藤尾正人兄「一書の人になるな」

藤尾兄の今月2度目のブログで感謝です。

 

藤尾兄のブログ「一書の人になるな」との忠告、確かにその通りで、見方、考え方が狭くなるのでしょう。
出来るだけ広く、深く読書をするように心がけましょう。僕は何冊かの本を並行して読む癖がついてまして、書斎、寝室、居間、それぞれに読みかけの本が
置いて合います、居間には葉室麟の「霖雨」、これは深くて面白いです。儒教の教師に関わる物語でもう直ぐ読了、寝室には佐藤全弘の「日本の心と武士道」、
佐藤全弘は関西在住の「新渡戸稲造や、藤井武らの研究家で、新渡戸の「武士道」の翻訳は一番分かりやすいとおもいます。書斎では、ウイリアムマクドナルドの
新約聖書注解1-3」各600ページの大分ですが、聖書の御言葉の節一つ一つを解説して非常に分かり注解書です。最近入手したのですが、もっと若い頃に
手に入れていたのなら、聖書理解が深まったのにと、後悔しきりです。このウイリアムマクドナルドを知ったのは、彼の書いた「この日を主と共に」という
内村の「1日一生」に似た御言葉と解説を毎日1ページにまとめて物で、毎朝書斎での一番はこの書の読書から始めています。
一つの本をじっくりと読む読み方もあるのでしょうが、むら気な僕はあちこちに飛んだ方が性に合ってるようですが、
あれはどの本だったかと後で探すのが
大変です。でも藤尾さんの言われるように一つに囚われて凝り固まるのも自由な発想を疎外するのだろうと思います。
 
 
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藤尾正人兄ブログ
 
2015-03-15 「一書の人」になるな   shirasagikara2015-03-15
 
北陸新幹線314日に開通し、わたしの次男一家が住む金沢まで、以前は4時間もかかったのに、
わずか2時間半で行けるようになりました。金沢や富山は、これからメディアの報道合戦の渦中におかれることでしょう。
たしかに北陸には、加賀百万石といわれる金沢をはじめ、重なり積み上げられた伝統工芸や食文化、
それに雄大素朴な風景があります。それを紹介するとき、ただたんに、「すごい~」「きれい~」「おいしい~」
というだけではつまりません。どこが「すごい」のか、なにが「きれい」なのか、どのように「おいしい」
のかを伝えるのです。これはすべて、なにかと比較できるとき、深いものになります。「あそこの品物」と、
「どこそこの景色」と、「外国のグルメ」とくらべて「こうだ」と言いたいですね。、
つまり「A=A」ではつまらないのです。それはキリスト信仰を説明するさいも同じです。
「これはうまい」や「キリストはすごい」だけではなく、一工夫が大事です。
「キリストはキリストです」と肯定するのは、間違ってはいませんが、説明不足でしょう。
「キリストはキリストでは、ありません」はキリストの否定ですが、「キリストは、
キリストでないものではない」は二重否定でキリストを肯定しつつ、ほかの「キリストでないもの」と比較して、
強くキリストを表現できます。ほかとくらべて「キリストはすごい~」「キリストは美しい~」「キリストのことばは、おいしい~」
と、説明する時、
キリストさまの深みが立体的にうかびあがります。イエスさまご自身も、福音の真理をほかのものと比較して
「たとえ話」で話されています。だから「一書の人」になってはいけないのです。「一書の人」は、聖書なり、論語なりを精読して、
ほかの書物に目もくれぬ人です。しかし「一書の人」は、強いけでど、狭くもろい面があります。比較する「他者」が乏しいからです。
内村鑑三新渡戸稲造などの強さの秘密は、若いとき儒学をたたきこまれ、その上にキリスト信仰を接木されたことにあります。
けっして「一書の人」ではありません。福沢諭吉も、夏目漱石や、南方熊楠もまたそうです。「一書の人」で満足し、
それを誇ってはいけないとおもいます。
「イエスは、たとえを用いて彼らに多くのことを語られた」(マタイ・133

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