ロマ書の研究第51講

第五十一講 キリスト敎道德の第二
愛(三) 十二章十六 ~ 十八節

 

 
 十五節までは前講において説いた。さらにこれに加えて十六節を見ねばならぬ。そは、十六節までは信者間における愛の道であり、十七節以後は不信者に對する愛の道であるからである。もちろん信者にもパウロのいわゆる僞りの兄弟があるゆえ、十七節以下も、ある場合には信者に對する道となることもある。しかしそれはある特殊の適用であつて、十七節以下の目ざすところは、對不信者、對社会である
 
   相互に志(おもい)を同じゅうせよ
   高き思いをなさず、かえつて低きにつけよ
   みずからを賢しとするなかれ
 
 そしてこれは別々の敎えではなく、互いに相關連せる誡めである。「相互に意を同じゅうせよ」を解して、「相互に對する關係において調和的なれ」となす人があり(サンデー)、また「おのおのが他と同じ思いおよび努力を持つところの、愛の調和を意味す」となす人もある(マイヤー)。異体同心ともいうべき、信者間におけるうるわしき靈的一致を勧めた語である。しかしてこの一致を妨ぐるものは、各自のいだく尊大の心である。高き位置を望む野心である。ゆえに第二の誡めとなつたのである。「高き思いをなさず」は、高き事を思うなかれ、高き地位を望むなかれの意である。これ敎会内において高位にのぼり、または名譽ある職につかんとの野心を誡めた語である。次に「かえつて低きにつけよ」という。微賤低卑と思われおる地位あるいは仕事に從えよとの意である。すなわち敎会内において好んで低き地位につき、微賤なる仕事に從えという誡めである。人々が高きを望んで低きを避ける時は、とうてい敎会内に靈的一致は起こらない。これに反して、各自が低きを望んで高きを避くる時は、謙譲の實はおのずから信者間の一致をひき起こすのである。一致は謙遜を伴い、謙遜は一致を生む。これをロマ書十二章十六節が説き、またピリピ書二章前半が説く。後者の第二節にいう、「なんじら、思いを同じゅうし、愛心を同じゅうし、心を合わせて思う事を一つにし、わが喜びを滿たしめよ」と。そして三節後半において「おのおの、へりくだりたる心をもて、互いに人をおのれにまされりとせよ」といい、以下、イエスのへりくだりの例を引き來たつて、人々に謙遜を勧めてゐる。平和一致は、信者間の關係において最もたいせつなるものである。そしてこれの實現は各自の謙遜によつて成る。人々が他をおのれにまされりとし、他を尊敬し他を推重する態度に出づれば、自然と平和一致が生まれる。ゆえに高きを願わずして低きにつくことを念となし、もつて信者間の平和實現を計るべきである。
 
 註解者の中には、この語を解して「高き處に目を着けず、低き人と共にせよ」というぐらいに取る人がある。ゴーデーのごときはその一人である。當時、敎会の堕落ようやくきざして、会員のうち、いたずらに敎会内の高位を望む人があつた。パウロはこれを誡めて、高き地位に目をつけず低き人と共にせよと勧めたのであろう。高き地位を貴び、高貴の人に近づくを望み、卑賤微小なる人に遠ざかるごとき態度を取るは信仰の低落である。クリスチャンは常に高き地位を思わず低き人の友でなくては。初代敎会が早くすでにこの弊風を生みて、信仰衰頽(すいたい)の兆を示したるは歎ずべきことである。信仰の健全なるところ、必ず高きは望まれずして低きが思われるのである。
 平和の道はこのへりくだりの心よりおこなわれる。この心あれば、不和の生まるる餘地はない。争いの起こるは、人々が上へ上へと頭をもたげんとするからである。下へ下へと低きにつかんとするところ、いかで争いの起こる餘地があろうか。われらはこの心をもつて不斷の心となし、もつて平和の實現を計るべきである
 第三の誡めは、「自己を賢しとするなかれ」である。これ箴言三章七節にある「みずから見て賢しとするなかれ」を引用せしものである。
 
不信者のなすところ、思うところ、信ずるところを徹頭徹尾否認して、信者のみ正しとなすは、狂信者流のことである。かかる謬想(びゅうそう)に捕われしため、狭量頑執非禮となりて、對社会の關係においていたずらに紛亂におちいり、あるいはこれがために苦惱し、あるいは迫害に会えりとて、得意とする者がある。これ誤れるのはなはだしきものであるクリスチャンは平和の民でなくてはならぬなるべく紛争を避けるよう心がけねばならぬ。やむを得ずば、世にそむき人と争う。しかし、できるかぎりは他にも善きところを發見して、これを取りこれをおこのうよう努むべきである。 
 
 パウロはこの事を人に勧め、またみずから實行した。彼は熱心なる信者ではあつたが、狭量頑固奇矯なる狂信家ではなかつた。彼に廣い心があつた。彼に深い思慮があつた。彼に敎養ある紳士の品位と餘裕とがあつた。コリント敎会の姉妹たちの間に、社会の風習にそむいて、男子と同じ位置におのれを置かんとする風のあつた時、彼はそれを誡めて、彼らをしてあくまで當時の婦人道德を守らしめようとした(コリント前書九章) パウロのこの心は今またわれらの心とならねばならぬ。愛のためには、できるかぎりは世の人とむつみ親しまねばならぬ。平和を愛する人、心の廣き人、他に對して相當の敬意をもつ人、これ實にキリストにある人である。この心をもつてクリスチャンはこの世の生涯を営むべきである。
  クリスチャンはできるかぎり世に從う。しかし世に降(くだ)るのではない。根本問題においては、いかでこの世に降り得よう。主にある以上、いかでこの世の人と全く同じきを得よう。できるかぎりは世と共たらんと努むるも、心においてはこの世の人との間に天地の差があるべきである。ゆえに、この世の人は往々にしてクリスチャンを敵となして迫害し來たる。かかる場合はいかにすべきか。かかる場合もまた愛をもつてせよ。愛をもつて憎みに勝てよと。これ十九節以下の敎えである。
 
 
 
  なんじ、心をつくしてエホバによりたのめ。
    おのれの知識によることなかれ。なんじ、
   すべての道においてエホバを認めよ。
    さらばなんじの道を直くしたもうべし。
    みずから見て賢しとするなかれ。
    エホバをおそれて惡を離れよ
すなわち神にたよらずして自己を過信することを誡めたのである。そして神を信ずる者の中にも、往々にしてあまり自己を信じ過ぎるものがある。これをパウロは誡めたのである。かえつて信仰の強しといわるる人の中にこの種の人がある。自己の判斷をもつて絶對の正となし、これを神の聖意と誤信して、他人がこれに從わんことを求め、これに從わざる場合には、その人をもつて神の聖意にそむく者 - クリスチャンとして不純なる者 - と考うる人がある。
 兄弟姉妹間の協同一致の實を破るものは、この自己を賢しとする心である。おのれの判斷を絶對の眞として他に譲らざるの態度である。福音の根本義については、何が實であり何が虚であるかは、聖書の明示するところであるわれの思うところと彼の思うところと一致せざる場合、いずれが正しきかは、ただ神のみ知りたもうところである。クリスチャンは常に神の聖意を探りて、これをおこなわんことを心がくるを要す。しかしてわれも信者であり彼も信者であつて、われと彼との思いの一致せざる場合は、いずれをもつて神の聖旨と定めようか。この際、われらはよろしく謙遜でなくてはならぬ。あまりに自信があり過ぎてはならぬ。正しきを知り得んや。われらはよろしく自己についてある程度までの自己不信をいだくべきである。そして愛のためには喜んで自己を拾つる心をいだくべきである。自己を賢しとする態度は、愛の一致にとつて最大の妨害物である。
  
 クリスチャンは平和の民でなくてはならぬ。なるべく紛争を避けるよう心がけねばならぬ。やむを得ずば、世にそむき人と争う。しかし、できるかぎりは他にも善きところを發見して、これを取りこれをおこのうよう努むべきである。争いのために争う奇矯(ききょう)の徒となつてはならぬ。武士道にも、儒敎にも、佛敎にも、またこの世の道德習慣にも良きところがある。強(し)いてこれに反對して争う必要はない。人々の善しとするところには何かの意味があるに相違ない
 
 パウロのこの心は今またわれらの心とならねばならぬ。愛のためには、できるかぎりは世の人とむつみ親しまねばならぬ。平和を愛する人、心の廣き人、他に對して相當の敬意をもつ人、これ實にキリストにある人である。この心をもつてクリスチャンはこの世の生涯を営むべきである。
 クリスチャンはできるかぎり世に從う。しかし世に降(くだ)るのではない。根本問題においては、いかでこの世に降り得よう。主にある以上、いかでこの世の人と全く同じきを得よう。できるかぎりは世と共たらんと努むるも、心においてはこの世の人との間に天地の差があるべきである。ゆえに、この世の人は往々にしてクリスチャンを敵となして迫害し來たる。かかる場合はいかにすべきか。かかる場合もまた愛をもつてせよ。愛をもつて憎みに勝てよと。これ十九節以下の敎えである。
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日光中禅寺湖の白鳥のボート。