ロマ書の研究第52講

第五十二講 キリスト敎道德の第二
愛(四) 十二章十九 ~ 二一節
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
 12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 
  愛の敎えは九節より始まつて、章尾の二十一節まで続く。そして最後にしるさるるが愛敵の敎えにして、十九節以下がすなわちそれである。しかしパウロは十九節以前において二度この問題に觸れてゐる。その第一は十四節にして、「なんじらを害(そこな)うものを祝し、これを祝してのろうべからず」とあり、その第二は十七節前半にして、「惡をもて惡に報ゆるなかれ」とある。叙述の順序から見れば、これはたしかに亂れてゐる。愛敵の敎えを全部まとめて一個處にしるす方が、叙述としては整つてゐる。しかしここにパウロの心が見える。彼は九節より愛の敎えを説きつつ進んで、一刻も早く、愛の絶頂ともいうべき愛敵の勧めに入りたかつた。ゆえに第十四節において一たびそれに入つた。。まず「わが愛する者よ」と呼びかけて、充分の注意を促してのち、左のごとく述べてゐる。
 
 その仇(あだ)を報ゆるなかれ。退きて主の怒りを待て
 そは、しるして「主のいいたまいけるは、仇をかえすは
 われにあり。われ必ずこれを報いん」とあればなり。
 このゆえに、なんじの仇もし飢えなばこれに食らわせ
 もしかわかばこれに飲ませよ。なんじ、かくするは、
 熱き火を彼の頭に積むなり。なんじ、惡に勝たるるなかれ、
 善をもて惡に勝つべし
 
「その仇を報ゆるなかれ」と、まず一般的に説き、次に「退きて主の怒りを待て」という。神の怒りを意味してゐる。これは明らかに神の怒りを意味してゐるのである。神の怒りに處を與えよである。神をして、充分に罰すべきを罰せしめよ。われを苦しむる敵に對しては、われより報ゆるなかれ。神にその怒りを注ぐべき餘地を與えおけ。敵は必ず神の罰に会するであろうゆえに、われらは敵に對して何ら報復の道を取るを要しないというのである。これが正しい見方と思う。
 「怒り」はやはりこの場合「神の怒り」でなくてはならない。「仇をかえすはわれにあり。われ必ず報いん」との舊約引用は、申命記三十二章三十五節(ギリシャ譯)である。神は惡をなす者を必ず罰すという意味を傳えた語である。惡しき者に對して處分を施すは神のことである。われを苦しむる惡しき者を、彼は必ず罰したもう。ゆえに、これが處分をいっさい彼にまかせて、われら自身仇をかえすことはさしひかえよという意味である。次に、二十節の「なんじの仇もし飢えなば、これに食らわせ……」は、箴言二十五章二十一、二節よりの引用である。最後に、パウロは「なんじ、惡に勝たるるなかれ。善をもて惡に勝つべし」との有力なる語を述べて、この重要にしてうるわしき勧めの語を閉じたのである。
パウロがロマ書十二章にこの敎えを説いたのはもちろん彼の創始ではない。キリストの敎訓および生涯にならつてのことである。キリストは、山上の垂訓中、マタイ傳五章四十三節以下において、明白に愛敵の敎えを説き、またそれに似たることを、同三十八節以下において説いてゐる。これは彼の敎えであるがゆえに、ロマ書におけるパウロの敎えよりはもちろんうるわしく、かつ意味に深みがある。そして兩者を照らして見て、キリスト敎の愛敵の精神を知ることができる。キリストの生涯が愛敵實行のそれなりしことは、だれも知るところである。されば彼を信ずる者は、彼の生涯にならい、また彼の敎訓にかなうよう、愛敵の道において遺憾なからんことを努めねばならぬ。祈つて聖靈の助けを受け、もつてこれを實行し得るに至らねばならぬ。
スペインがアメリカおよびメキシコに土人をしいたげしを始めとして、英、佛、独、米、愛敵は愚か、何らわれに敵對せざる平和の民を捕えて、白刃をふるい銃丸を放つたのである。キリスト敎國とは名のみである彼らにしてキリスト敎國民たらば、惡魔もまた天使たるのである。彼らの罪惡は歴史のページの上にあざやかに残りて、永久にその不信背逆をものがたつてゐるのである。
 しかり、いわゆるキリスト敎國は眞のキリスト敎國ではない福音を委託せられたる歐米民族は、かえつて福音の明白なる敎訓にそむいてゐる。しかしながら、この事は聖書の敎えの値を一毫(いちごう)も減ずるものではない信者と稱する者がこれをおこなわずとも、これはぜひともおこのうべきものである。他人(ひと)はどうあつてもよい。われらはこれをおこのうべきである。おこなわねばならぬのである。キリストの誡めなるがゆえにこれをおこなわねばならぬのである。しかるに憎みに報ゆるに愛をもつてするのは、自然の情に打ち勝つて、聖靈の恩化に浴して初めて可能なる事である。敵の憎みの力に打ち勝つだけの力がわれにあつて初めて敵を愛し得るのである。ゆえに、これすこぶる積極的、進取的の道である。
 「なんじ、かくするは、熱き火を彼の頭に積むなり」とは、何を意味する語であるか。熱き火を頭に積むということは、激しき苦痛を與えるということである(ヘブライ人、アラビヤ人の間においては、この語をこの意味にて用いしという)。しかし何の意味の激しき苦痛であるかが問題である。ある人は、神より來たる刑罰と見る。すなわち「仇をかえすはわれにあり」とあるごとく、神は必ず敵を罰したもうゆえ、みずから仇を報いざるは、神をして彼の上に大苦罰を與えしむるゆえんであると見るのである「善をもて惡に勝つべし」との敎えと矛盾する。ゆえに、多くの學者のいうごとく、敵に激しき苦痛を與えるというのは、敵をして深く慚愧(ざんき)せしむることを意味するに相違ないパウロはいうのである、「なんじ、敵に復讐せんと欲するか。さらばここに最上の道がある。決して憎みをもつて敵に對するなかれ。むしろ敵に對するに愛をもつてせよ。飢えなば食らわせ、かわかば飲ませよ。これは、熱き火を彼の頭に積むことである。。
 最後にパウロはいう、「なんじ、惡に勝たるるなかれ。善をもて意に勝つべし」と。敵の加えし惡に負けて、惡をもつて惡に報ゆる態度に出づるなかれ。なんじの愛と善とをもつて敵の惡を征服せよとの意である。惡に報ゆるに惡をもつてするは、惡に負けたのである。何をも報いないでただ忍んでゐるのは、戰わないことである。善をもつて惡に對するのが、惡と戰つて勝つことである怨みに報ゆるに德をもつてし憎みに對するに愛をもつてし、惡に對するに善をもつてすること、これが愛敵の敎えである。ゆえに愛敵はただ敵を愛するということだけにとどまらない。惡と戰つてこれを滅ぼすという壯快なる戰いの意味が主となつてゐるのである
 この敎えは實行して初めて値あり、また實驗して初めてその眞なるを知り得るものである。敵に会しては愛をもつてするが最上の道であること、人生の實驗に照らして明らかである敵に對して愛をもつてせよ。われを憎む者を愛し、われをのろう者を祝し、われを苦しむる者に幸福のいたらんことを祈れ。わが愛心を注ぎ出だして彼のために盡くせ。
 
 インド独立運動の指導者ガンジーが最近捕えられたということである。彼は三億のインド人を率いて、インドを英國より独立せしむることのために努力奮闘してゐる彼はイエスの愛敵の敎えに堅く立つてゐる。決して武器をもつて英國に對して反抗はしない。すなわち叛亂ということを堅く避けてゐる有名無實のキリスト敎徒らよ!
 いたずらに信仰個條を高調し敎義の純正を誇るも敵を愛するの道を顧みざる者のごときは、いまだキリストの心を知らざる者である。敎義の純正を誇る神學者何者ぞ。キリストは一度もかかることを誇つたことはない。しかし彼は愛のため、そのすべてを--その生命をまで--ささげた。彼を信ずる者は愛の人にならねばならぬ。敵を愛し得る人にならねばならぬ。しからずしては、敎義の穿鑿(せんさく)も聖書の研究もすべて無益である。愛敵の人ならずばキリスト敎徒でないのである。しかるに今やキリスト敎國と自稱キリスト信者とは少しもこれをおこなわない。これ自己の僞善を暴露してゐるのである。
 
 
第五十二講 約   説
愛敵の道(十二章十九節以下)
 
 申命記三十二章三十五節にいわく、「彼らの足のよろめかん時に、われ、仇(あだ)をかえし、報いをなさん。その災いの日は近く、それがために備えられたる事はすみやかにいたる」と。詩篇九十四篇一節にいわく、「エホバよ、仇をかえすはなんじにあり。神よ、仇を報ゆるはなんじにあり。願わくば光を放ちたまえ」と。いずれも、敵をさばきたまえとの祈願である。パウロはここに、舊約の舊(ふる)いことばを新約の新しい精神をもつて引用したのである。
 退きて、主の怒りを待て」。原語には「怒りに場處を與えよ」とあるのみである。「怒り」は、敵の怒りとも、また神の怒りとも見ることができる。敵の怒るがままに放任せよ。またはなんじの怒りをもつてせず、神の怒りをもつて敵の怒りに應ぜしめよ。いずれにせよ、無抵抗を勧めたることばである。
 「なんじの仇もし飢えなば……」、箴言二十五章二十一、二節より引きたることばである。「なんじの仇もし飢えなば、これに糧(かて)を食らわせよ。もしかわかば、水を飲ませよ。なんじ、かくするは、火をこれが頭に積むなり。エホバ、なんじに報いたもうべし」。これに類したる敎えが、神がモーセをもつてイスラエルの民に傳えたまいしものの中にある。いわく、「なんじもしなんじの敵の牛あるいはろばの迷い去るに会わば、必ずこれを引きて、その人に歸すべし。なんじもしなんじを憎む者のろばの、その荷の下に倒れ伏すを見ば、これを捨て去るべからず。必ずこれを助けて、その荷を解くべし」出エジプト記二三・四 ~ 五)と。
 しかしてキリストはこの事を敎えしのみならず、これを實行したもうた。マタイ傳五章四十三節以下は、愛敵を敎うる有名なることばである。彼は、彼を捕えんとて來たりし祭司の長のしもべにして、彼の弟子の一人にその耳を切り落とされし者をあわれみ、「その耳にさわりて、これを癒やしたり」(ルカ傳二二・五一)という。彼はまたおのれを十字架につけし者らのために祈つて、いいたもうた、「父よ、彼らをゆるしたまえ。彼らはそのなすところを知らざればなり」(ルカ傳二三・三四)と。しかしてこの實際を目撃せしペテロは、後に至り同信のともがらを敎えていうた、「キリスト、なんじらのために苦しみを受け、なんじらをしておのが跡に從わしめんとて、模範をなんじらに残したまえり。彼、罪を犯さず、またその口に僞りなかりき。彼、ののしられてののしらず、苦しめられて激しきことばを出ださず、ただ義をもておのれをさばく者にこれをまかせたり。彼、木の上にかかりて、われらの罪をみずからおのが身に負いたまえり」(ペテロ前書二・二一以下)と。
 かくのごとくにして、
キリスト敎は徹頭徹尾、無抵抗愛敵主義である
 
これ、はたして實際的に可能なるやいなやは問うところでない。キリスト敎はかく敎うるものであることは明白である。
 
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