ロマ書の研究第53講

第五十三講 キリスト敎道德の第三
政府と國家に對する義務:

十三章一 ~ 七節


13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。

 13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

 13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 
 第十二章において個人間の道德を説いたパウロは、第十三章に入つて政府と國家に對する道德を説くのである。。人を愛すべし、われを苦しむる人をも愛すべし、國を愛すべし、われを苦しむる國をも愛すべしとこれ十二章、十三章を一貫して流るる精神である。
 十二章は九節より愛の敎えに入り、それより愛敵の敎えに説き進み、その最後においては「なんじ、惡に勝たるるなかれ。善をもて惡に勝つべし」との偉大なる語を發した。ロマ書はその處々において論述の高調に達するを見る。三章二十四、五、六節の贖罪(しょくざい)提唱のごとき、八章末尾の凱歌(がいか)のごとき、十一章末尾の贊美のごとき、これである。そしてこの十二章末尾のごときも正に實践道德の絶頂にして、その想その辭ともに高調に達せりというべきである。人の道德はとうていこれ以上に出づることはできぬ。實にこれ人間道義の絶頂である。惡に堪ゆるのみならず、進んで敵を愛するに至るが、惡に勝つたのであるキリストの十字架は、この勝利の極として著しきものである彼は敵人の包圍に会つてこれに抗せず、そのまま十字架の悲運を甘受し、しかもわれを殺す敵のためになだめを父に祈るほどの愛心を發した。かくのごとき人を主と仰ぐ者は常にこの心をもつて人に對さねばならぬ。愛敵の心盛んなるところ、社会には平和みなぎり、國と國との間には争いは起こらないのである。
 十一章末尾のこの精神をもつてすれば、十三章の對國家の道はたやすく了得し得られるのである。まず第一節にいう、「上にありて権を持てる者に、すべて人々從うべし。そは神より出でざる権なく、おおよそあるところの権は、神の立てたもうところなればなり」と。。クリスチャンは神にのみ服從すべきであつてこの世の権能に對しては毫(ごう)も服從する要なしと主張する者を、パウロは誡めるのである。ゆえに二節においていう、「このゆえに、権に逆らう者は神の定めにそむくなり。そむく者はみずからその審判(さばき)を受くべし」と。
 
 次に三、四節を見よ。「支配者は善きわざの恐れにあらず、惡しきわざの恐れなり。なんじ、権を恐れざることを願うか。ただ善きをおこなえ。さらば彼よりほまれを得ん。彼はなんじを益せんための神のしもべなり。善をなす者は支配者より賞せられ、惡をなす者は罰せらる。支配者は神のしもべであるゆえ、善を賞し惡をこらす役目をおこなう。されば、善をなす者は少しもこの世の権能を恐るるの必要がない。正しきをおこなう者に恐怖の襲う理由はすこしもない。
 次の六、七節は、以上の原理の適用ともいうべき處である。「このゆえに、なんじら、貢(みつぎ)を納めよ。彼らは神の仕え人にして、常にこの職をつかさどれり。なんじら、受くべきところの人にはこれに與え、貢を受くべき者にはこれに貢し、税を受くべき者にはこれに税し、恐るべき者には恐れ、貴ぶべき者はこれを貴べ」という。その意味は説明を待たずして明らかである。ただ貢と税との別について一言しよう。独立國の民は、税を納むれども貢は納めない。いかに重税を課せられても税だけである。しかるに古代にあつては、屬國の民は、税を納むるほかになお貢なるものを納むる必要があつた。これ服從忠順を象徴するところのものであつた。されば、ローマ本國の民は税を納むるだけをもつて足りたけれども、ユダヤ人は税と貢とを兼ね納めねばならなかつた
 パウロのこの國権服從論は、十二章の愛および愛敵の敎えよりおのずから引き出されたものである。すなわち、いかなる人をも愛し、わが敵をも愛するがクリスチャンの道である以上は、良き國家に對しても惡しき國家に對しても、服從と愛とをもつて對し、たとえ暴壓治下にありても、なおわれをしいたぐる権能者に從い、かつこれを愛するの心をいだくべきであるというのである。從つてパウロのこの國権服從の根底に横たわるものは、キリスト的愛の大精神である。ここにおいてか知る、彼のこの誡めの、永久にすたらざる誡めとして残れることを。
 クリスチャンとは、その國籍を天に移せし者である。「われらの國は天にあり」(ピリピ書三・二〇)とあるとおりである。ゆえに、この世の事は實はどうあつてもよいのである,
クリスチャンはあらゆる場合において正者の味方である。しかし、もし彼が資本家の一人であるならば、勞働者の暴擧のために損害を受けても、これをあまり問題としないのである。彼はすでに財(たから)を天にたくわえたものである以上、この世の財のことについてはあまり大なる熱心を起こし得ないのである。この世の事に重きを置かぬ者はこの世の事には無頓着である。そしてかく、この世の利益問題に無頓着なるゆえ、無益なる抗争、反抗、騒擾等に從い得ないのである
 さればクリスチャンは平和の民である。世にありて、革命、騒擾、叛亂を起こすことをいとう。眞のクリスチャンにして社会の秩序を亂した者あるを聞かない。クリスチャンは平和的手段にのみ訴うべきである。まず謙遜と靜和とをもつて、権能者に向かつて抗議(プロテスト)すべきである。幾度も幾度も繰り返して抗議し、その他平和を越えぬ範圍においてはすべての道を取るべきである。百折不撓(ひゃくせつふとう)の心をもつて目的の貫達を祈るべきである。しかしながらその目的が達せられずとて、武器に訴えて叛亂を起こすべきではない。平和的手段だけに限りて、成敗はことごとく大能の手にまかせまつるべきである
 さらばクリスチャンが正義のために抗議せし場合、それが罪に問わるるごときこととならばいかに。おのれの命を求めらるる場合はやむを得ず叛亂を起こすべきか。いな、かかる場合には権能者の命のままにわが生命を差し出すべきである。この點においては、ギリシャの哲人ソクラテスは、多くのキリスト敎徒以上にキリスト的であつた。彼は政府の批政に對してはただ抗議するだけであつた。捕えられて死刑の宣告を受けるや、無實の罪にしても、政府が合法なる機關を通してなしたる判決であるというゆえをもつて、潔くこれに服した
 この點において、インド革命者ガンジーの無抵抗的革命のごときは正にキリスト的であるしかし壓制者をも愛をもつてゆるす態度こそ、クリスチャンの取るべき態度である。彼らのためにも祈る心をいだくに至らずしては、眞の愛ということはできない。 
第五十三講 約   説
政治と社会(十三章一 ~ 七節)
 
 クリスチャンにとりては最大問題はほかにある。「わが國はこの世の國にあらず」(ヨハネ傳十八 ~ 三六)とイエスはいいたもうた。彼はまたいいたもうた、「なんじら、まず神の國とその義とを求めよ。さらばこれらのものはみな、なんじらに加えらるべし」(マタイ傳六・三三)と。、「カイザルの物はカイザルに納めよ。しかして神の物は神に納めよ」と答えたもうた(ルカ傳二〇・二二以下)。キリストは、孔子孟子(もうし)とは全然異なり、この世の政治には全然携わりたまわなかつた。そこに彼の神らしきところがある。イエスはたしかに政治以上の人であつた。
 クリスチャンは政治を無用視しない。彼は公義と平和を愛する。しかしてある程度までこの世の公義と平和とを保證するものとして、確立せる政府を尊重し、誠實をもつてこれに服從する。権能はすべて神より出でたるものであれば、クリスチャンは神に服從する心をもつて政府に服從する。これ「力をつくして人々とむつみ親しまん」(三・十八)ためである
 
われ、ことに勧む。もろもろの人のために、願い、祈り、とりなし、感謝せよ。王および権威を持つ者のためには、別(わ)けてこれをおこのうべし。これ、われら敬虔と謹厳をもて靜かに安らかに世を渡らんがためなり(テモテ前書二・一 ~ 二)
 
と。使徒ペテロもまた同じ事を、初代の信者に告げていうた、
 
なんじら、主のために、すべて人の立つるところの者に從うべし。あるいは上にある王、あるいは惡をおこなう者を罰し善をおこなう者を賞せんために王よりつかわされたる方伯(つかさ)に從うべし……萬人を敬うべし。兄弟を愛すべし。神をおそるべし。王を尊ぶべし(ペテロ前書二・十三、十四、十七)
 
財(たから)を慕うはすべての惡事の根なり。ある人これを慕い、迷いて信仰の道を離れ、多くの苦しみをもてみずからおのれを刺せり。神の人よ、これを避けて、義(ただ)しき事と神を敬う事と信仰と愛と忍耐と柔和とを慕うべし」(テモテ前書六・六 ~ 十一)とある。この心があつて、今日のいわゆる政治運動、社会運動、勞働運動に熱心ならんと欲するも得ない。「財を慕うは、すべての惡事の根なり」という。しかも今日の外交問題、政治問題、社会問題等、いずれも「財を慕う」より起こる問題にほかならず
 
 「そは、人を愛する者は法律を完全すればなり」。法律という法律、その目的は人々相互の権利を保護するにある。しかして人を愛するによりて法律の目的は完全に達せらる。人は人を愛して、その権利を侵害せんとするも得ない。法律は信仰と異なり、人の外部に關する事である。されども生命財産に關する事といえども、その處有者を愛せずして、完全にこれを尊重することはできない。法律の遂行は國民相互の愛に待たざるを得ない。
 

 

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日光清滝