戦争絶対廃止論者・内村鑑三

 
戦争絶対廃止論者・内村鑑三
 
余は日露非開戦論者であるばかりでない
戦争絶対廃止論者である
 
戦争は人を殺すことである
そうして人を殺すことは大罪悪である
 
そうして大罪悪を犯して個人も国家も
永久に利益を収め得ようはずは無い
 
7月1日NHK TVにて「日本人は何を考えて来たか、東と西を繋ぐ内村鑑三新渡戸稲造、」と言うシリーズ番組の第5回目が放映された。日本の明治維新以降の日本人に新しくキリスト教と西洋思想を伝道してきた内村鑑三新渡戸稲造の二人の平和主義者が主役で、彼等の如何に生きたかを活写してくれた。武士道にキリスト教を継ぎ木するキリスト教こそ世界を救う物である、とする主張はこの21世紀において始めて必要とされるのである。
 
8月に入って平和への希求が声高に述べられているのは、福島の原子力発電所の崩壊と広島長崎の原子爆弾の被害の記憶が重なって来たが故であろうと思うが、人間の愚かさを改めて思う。否、人間の欲望の前には過去の悲劇は消し去られるのだろうか。
内村は語る(ロマ書の研究第11講)
「我らはパウロの數えし二十一の罪をことごとく犯す者でないかも知れぬ。しかし五十歩百歩の争いはこの際不用である。とにかく我らは明らかに不義を犯す者、我らは罪人である。然らばいかにすべき、甘んじて滅亡の未來を待つべきか。そは堪えがたい。然らば死を變えて生となすの工夫は何處にあるか。これ重大なる疑問である。
 
そして勿論この疑問に答えるものは聖書である、福音である。我らはイエスの十字架を仰ぎ見て罪の赦免を得るとともに、またイエスを仰ぎ見て罪を脱するの道に入るべきである。自己の努力いかに強烈を加うるも、我らは罪を取り除くことはできない。主イエスを心に迎えて、彼が我の主人公となつたとき、彼が我にありて--換言すれば、我が彼にありて--罪を脱することができる、義を行うことができる。心に神の國が建設せらるるとき、我らはおのずと怨恨を忘れ、嫉妬を除かれ、傲慢は失せ不實よりはなるるに至るゆえに我らは自力をもつて一つ一つの罪より脱しようとすべきでない。
 
これは百年河清を待つの類にして、努むれば努むるほど、かえつて深みに陥没することである。我らはただ主イエス・キリスト--神の獨り子にしてまた人類の主なる、そして惡魔を征服し、罪と死の権威をほろぼして勝利の榮冠を得たる彼イエス・キリストを信じ、頼み、仰ぎ見るべきである。わが心靈の戸を充分に開きて、彼をわが心に迎え、彼をして全く我を占領せしむべく計ればよい。そのとき神の靈我を環り照して、我は不義を脱し善を行い得るのである。 」
 
キリスト敎は果して今の社会において實行し得らるべき宗敎なるか、その道德律は到底現代のごとき物質本位の社會において守り得べきものでないのではあるまいかと。これ堕落せる現代がその代表者たる識者をして發せしむる言である。答えて言う、然りと、また言う、否なと。キリスト敎道德は、到底我らが自己の力をもつては實行し得るものではない。しかしながら、ひとたび我らに眞の信仰起りて、イエスの靈來つて我らに代るに至らんか、これ自然と實行し得らるることである
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 蛙は平和である。天敵である蛇は滅多に姿を現さないし、カラスもゴミの豊富な東京では食指を動かさない。動物たちは皆満ち足りているのに人間だけが欲望のために争い人を殺す.故にイエス様は十字架に掛かられて人間の罪をあがなわれたのだった。争いのない時代は何時来るのでしょうか。