ロマ書の研究第26講

第二十六講 アダムとキリスト(一)
- 第五章十二節 ~ 二一節の研究(上)-

 

 
 ロマ書第五章は、一節より十一節までにおいてもつぱらキリストによる救いを説いた。信仰による恩惠、信仰の生活に與えらるる力、および信仰の結果たる救いは力強く説かれた。十二節よりパウロはアダムとキリストの比較に入る。アダムとキリストは、各々人類の二大代表者である。全世界を蔽う二つの大なる流れの源流に二人は各々立つてゐる。罪と死との源頭にはアダムが、義と生との源頭にはキリストが立つてゐる。人類の罪と死はアダムより來り、人類の義と生とはキリストより來る。このことを説きしものが十二節 ~ 二一節である。原語聖書においては語數二百四十八を算するにすぎないのであるが、これについて古來より註解または解説の試みられしことは幾許(いくばく)なるを知らず、その費されし字數は到底數えがたいのである。ここには細密なる註解にわたるを避けて、おもなる點にのみ注意を向け、以て大體の主旨を探ろうとするのである。もつとも重要なる句は十二節と十八節とである。邦譯聖書はこれを左のごとく譯してゐる。
 
12 さればこれ、一人より罪の、世に入り、罪より死の來り、人みな罪を犯せば、死のすべての人におよびたるがごとし。18 このゆえに、一つの罪より、罪せらるることのすべての人におよびしごとく、義とせられ生命を得ることもすべての人におよべり。
 
 
人類の始祖アダムが堕罪のために死を受くるに至り、そのために彼の子孫にも同一の悲運が臨んだことを十二節は述べる。かく、一つの罪より罪せらるることがすべての人におよんだ。しかし一つの義より、キリストの義は、彼を信ずるすべての人に義と生命とを與える。人はキリストにありて罪をゆるされ、義とせられ、かぎりなき生命を受くるに至つた。アダム一人のために、罪と死が人類を襲うに至りしと相似て、キリスト一人のために、義と生とが人類に與えらるるに至つた。このことを説きしものがすなわち十八節である。
 
 別の語をもつてこのことを言えば、「人類は、一人によつて樂園を失い、また一人によりてこれを恢復せり」ということである。アダムも人類の代表者、キリストも人類の代表者である。神はいずれの場合においても、代表者をもつて人類に相對した。アダムをもつて人類の代表者と見なせしゆえ、その堕罪を人類全體の惰罪と見て、これに死を與え、同樣にキリストを人類全體の代表者と見なして、その義のゆえに人類に永生を賜うに至つたとパウロは主張する。すなわち人類の運命はかかつてその代表者の上にある。第一の代表者の罪のために、「罪せらるること」がすべての人におよび、第二の代表者の義のために、「義とせられ生命を得ること」がすべての人におよんだ。人類の運命の縮まりしも拓かれしも、一にその代表者にもとづいたのであると。これパウロの説くところである。
 この説に對して、まず人類學上の故障が提出される。進化論によれば、人類の祖先は「猿人」である。然るに創世記はアダムを完全なる人と見て、そのところより人類の堕落せしを主張する。科學は、人類の動物よりの進化を見、聖書は、人類の聖境よりの堕落を主張する。このあいだに明白なる矛盾がある。この矛盾を除去せんと欲して腦漿をしぼりし神學者は幾人あるかを知らない。また次ぎには倫理學上の故障がある。人は各々自己に對して責任をもつべきはずである。自身罪を犯さば自身罪を受け、自身義なれば自身賞を受くべきはずである。然るに、他のある一人が、自己の知らぬ間に自己および他のすべての人の代表者とせられ、彼の罪のゆえに自己もまた(他のすべての人も同樣に)その罰として死を受けねばならぬとはあまりに不合理である。同樣に、ある一人がまた全人類の代表者と見られて、彼の義のゆえに自己もまた(他のすべての人も同樣に)永生をもつて報いられるというのも不合理であると。かく倫理學上よりの反對がある。そしてまたこれに對する神學者よりの辨解もある。
 問題は決して簡易ではない。勿論聖書の敎えは天啓に立つがゆえに、科學の證明を得て初めて眞理となるのではない。しかしながら聖書の處説を科學もまた裏書きすることとなれば、それに一層の確實性と光輝とが與えられるのである。また頭腦をもつてのみ研究せらるる科學が、聖書的眞理をことごとくまた完全に證明することはもとより不可能である。それにもかかわらず、科學者が、科學上より見てもまた聖書の處説の誤謬ならざること、または眞理と見らるべきことを明らかにせんとするは、實に貴き努力である。
 
 パウロの主張は、神は人類に對するにその代表者をもつてするというにある。これについて誰人にもまず明白なる一事は、人類が一つの種であるということである。白色人種、黄色人種、銅色人種、黒色人種等の別あれども、各人種間の結婚の可能、およびその間にかならず子の生るることは、人類の一なることを語るものである。また一人種の子が小兒のとき他人種のあいだにおれば、その國の純粹なる語を語り得るがごとき、あるいはまた低き社会道德のあいだに育てられて道德觀念すこぶる稀薄なる野蠻人が、ひとたび福音を信ずるに至れば、全く別の人となるがごとき、いずれもみな人類一如の眞理を傳うるものである。人類は一なりとは、人類學と聖書とがひとしく主張するところである。また「この神はすべての民を一つの血より造り」と、パウロはアテンスにおいてのあの有名の説敎の中に説いた(使徒行傳十七章二六節)。
 次ぎに我らに知らるる明白なる一事は、人類の共同責任 (solidarity) ということである。これは學問の問題ではなくて人生の實際問題である。事實の上において、人類の共同責任は厳として存してゐる。これを好むも好まぬも、事實はあくまで事實である。これより脱せんとつとむるも、人は到底脱し得ないのである。見よ、一家においてその戸主の處業または現状は、家族全體に影響を與えるではないか。戸主はその家族の代表者であるがためである。同樣に、町村長の言行は、その代表する町村の全體に影響し、県知事の言行は、その代表する県民全體に影響する。また大臣あるいは使臣は國民の代表者であるゆえ、その言うところ行うところは全國民にかならず影響し來るのである。
 
 以上によつて二つの事は明らかとなつた。第一は、人類の一なることである。第二は、代表者の存在と總員の共同責任である。すでに人類は一である。人類は全體にて一の社會を形造つてゐる。ここにおいてか、人類全體を代表する者がなくてはならぬ。神はまず始祖アダムを人類の代表者として造りたもうた。彼をもつて、その後に生るべきすべての人類の代表者と見なしたもうたのである。アダムは罪なき者として造られた。彼がもし原始の聖浄を失わなかつたならば、人類は彼にありていかに祝福されたことであろう。しかしながら、サタンは成功し彼は失敗したり彼はその事とともに罪におちいりて、人類の代表者たる責務を汚した。神はやむを得ず彼に死の悲しみを與え、そして彼は人類の代表者たるゆえ、全人類にも死の悲しみを與えた。人類は一にして、總員の共同責任が原理として、存する以上、これは實にやむを得ざることである。しかし共同責任の原理は人類に禍のみをもたらさなかつた。代表者の罪によりて死を受けし人類は、ここにまた代表者の義によりて生を受くるに至つたのである。神はアダムの失敗を補うべく、その獨り子を人となして世に降し、彼を人類の新たなる代表者として、彼をして人類にかわつて罪の罰を受けしめて、人類の罪をゆるし、彼をして人類にかわつて義を成就せしめて、人類に永生を與うる道を取りたもうたのである。人類の一體なることと、代表および共同責任のこととを事實として認むる上は、このキリストの人類代表と、彼一人よりして恩惠が全人類に臨みしこととの決して不合理ならぬを知るのである。十八節の前半は實に悲しき音信である。「このゆえに、一つの罪より罪せらるることのすべての人におよびし」と讀みて、我らは人類共同責任の恐しさにふるえるのである。さりながら、後半のいかに嘉(よ)き音信なるよ。「一つの義より、義とせられ生命を得ることもすべての人におよべり」と言う。キリスト一人の義が、義と生命とを全人類におよぼすのである。感謝すべきかな!
 かくて今や光明の時代である。始祖の堕落のために陰暗の彷徨をつづけねばならなかつた人類社会に、今やはや義の太陽は昇り來つて、眼くらむばかりの光輝を放つてゐるのである。キリストすでに我らにかわつて罪の罰を受け義を成就せしがために、我らは今彼を信じさえすれば、罪を消され、義を與えられ、とこしえの生命をもつて惠まるるのである。「神、罪を知らざる者をわれらのかわりに罪人とせり、これわれらをして、彼にありて神の義となることを得しめんためなり」とある(コリント後書五章二一節)。實に今や恩惠の時代である。この絶大の幸福が我に與えらるることを思えば、人間世界になお存在するところの災禍、愁苦、哀痛のごときは言うに足らない。まことにそうである。義の太陽はすでにのぼり、恩惠の光は人類の全野を照してゐる。然るにもかかわらず、まだこの光の人類の全部にゆきわたらぬは何ゆえであるか。言うまでもなく、それはわが心靈の戸を閉じてこの光を導き入れぬ人のはなはだ多いからである。光があまねく照さないのではない、あまねく照してゐるのに、これをわが魂の前よりしりぞけつつある人が多いのである。さればすべての人よ、速かに靈魂の戸を徹して赫耀(かくよう)たる靈界の光を入れよ。すべての善きこと、幸いなること、惠まるることは、この一事よりして起り來るのである--すべての惡しきこと、禍いなること、詛わるることが、かの一事よりして起り來りしがごとくに。
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