ロマ書の研究第33講

第三十三講 潔めらるること(六)
- 第七章十四節 ~ 二五節の研究 -

 

 
パウロの二重人格
 
 信仰は元來個人的である。他人の信仰を語るのではない、敎會の信仰を語るのではない、また人類全體の信仰を語るのでもない。自分の信仰を語るのである。「我らが」ではない、「吾人」がではない、「人類または敎會が」ではない、「わが」である、「私が」である。複數ではない、單數である。第二人稱または第三人稱ではない、第一人稱單數である。パウロは大宗敎家であつたが、今日の宗敎家のごとくに、單に一般的信仰を述べなかつた。彼自身の信仰を述べた。自身を信仰の實驗物として他人の觀察に供するを恥としなかつた。ここに彼の信仰の強味がある。「われは肉なる者にして、罪の下に賣られたり」と。「わが願うところのもの、われこれを行(な)さず、わがにくむところのもの、われこれを行す」と。「ああわれ惱める人なるかな、この死の體よりわれを救わん者は誰ぞや」と、われ、われ、われと自分の實驗をもつて宗敎的眞理を證明す、これよりも確かなることはない。而してこの信仰なきものは信仰または宗敎を語るべからずである。而して大なる宗敎家はすべてこの實驗を持つた人である。アウガステン、ルーテル、バンヤンらはみなこの種の人であつた。「われ」と言い得ずして「吾人」と言いて、人類全體の背後に己れをかくす者のごときは、到底眞理を的確に紹介し、人を確實に救うことのできるものでない
 
 二重人格という言葉は心理學より出でたるものである。同一の人において、惡人は善人にともない、肉の人は靈の人につながるというのである。二重人格の人は決して理想の人ではない。彼は僞善者に類する者である。而して使徒パウロもまた二重人格の人であつたと言えば、大抵のキリスト信者はこれを承認しないのである。
 然るにロマ書第七章七節以下において、パウロは明らかに自己の二重人格について述べてゐる。「われ願うところの善はこれを行わず、かえつて願わざるところの惡はこれを行う」と言い、また「われみずから心にては神の法(のり)にしたがい、肉にては罪の法にしたがうなり」というは、確かに彼に二重人格のあつたことを證明するものである。善きパウロとともに惡しきパウロがあつた。靈なるパウロとともに肉なるパウロがあつた。内なるパウロとともに外なるパウロがあつた。神の律法を樂しむパウロとともに罪の法に從うパウロがあつた。
 彼はここに「われ」と言いて、「彼ら」とは言わない、これパウロが彼の不信者時代の状態を述べたる言である、ひとたび信者となりし以上、彼にかかる煩悶苦闘のありようはずがないと。。そのとき彼は確かに現在を忘れ得なかつたに相違ない。さればロマ書第七章後半は、パウロ自身の實驗、しかもその當時の實驗を述べたものと見るほかないのである。それは文辭そのものの上から見て明らかである。
 
 文辭の解釋上より、我らは右の見方の正しきを思う者であるが、さらに進んでこれをキリスト信者の實驗に訴えてみるとき、かかる二重人格の苦悶が事實上クリスチャンにあることはすこぶる明白である。いやしくもクリスチャンが眞のクリスチャンである以上、理想と實驗の矛盾より起る言いがたき苦悶をかならず擔うに相違ないのである。信仰に入りしのち一囘もこの種の苦悶を味わわずと誰かあえて言い得るものがあろうか。すなわち神に從わんとする心と肉に從わんとする心とがともにわがうちに存して、そこに激烈なる戰いが行われつつあることは、すべてのクリスチャンの實驗するところである。これいわゆる内心の分裂である。およそ模範的の信者はいずれもこれを經驗したのである。これあればこそ、靈を肉に宿せるところの人であると言い得る。これなき者は人でない。人以上か、あるいは人以下である。
 
 このことを述ぶるに當つて、余はここに余自身をこの實驗を味わえる者として提出し得るからである。余はクリスチャンとなりてのち、およそ五年を經て、初めてキリストにある平和を與えらるるに至つたものである。そしてこの以前においては勿論、この以後においても、パウロがここにしるせるごとき苦き經瞼を味わわざるを得なかつたのである。すなわちこクリスチャンとなりてのちこの苦悶あり、キリストにある平安を得しのちとても、多かれすくなかれこの苦悶は存したのである。今も存するのである。かく言うは決して恥ではない。また信者の威巌を損ずることではない。これは、聖靈、心にはたらくときに必然起るところの心中の波亂、魂のうめきである。これクリスチャンを見舞う嵐であるパウロもこの嵐の襲來をしたたかに受けた人である。これはすこしも怪しむに足らぬことである。
 
 問題の分るるところは二四節、二五節である。「ああわれ惱める人なるかな、この死の體よりわれを救わん者は誰ぞや」と二四節にはある。信者は勿論、不信者にても良心の鋭敏なる人は、この苦悶の哀聲を茫々たる宇宙に向つて發せざるを得ないのである。人はいかなる人といえども二重人格者である。人には神の律法を喜ぶ半面と喜ばざる半面とがある。自己と自己とが戰いつつあるのが人である。自己の中にて光と暗とが争いつつあるゆえに、上よりの光が人に臨めば臨むほど、かえつてこの心中の矛盾、苦悶は激烈深刻となるのである。
 
 我を救わん者は誰ぞやとのこの疑問に對して、普通人は「一人もなし、全宇宙に一人もなし、人生はかかるものなり、矛盾と苦惱が人生のつねの姿なり、ゆえに永久に戰わんのみ、戰わんのみ」と答える。これかなり勇ましき決心である。しかしこれほどの決心を起し得ざる者は、人生はかかるものなる以上この問題を解かんとするは愚、從つてかかる疑問を起すは愚なりと考えるのである。これ普通人の態度であつて、人をこの惱みより救う者は一人もなしというのである。然るにここにすこしく自信の強き人々がある。彼らは「誰ぞや」の疑問に對しては「ただ我あるのみ」と答える。彼らは言う、人は自分で自分を支配せねばならぬ、自分の惡しきは自分でこれを改めねばならぬ、これは自分の責任として當然なさねばならぬことである、他の者によりて改めてもらうというごときは、無責任であるとともに不可能であると。この言ははなはだ壯である。しかしながら事實は言葉以上に雄辨である。彼らは自己の力をもつて自己を改めんとするも、事實上全き失敗に終り、依然としてなすべからざるをなし、なすべきをなさざる状態にとどまるをもつて終るのである。それにもかかわらず、彼らは口だけにてはただ「我あるのみ」を繰り返すのである。
 
  何人といえどもこの苦惱懊惱より我を救い得るものはない。ただ一人、人にして人ならざる者、神にして神ならざる者、ひとたび神性を脱して人となり、今は神の右に榮光の座にある者、すなわちキリスト・イエス、彼のみがよくこの深刻たとえがたき苦惱より我を救い得るものである。「これわれらの主イエス・キリストなるがゆえに、神に感謝す」である。神の子にして人類の救い主たるイエス・キリストのみが、我らの内心の分裂を癒し、苦悶を除きて、我らを幸福に導き得るのである。彼を仰ぎ、彼によりたのむとき、内心の調和 -- 苦悶の中に哀求せしところの調和 -- この調和が與えられるのである。ゆえに「神に感謝す」るのである。
明らかに二重人格の苦悶より救わるる幸福に入るのである。しかしクリスチャンの信仰生活は、この幸福の絶えざる連続であるとは言い得ない。信仰に入りし者といえども、上を仰がずして自己を見つめるときは -- 信仰よりも良心と道德とが多く問題となるときは -- また舊のあわれむべき二重人格の苦悶におちゐるのである。ゆえに信仰生活はこの幸福とこの苦悶との交錯であると言い得る。苦悶に入りてこれより救い出され、また同じ苦悶を操り返し、また同じ救いを繰り返す、これ實に信仰生活のつねの姿である。もとより信仰の進歩はこの苦悶の度を弱くする。内心分裂の苦しみは、信仰の進むとともに次第に強さを減じてくる。また苦しみにおちいりても、より早くこれより救い出さるることができる。 附記して言う。パウロはここに決して單なる自己の苦悶を訴えたのではない。彼は現在もまたこの苦悶の中にあることを述べたけれども、それは決してただの失望懊惱の聲ではない。彼は明らかにここにキリストによる救いを説いてゐるのである。ゆえにこれは敗戰の哀号ではなくして勝利の凱歌である。うめきつつ、もだえつつ、苦しみつつ、しかも高らかに發するところの凱歌である。實に力ある奏曲、眞正の意味においての大文字である。深く、鋭く、強く、人の肺腑を突く。けれども絶望の哀聲でない。ゆえに決して人をして失望せしめない。強く強く人をなぐさめる。彼はうめきつつ勝鬨をあげて走つた人である。偉大なるかな彼!すべてのクリスチャンの最上の模範たる彼!彼の名のとこしえに讃えられよかし!
イメージ 1