ロマ書の研究第48講

第四十八講 キリスト敎道德の第一
謙  遜
十二章三 ~ 八節

 

 
 第十二章の第一節は、感激より起こる獻身を説くこれキリスト敎道德の根底である。そして第二節は、この世になろうなかれといい、心をかえて新たにせよと勧める。これキリスト道德の性質である。この二つの節をもつてキリスト敎道德の根本的精神は盡きてゐる。第三節以下はこれが適用である。またキリスト敎道德の細則である。
 第三節より八節までは「謙遜」である。彼は第一に謙遜についてしるして、しかるのち更に説き及ぶ。これ特に注意すべきことである。
 第三節の初めにおいて、パウロはまずいう、「われ、受くるところの惠みによりて、なんじら各人に告げん」と。この發語のすこぶる謙遜なるを見よ。、わざと「惠み」という語を選びしは、彼の美しき謙遜を語るものである。謙遜の敎えを説くにあたつてまず謙遜の態度を取る、まことにうるわしき心事というべきである。
 謙遜について聖書の敎うるところいかに。それが日本人の普通に考えおるところのものと根本的に相違してゐることに注意すべきである。日本においては、謙遜といえば、主として外形上のことである。すなわち態度言語に關したことである。その心の状態のごときはあえて問わず、ただ外に現われた形をとらえて謙遜という。その心いかに神に對しまた人に對して謙遜なる者であつても、言語や態度において恭謙ならざる者は傲慢(ごうまん)として貶(へん)せられ、その心は驕慢(きょうまん)にても、表に謙遜を装う者は德器と稱せられて、決して僞善者といわれないのである。わが國において、「謙遜」なる道德がかく表面的に淺く見られおるは、なげかわしきことである。
 
 パウロの敎うる謙遜とはいかに。パウロはいう、「心を高ぶり思いを過ごすことなかれ。神の各人に賜わりたる信仰の量りに從いて公平(たいらか)に思うべし」と。原文には「自己について正當に思い得る以上に思い過ごすなかれ」とある(英語聖書參照)。これを一言にしていえば、「思い上がるなかれ」である。自己を正しく知ること、自己の値打(ねうち)を正しく知ること、それがまず第一である。そしてその自己の價値以上に自己を思わないこと、これすなわち謙遜の消極的半面である。神に對しておのれの無知無力なること、キリストに對しておのれの罪深く汚れ多きことを知りて、人は心に謙遜をいだくべきである。自己について思いを過ごさないことが謙遜である。深く學べる者は、自己の知識の限度をよく知りて謙遜である。眞の學者はみな謙遜である。同樣に、眞の信者はみな謙遜である。僅少の知識を誇る者、不純なる信仰をもつて得意とする者、かかる人たちは自己について思い上がりて、自己の淺慮を人に示してゐるのである。
 謙遜の積極的半面は「神の各人に賜わりたる信仰の量りに從いて公平に思うべし」である。「信仰の量り」とは、信仰の分量ではなく、信仰のことについて與えられたる力の分量であると思う。すなわち信者として自己のなし得る働き、信者として自己に與えられしある技能をさすと思う。この働き、この技能相當に、自己について公平に(思い過ごさぬよう、謙遜に、正確に、まじめに)思うべきである。自己に與えられし賜物をそのままに、その値だけに評價せよである。人にみないずれも天賦の技能がある。。謙遜ということは、自己を眞價以上に見ないと共に、また眞價以下に見ないことである。正當に認むべきだけに、公平に、正確に、さしつかえなき程度において、自己の賜物 -- 與えられある能力 -- を認むることである。
 以上、第三節の説くところは謙遜の眞性質である。心を高ぶり思いを過ごすなかれ。信仰の量りに從い公平に思うべし。すなわち自己を眞價以上に見るなかれ。また眞價以下に見るなかれ。自己に賜われる能力をそのままに認むべしというのである。自分にすべての能力がそなわつてゐると思うてはならない。また自分に一つも能力がないと思うてはならない。自分の能力を正確に知れる者は、驕慢なることなくしてよく謙遜たるを得るのである。かくパウロは説きて、四節以下において、この謙遜の敎えを實際に當てはめて説明するのである。まず四、五節においていう、
 。目は、見ることのできる自己の能力を正常に認め、それ以上にもそれ以下にも自己を認めないのが眞の謙遜である。一つ体の各肢体たる信者は、自己についてかく認めねばならぬ。自己にある能力だけを認め、その能力を働かして他のために盡くし、他人の持てる能力を貴びてその値を認め、互いに相推賞しそ謙遜の美を發揮せねばならぬ。哲學者ライプニッツは、「有機体とは、その各部が同時に手段にしてかつ目的たるものなり」との定義を下した。目は自己をもつて目的としてはならない。他の各肢体を目的としてこれに仕えねばならぬ。しかし耳より見れば目がまた目的の一つたるのである。信者各自は自己をもつて目的とせず、互いに他をもつて目的とすべきである。ゆえに、自己は自己より見れば他の手段であるが、また他より見れば一つの目的である。かかる精神がすべての信者にあれば、その敎会は實に理想的の団体となるのである。
 
  敎会は各員みな神より賜われる技能を異にしてゐるある人は目たり、ある人は口たり、ある人は足たるのである。ここにパウロは、豫言以下、七つの務めを擧げてゐる。これ當時の敎会の實際であつたのである。ゆえにこれは謙遜を敎うる説明を助くるにとどまらず、初代敎会の實況を知る一資料として興味深いものである。
 第一は「豫言をなす者」である。豫言とは、神より直接に啓示されし眞理を人に向かつて語ることである。
 
 信仰に應ずるよう豫言せねばならぬとは何を意味するか。ここにいう信仰とは何の信仰か。「福音についての正しき信仰」と見てよいと思う。正しき信仰に應ずるよう豫言すべし。これが眞の豫言である。
 
 豫言の次は「役事(つとめ)」である。牧師、執事
 
 次は「敎え」である。これをなす者を敎師という
 
 敎師の次には「勧めをなす者」があつたこれは、人々を激励し、慰諭(いゆ)して、より強き信仰生活に進ましむる役目である。敎えはもっぱら知性に訴えるもの、勧めは主として情意に訴えるものである。熱烈なる説敎をなして会衆を激励する者、情をこめたる詩を賦して人々を慰むる者、いずれもこれ「勧めをなす者」である。
 以上四つの役目は、主として敎会員、およびその敎会に出席する求道者のみにかかわれるものである。そして以下の三つの役目は、敎会のこの世に對する働き(今日の語にていえば社会奉仕)にかかわるものである。その第一は「施しをなす」者である。すなわち「分け與うる者」である。自己の財を分かちて貧者をうるおす者をさすのである。「惜しみなく施すべし」は、「單純に施すべし」の意である(英語 with simplicity)。慈善は無條件ならざるを得ないのである。慈善を單純に施して、その結果に注意を拂わざるが、眞の慈善である。「なんじ施しをする時、右の手のなす事を左の手に知らするなかれ」(マタイ傳六・三)とは、この種の慈善をいうのであろう。
 次は「治理(おさめ)をなす者」である。これは人を助くるための種々の事務に當たる者、慈善その他善事の實行に當たる役である。敎会においておこないいたる種々の慈善博愛の事業の處理者を意味するのであろう。「
 最後に擧げられしは「あわれみをなす者」である。これは慈善以外の愛のわざをさす。病者を見舞い、苦しめる者を慰める等の精神的のあわれみをなす者をいう
 
 初代敎会に右のごとき各種の役目があつた。自己に與えられし才能について公平に思うべしである。そして一つ体の一つの肢体としてその才能を用いよである。半ば消極的にして半ば積極的、これキリスト敎的謙遜の特徴である。普通道德家のいう謙遜に比してその差のいかに大なるよ! これクリスチャンのおこのうべき謙遜である。
 
 
第四十八講 約   説
キリスト敎道德 その一 謙遜
 
 「われに賜わりたるところの惠みによりて、なんじらおのおのに告ぐ。なんじら、思うべきところを越えて自己を高く思うなかれ、神のおのおのに賜わりたる信仰の量に從いて公平に思うべし」(ロマ書三・三)と。キリスト敎的謙遜を敎えたることばである。キリスト敎的道德第一は謙遜である。「キリスト敎は謙遜の宗敎なり」とカーライルはいうた。「なんじら、キリスト・イエスの心をもて心とすべし。彼は神のかたちにてありしかども、みずからその神とひとしくあるところのことを捨てがたきことと思わず、かえつておのれをむなしゅうし、しもべのかたちを取りて人のごとくなれり。すでに人のごときありさまにて現われ、おのれを低くし、死に至るまで從い、十字架の死をさえ受くるに至れり」(ピリピ書二・五-八)とパウロはいうた。主イエスは弟子たちに告げていいたもうた、「われはなんじらの師また主なるに、なおなんじらの足を洗いたり。なんじらもまた相互に足を洗うべし「(ヨハネ傳十三・十四)と。
 
 謙遜にもまた消極積極の兩方面がある。「高く思うなかれ」というがその一面であり、「公平に思うべし」というが他の一面である。自己を眞價以上に思うなかれ。自己の何たるかを知れ。生まれながらにして滅びの子、恩惠によりてゆるされたる罪人、かかる者は高ぶらんと欲するもあたわず。人はまず自己を知らざるべからずというが、眞實(ほんとう)に自己を知れば、何びともへりくだらざるを得ない。自己の内に何か善きものを發見せりと思う者は、いまだ眞實に自己を知らない者である。
 しかしながら、へりくだるのみが謙遜ではない。「高く思うなかれ。公平に思うべし」である。自己の分限を知るべし。へりくだるといいて、自己を無視してはならない神はわれら各自に信仰を賜いて、信仰にかなう特殊の賜物を賜うた。信仰の量に從い、おのが天分を認むることは、高ぶりではない。ほんとうの謙遜である。謙遜の積極的半面は自覺である。自任である。自己について思うべきところを越えて思わず、思うべき範圍において、公平に適宜に思う。それがほんとうの謙遜である。
 クリスチャンはキリストにありて一体である。これを稱してエクレジヤ(敎会)というキリストにおいて一体たるエクレジャの機關(肢体)として、豫言者がある。役者(えきしゃ)がある。敎師がある。勧師がある。慈善家がある。統率者がある。慰籍者がある。彼らは一体であつて、また相互に肢体である。すなわち相互に助けまた助けらる。事はコリント前書第十二章につまびらかである。この個處の註解として精讀を要す。
 神より直接の啓示(しめし)にあずかる者が豫言者である。されども豫言は信仰の量に從うを要す。信仰なくして啓示に接するあたわず。信仰なくして豫言を解することができない
 
 役者(えきしゃ)は、神の賜物を他に分かつ者である。。敎師は、敎理を闡明(せんめい)してこれを敎うる者である。今の神學者または聖書學者はこの部類に屬する者である。勧師すなわち「勧めをなす者」は信仰の奨励者である。今日のいわゆる福音師(エバンジェリスト)であろう。敎師が人の理知に訴うる者たるに對して、勧師はその感情を動かす者であろう。。「施しをなす者」とあるは、今の慈善家である。「治理(おさめ)をなす者」とは、この場合においては善行の統率者である。愛の行爲に一定の方針なかるべからず。無方針の慈善は益よりも害多し。しかしてこの任に當たる者は「怠らず」なすべしという。。キリストの心を心としてのみ、よくこの機密に觸れることができる。
 
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