理を曲解し、神を神として仰がずして神ならざる者
を神とし認むるならば云々。前節に於て「瞭(あきらか)」なる辞に種々の意味があると等しく、此節に於ける「悪し」なる辞にも亦種々の意味があるのである、而してイエスは是等の相関聯(あいかんれん)せる意味をかけて茲に教訓を宣べ給ひつゝあるのである。
全身暗かるべし「暗黒を以て充つべし」、前節の「光り輝くべし」とありしに対して謂ふ。
是故に汝の中の光もし暗からば身の光たる目の悪しき場合には、外の光を内に受くるための目の歪(くる)いたる場合には、全身暗黒と化するは何人も能く知る所である、其如く(是故に)若し汝の中の光、即ち霊魂の目の悪
しき場合には、外なる光に非ずして内なる光にして暗からん乎、其場合には如何〔いかに〕との意である、イエスの言辞は簡潔であつて、其中に多くの略辞(りゃくじ)がある、故に我等は之を解するに方(あたつ)て省かれし略辞を〔ことごと〕く補おぎなはなければならない。
此場合に於て「汝の中の光」と言ひ給ひて、彼は「汝の中の目」又は「汝の中を光(てら)す者」又は「汝の崇拝物」等の事項(ことがら)を同時に語り給ひつゝあるのである。
其暗きこと如何(いか)に大ならず乎其暗黒たる如何ばかりぞ、実に驚くべきに非ずや、物の譬(たと)へやうなきに非ずやとの意である、内なる暗黒は外なる暗黒に譬(たと)ふべきやうもなし、肉の盲者は憐むべしとするも心霊(こころ)の盲者の歎かはしきに比ぶべくもあらず、暗黒の最も深甚なるは外なる身の暗黒に非ずして、内なる霊の暗黒である、一言以て之を言はん乎〔か〕、霊魂が其光なる神を内に宿さゞることである。
「内の光」とは何ぞ? 勿論神である、「内の目」とは何ぞ? 信仰である、而〔しか〕して内の目は外の目と同じく明瞭(あきら)かでなくてはならない、清浄(きよ)くなくてはならない、神に対しては誠実であつて、人に対しては吝嗇(りんしょく)であつてはな
らない、而して此信仰の目を以て内の光なる神を仰(あお)ぎ瞻(み)て霊は霊光(れいこう)を以て充溢(みちあふ)れるのである。
ハプルースに明瞭(めいろう)、清浄(せいじょう)、誠実(せいじつ)、吝(やぶさか)ならずの外に猶ほ一の意味がある、其れは単一又は単純である、目は単純でなくてはならない、単純ならざれば明瞭ならず、清浄ならず、吝嗇(りんしょく)なりである、目は同時に二物を凝視(みつ)めることは出来ない、目が若し完全に其用を為さんと欲せば之を一物にのみ注がなければならない、茲に於てか、次節の「人は二人の主人に事ふること能はず」との教訓が内眼保全の教訓に加へて与へられたのである。
人は二人の主に事(つか)ふること能はず、そは此を悪(にく)み彼を愛(いつく)しみ、此を親(したし)み彼を疎(うと)むべければ也、汝等神と財神(マムモン)とに兼ね事ふること能はず忠臣二君に事へず、貞女二夫に見(まみ)えず、弐心(ふたごころ)なきを貴むは古今東西変ることなしである、ヱホバは実に嫉(ねた)む神である、彼の愛の熱烈なる、彼は全然首鼠(しゆそ)両端(りょうたん)を許し給はないのである、彼に事(つか)ふるに丹誠(たんせい)の一事あるのみである、故に謂ふ、「汝心を尽し、精神を尽し、意を尽くして主なる汝の神を
つかたんせいこゝろばせ
愛すべし」と、茲に於てか神に事ふるに誠実なる、清浄なる、目的の単一なる目()を要するのである、此目(心又は信仰)なくして神を見る事は出来ないのである、此目を通(とう)らずして神の光は心霊に漲(みなぎ)らないのである、故に言ふ「汝の目若しハプルースならずば」と、神を見るの目は殊更らに誠実、殊更らに単純、殊更らに清浄、殊更らに明瞭なるを要するのである。
神と財神(マムモン)とに兼ね事ふること能はず神を明瞭に見んと欲すれば、信仰(霊眼)は眊(くら)かるべからず、悪しかるべからず、殊に神ならぬ偶像を信ずべからず、単純誠実の目は、肉の目なると霊の目なるとに関(かか)はらず、全然一神教的ならざるべからずとの事である、マムモンは財を司(つかさど)る神である、或ひは財を神に擬(なぞら)へて祀(まつ)りし者である而して財に我心を置きて財は宝となり、即ち財神となりて我を司配するに至るのである、愛銭は背神である、マムモン崇拝であつて、劣等の偶像崇拝である、人は神と財神とに兼ね事ふること能はずと言ふ、然り、人は神に事(つか)へながら同時に財産に心を傾くることは能(でき)ない、若し世に人あり、我は神に事ふると同時に又蓄財に余念なしと言ふ者があれば、其人は虚偽(いつわり)を言ふ者である、人は神と財とに兼ね事ふる能はずである、然り、実(まこと)に能はずである。茲に於てか又ハプルースの吝嗇(りんしょく)ならずとの意味が出て来るのである、吝ならず財に固着せずとの意である、又容易に之を他に頒(わか)つとの意である、而して神に事(つか)ふるに又此心がなくてはならない、慈善心である、他を救ふに方(あたっ)て「金放れの善き」ことである、財産を惜まざる心である此霊眼がなくして神を見ることは出来ない、慈善は他を救ふために有益(ゆうえき)であるばかりではない、自己の霊に神の光を漲(みなぎ)らしむるために必要である、故に謂ふ、若し汝の目吝(やぶさか)ならずば全身(亦全霊)光り輝くべしと。
洵(まこと)にイエスは詩人ならざる大詩人である、文章家ならざる大文章家である、彼はハプルース、ポネーロスの二語に籠(こも)る所の種々(いろ〳〵)の意味を以て、財産に対する信者の心掛(こころがけ)を各方面より示し給ふたのである。
言ふまでもなく、イエスは希臘語を用ひ給ふたのでなく、アラミ語を用ひ給ふたのであるから、馬太伝記者の伝へし此二個(ふたつ)の辞(ことば)を以てイエスの此場合に於て用ひ給ひし特別の辞と見ることは出来ない、而してアラミ語に関しては智識皆無なる余はイエスが此場合に於て用ひ給ひし特別のアラミ語の何んでありし乎、想像することさへ
出来ない、乍然〔しかしながら〕、「瞭」と訳せられし希臘語のハプルースと「眊」と訳されし同語のポネーロスとに通ずべき或る適当のアラミ語を用ひ給ひしことは之を疑ふことは出来ない、我等はイエスの言語を研究するに方(あたっ)て深い注意と研鑚(けんさん)とを怠つてはならないのである。
以上の解釈に因り二十二節より二十四節までを意訳せん乎、大略左の如くに成るであらふ。
 
身のランプは目なり、若し汝の目にして明瞭(めいりょう)ならん乎〔か〕、健全(けんぜん)ならん乎、清浄(せいじょう)ならん乎、誠実ならん乎、単純ならん乎、汝の全身は光を以て充たさるべし、之に反して若し汝の目にして悪(あし)からん乎、眊(くら)からん乎、神を仰がずして偶像を瞻(み)ん乎、汝の全身は暗黒を以て充たさるべし、是故(このゆえ)に若し汝の内の目悪(あし)くして内なる光に接する能はざらん乎、其暗黒の程度如何許(いかばか)りぞや、我れ汝の目は単純ならざるべからずと言へり、洵(まこと)に人は何人〔なにびと〕も二人の主に事ふる能はず、蓋此(そはこれ)を悪(にく)み彼を愛(いつく)み、此を親み彼を疎(うと)むべければ也、汝等神と財神(マムモン)とに兼ね事ふること能はず。
我等今日の日本人に取り以上のイエスの言〔ことば〕を解するの困難は外国人が日本の和歌を解するの困難に照らし見て稍推了(やゝすゐれう)することが出来ると思ふ試(こころみ)に百人一首中の和泉式部の歌を取て見んに
 
大江山いく野の路は遠けれど まだふみも見ずあまの橋立
 
とある、日本語と山陰地理とを知悉(ちしつ)する者に取りては其意味明瞭にして、歌意(かい)の掬(きく)すべきあるは言ふまでも無いが、然し二者に暗らき外国人に取り其意味の解し難きは一目瞭然である、「生野」を「往く野」にかけて詠み、「玉章(ふみ)」を「蹈み」に擬らへて言ひ、天の橋立を踏みしことなしと云ふに至つては操詞(そうし)の術、巧妙(こうみゅう)を極むとふものゝ、日本と日本語に暗らき外国人をして其意味を理解せしめんとするの困難は決して容易の事でない、安部仲麿(あべのなかまろ)が彼の名吟
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも
を帰国の船にまで送り来りし彼の大唐(だいたう)の友人に説明せんとせし其困難は今に至りて思ひ知られるのである。
而〔しか〕して之に類する解釈の困難を我等は聖書の所々(ところ〴〵)に於て見るのである、而して馬太〔マタイ〕伝第六章の此場合の如きが其一つである、幸にして教理上、特に肝要(かんよう)なる問題の其解釈に懸(かか)ること無しと雖(いえど)も、其正解は頗(すこぶ)る難事である、我等は原語に籠りたる多趣多方面(たしゅたほうめん)の意味を知りてのみ始めて其真義を判明にする事が可能(でき)るのである。