内村鑑三 マタイ伝 63講 イエスの終末観-3

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63
 マタイ伝-3
 
エスの終末観
馬太伝第二十四章の研究
大正8410 『聖書之研究』225   署名内村鑑三述藤井武筆記
 

 
 
第三回(三月二日)
世の終末の審判等の問題を研究するに当りて先づ明白ならしむべきは聖書の如何なる書なる乎である、今日多く教会内に於て見るが如き聖書に対する不信は措〔お〕いて問はず、之を己が霊魂の糧(かて)として貴ぶ人々の間にも二派の別がある、其一は聖書を以て神の書なりと為〔な〕す者である、その謂(いひ)は聖書が単に神の言なりといふのみならず又始終一貫したる書なりといふに在る、自(みづか)ら書を著はしたる経験ある者は知る、何処〔いずこ〕よりともなく一箇の思想我が脳中に躍出(やくしつ)し之を表現せずんば止〔や〕む能〔あた〕はずして即ち筆を執るのである、故に其表現の完否は別として真正の著書には必ず始終一貫したる思想がある、聖書は新旧約六十六巻に分たれ其記者亦〔また〕数十人の多きに上ると雖〔いえど〕も神が聖霊に由て彼等をして書かしめたるものなれば徹頭徹尾(てつとうてつび)一貫したる書the Bible である、其中に何記何書何伝等の区分あるは恰〔あたか〕も箇人の著書に章節の分類ありて各特殊の題目を有すると異ならない、創世記より黙示録に至る迄唯一巻の書であると、之れ古くより多くの信者の抱きたる観念である、然〔しか〕るに又他の人々は曰ふ聖書は一の文学なりと、文学とは何ぞ、数多(あまた)の思想の収録(しうろく)である、日本文学又は英文学と言ひて仮令〔たとえ〕或る共通の色彩を有せざるに非ずと雖も到底一箇の思想を以て貫徹せられたるものではない、聖書を聖文学the Sacred Literature と称するは即ち之を一巻の書と見ざるの思想である、是に於てか所謂時代思想を云為〔うんい〕し聖書の真理を以て時代の産物と見做〔みな〕さんとするに至る、聖書に関する近代の著書は多くは此立場に在る者である。
二者孰(いづ)れが果して真である乎、今此処に之を論議せん事を欲しない、然しながら唯一事の承知すべきは聖書は一巻の書なりとの思想に侮(あなど)るべからざる理由ある事之れである、近代人は神が聖霊を以て前後千五百年に亘〔わた〕り二十有余の人をして一巻の書を書かしめたりとの説を聞いて一笑に附すると雖も余輩は彼等に対して下の如き人々の著書を推薦せんと欲する、
サー・ロバート・アンダソン、彼は英国の前警視総監にして驚くべき常識を有したる実際家であつた、彼は勿論教師ではない、然しながら平信徒の立場に於て其晩年の生涯を専〔もつぱ〕ら聖書の研究に献げ幾多の名著述を遺して最近に世を逝〔さ〕つた。
AJゴルドン、彼はボストンに於ける浸礼教会の牧師として有名なるフイリツプス・ブルツクスと相対して立つた、而して雄弁に於ては後者を推さゞるを得ざるも福音的信仰に於ては前者は確かに後者の上であつた。
アーサー・T・ピヤソン、米国の産みたる最大宗教家の一人である。
ウイルバー・チヤツプマン、米国長老教会の牛耳を執りし人である。
CI・スコフイールド、近世に至り世界中の平信徒をして聖書を読ましむるに成功せし者である、彼は其完全なる聖書知識を以て聖書の全部を己が頭脳中に収めし観がある。
其他独、仏、瑞等の学者に之を求むればベンゲル、ガウセン、ツアーン、ゲス等挙げて数ふるに遑(いとま)がない。
聖書は実に一巻の書である、故に其の全体を通じて同一の思想を啓示する、世の終末の審判に関する馬太〔マタイ〕伝二十四章の教へは又聖書全体の教へである、殊に但以理(ダニエル)書第九章は此問題の上に大なる光を与ふるものである。
但以理(ダニエル)書に就て学者の論議する所は甚〔はなは〕だ多い、就中〔なかんずく〕再臨反対者は屡々〔しばしば〕嘲りて曰ふ、再臨の信仰は但以理(だにえる)書より
出づるに非ずやと、然しながら倫理的歴史的立場より書かれしイエス伝の最大権威と称せらるゝカイム曰く「イエスの最も愛読したるものは但以理書なり、之を名〔なづ〕けてイエスの預言書と称するを得」と、以て但以理(だにえる)書の価値如何〔いかん〕を知る事が出来る、此書を除いて新約聖書を解せん事は不可能である。
汝の民と汝の聖〔きよ〕き邑〔まち〕の為に七十週を定め置かる……汝暁(さと)り知るべし、ヱルサレムを建直8たてなを)せといふ命令の出づるよりメシヤたる君の起る迄に七週と六十二週あり……其六十二週の後にメシヤ絶たれん……又一人の君来
りて邑(まち)と聖所〔きよきところ〕とを毀〔こぼ〕たん、……彼一週の間多くの者と固く契約を結ばん……斯〔かく〕て遂〔つい〕に其定まれる災害(わざわい)残暴(あらさ)るゝ者の上に斟(そゝ)ぎ降らん(ダニエル書九の廿四以下)選民の救拯〔すくい〕の為に七十週を定め置かる、その七週と六十二週との後にメシヤ絶たれん、而して最後に審判の一週ありと言ふ、当時のユダヤの計算法に由れば一週とは七年である、即ち七週四十九年と六十二週四百三十四年、ダニエルが啓示を受けてより略々〔ほぼ〕此年数を経たる後にキリストは十字架に釘〔つ〕けられ給うた、而して尚〔なお〕其後に一週即ち七年の審判の時ありと預言せらる、然らば此審判の時代は歴史上如何に接続するのである乎、馬太伝二十四章の預言は但以理(ダニエル)書の何〔いず〕れの時代に関するのである乎。
此問題に対してスコフィールド、ゲーベライン等は答へて曰ふ「イエスのべテレヘムに生れし時東方の博士等はユダヤ人の王として生れ給へる者は何処に在〔いま〕すやと言ひて尋ね来りしが如く彼は実(まこと)にユダヤ人の王として出現し給うた、彼は預言者等の預言したる王国を建設せんが為に来り給うたのである、而して所謂〔いわゆる〕山上の垂訓は彼の王国に行はるべき律法〔おきて〕にして奇蹟は彼の王国の民たる者に与らるべき力であつた、然るにユダヤ人は彼を迎へなかつた、「彼己(かれ)の国に来りしに其民之を接(う)けざりき」、彼等は己が王たるべきイエスを捉〔とら〕へ之を異邦人に渡して共
に十字架に釘〔つ〕けて了つたのである、斯る民を以て天国を建設する事は出来ない、是に於てか神は断然選民を滅ぼし給ふ乎、若〔もし〕くは別に方法を立て二千年又は三千年の後を待ち再び選民を以て其本来の目的を遂行し給ふ乎、二者其一を選ぶの他なかつた、然るに神は慈悲深く忍耐に富み給ふ神である、彼はユダヤ人を滅す事を為さずして終の一週を後の時代に延引し給うた、而して其間へ挿入するに所謂「異邦人の時代」を以てし給うたのである
(路加〔ルカ〕伝廿一の廿四)、異邦人の時代或〔あるい〕は又之を教会時代といふ、「教会」の観念は初よりキリストの計画中にあつたのではない、彼が此世に神の国を建設せんとの計画を選民の不信の故に抛棄〔ほうき〕せざるを得ざるに至りて新に教
会時代が始まつたのである、而して教会時代の終りし後に最後の一週は来る、馬太伝二十四章は即ち世の終末の一週に関する預言である」と。
此解釈は誠に聖書を解し易からしむる説明である、斯く神の定め給ひし「時代」(dispensations)を分ちて聖書を読む時は従来我等を苦めたる多くの難問題を解決する事が出来る、馬太伝二十四章の外テサロニケ後書二章一節以下又は約翰〔ヨハネ〕黙示録(或学者は之を馬太伝二十四章の註解として見るべしといふ、後者は前者の縮図である)
は此延引せられたる一週に関する記事である、之に反しパウロの書翰の大部分は教会時代に関する書である、教会は十字架と終の一週との間に挿入せらる、ユダヤ人自〔みず〕からキリストを斥〔しりぞ〕けたるの結果神の特別に造り給ひし者が基督者である、換言すればキリストの十字架の功(いさおし)を信ずるのみに由て異邦人及びユダヤ人中より呼び出され而して終の一週の始まらんとするに先だちて其数は満ちキリストの新婦(はなよめ)として携へ挙げらるゝ者、之れ即ち基督者である、故に福音書に於ては馬太伝十六章に始めて「教会」なる文字を見るも之れ明かにイエスユダヤ人に棄てられ給ひし後の思想である。
馬太伝二十四章は世の終(をわり)の時代に関する預言である、終(をわり)に至て此世に戦争、饑饉〔ききん〕、疫病、地震等あり、然る後キリストの再来ありて世は改(あらた)まると言ふ、こは果して真実である乎、我等の理性に訴へて信じ得べき事である乎、
近世科学は万物の徐々的進化を教ふるに拘〔かかわ〕らず人生豈〔あに〕独り其完成に先だちて大変動を要せんや、然しながら人生の事実は聖書の言の真実なるを証して余りがある、誰か自己の霊的救拯の実験を語りて我は自ら識らざる間に徐々として基督者となれりと言ふ者がある乎、少くとも余自身は然らず、自ら救はれんと欲して躁(もが)けば躁(もが)く程益々深く罪の底に陥り将〔まさ〕に絶望せんとしたる時忽〔たちま〕ち大能の手降りて余を救うたのである、世界は今や講和会議の結果新しき光を見るに至らん事を切望して已〔や〕まない、仮に此希望は充さるゝとするも何故に二千万の人を犠牲〔ぎせい〕としたる大惨劇を経ずして茲〔ここ〕に達しなかつた乎、蓋〔けだ〕し光明の前に暗黒の臨むは人の救はるゝ途なるが故である、其事は昔も今も変らない、ノアの時代にも洪水来りて世を滅ぼし然る後に新しき光は臨んだ、神の救の手に縋(すが)らんが為には人は先づ往く所まで往かなければならない、之れ人類の経験の示す事実である、イエスの終末観は進化論に背くと雖〔いえど〕も人生の事実には背かないのである。
「民起りて民を責め国は国を責め饑饉疫病地震所々にあるならん」と、平和の時代に之を読みて殆〔ほとん〕ど一笑に附せざるを得ない、然しながら誰か思はざる時に大戦乱の勃発するなきを保証し得やう乎、一九一四年七月米国の或る平和主義の巨頭は数千の聴衆を集めて戦争絶対的廃止の日の切迫せるを宣告した、然るに何ぞ図らん爾後二
週日を出でずして未曾有〔みぞう〕の世界戦争は開始したのである、人は今日の如き交通の発達と農学の進歩とを以てして世界に於ける一般的饑饉は有り得べからずと思惟〔しい〕するも事実は然らず、先般米国食糧大臣の作製したる地図に由て見れば今や全欧洲は饑饉状態に瀕〔ひん〕しつゝある、就中〔なかんずく〕甚しきは露西亜〔ロシア〕である、世界中最も豊富なる麦産地にして却〔かえつ〕て最も貧寒なる饑饉状態に陥る、神の饑饉を地に降さんとするや其の甚だ容易なるを思はざるを得ない、疫病亦然り、伝染病予防の方法は既に間然する所なきに似たるも流行性感冒は全世界を襲うて停止する所を知らず
欧洲北米南米濠洲印度〔インド〕南阿等皆其害を蒙〔こうむ〕らざるはなく、本年一月十五日迄に之が為に斃〔たお〕れし者六百万を算〔かぞ〕へ、西班牙〔スペイン〕国バルセロナ市の如きは一日の死者千二百人に上りし事あり、誠に恐るべき世界的疫病である、而して我等は眼前に其害毒を目撃しながら今日の医学を以て之を如何ともする事が出来ないのである。
避け得べき戦争も之を避くるを得ず、脱(のが)れ得べき饑饉疫病も亦之を脱るゝ事が出来ない、然らば地震は如何、地球は未だ全く冷却したるに非ず、地表より七哩〔マイル〕の下は今尚〔なお〕真紅(しんく)の火なりといふ、余を教へたる或る地質学者は常に曰うた「地球の中心は固体なる乎溶液なる乎余は未だ之を決定する能はず、一週中三日は彼ならんと思ひ四日は此ならんと思ふ」と、実に何人も地の変動に就て保証する事は出来ない、地震学の進歩の故を以て毫も安心すべからずである。
愛の神は何故に斯かる患難を降し給ふ乎、何故愛児を撫育〔ぶいく〕するの態度に出で給はざる乎、こは人間の申分(まうしぶん)である、神は決して何等警告を加ふる事なく人の罪深きに至て不意に之を陥〔おとしい〕るゝが如き無慈悲を行ひ給はない、幾度びか誡告に誡告を重ね忍耐に忍耐を加へて悔改を促(うなが)し給ふ、然れども人の之を熟知して尚従はざるに当り神は何時〔いつまで〕迄も慈母の態度を続けて可ならんやである、愛の神に忍耐の絶ゆる時がある、其時即ち滅亡忽〔たちま〕ち世に至るのである。
然らば神に従はざる者をして其往く所に往かしめん乎、而して我等は唯神の審判の降るを待たん乎、否神は人を造りて之に自由意思を賦与〔ふよ〕し給うたのである、故に今日未だ神に従はざる者と雖も明日或は悔改むるに至らん、之れ何人も予知する能はざる所である、而して神は「憐憫(あわれみ)あり恩恵(めぐみ)あり怒る事遅く慈悲深くして災禍(わざわい)を悔い給ふ者」なれば悔改者に対しては必ず其の定めたる滅亡を取消し給ふ、故に我等をして一人なりとも悔改に導かしめよ、出来得る限り被審判者の数を少からしめよ、伝道の意義は此処〔ここ〕に在る、世の終末の切迫を知りて我等は愈々〔いよいよ〕
福音の宣伝に熱心なるべきである。
1919(大正8)4