ロマ書の研究第39講

第三十九講 救いの完成(六)
八章十八 ~ 二二節

 

 
 神の子とせられし者は、キリストと共に後嗣(よつぎ)たる者である。すなわち改造せられたる宇宙萬物を受くる者である。この大なる榮光を受くべきクリスチャンに今あるものは「苦しみ」である。しかしながら「われ思うに、今の時の苦しみは、われらに現われん榮えにくらぶべきにあらず」(十八)である。榮えより苦しみへ、苦しみより榮えへと、思想は一轉しまた再轉する。あたかも雲の上に雲が湧き出でて重なり、またその上に雲が湧き出でて重なるごとく、偉大なる思想は続々生起して讀者を眩惑(げんわく)せんとする。しかもこれだけにとどまらず、ますます進みて大思想は大思想の上に重なつて起こるのである。
 
 クリスチャンに今あるものは苦しみである。後受くるものは宇宙萬物である。この事を心に置きて、われらは十九節以下を讀むべきである。
 
19それ被造物(つくられしもの)の切望(ふかきのぞみ)は、神の子たちのあらわれんことを待てるなり。
20 それ被造物の虚空(むなしき)に歸らせらるるはその願うところにあらず。すなわちこれを歸らする者によれり。
21また被造物みずから敗壌(やぶれ)のしもべたることをのがれ、神の子たちの榮えなる自由に入らんことを許されんとの望みを持たされたり。
22よろずの被造物は今に至るまで、共に歎き共に苦しむことあるをわれらは
 
  天地萬有は今「敗壊(やぶれ)のしもべ」であるといい、虚空(むなしき)に歸らせられてゐるという。二十節に「被造物の虚空に歸らせらるるは」とあるは、「歸らせられしは」と改譯すべきものである。すなわち既成の事としてしるされたのである。さらば、いつ、いかにしてという問題が起こる。これに答うるものは創世記三章十七、十八節である。いわく「なんじ、わが命じて食ろうべからずといいたる木の實を食らいしによりて、土(地)はなんじのためにのろわる……土は、いばらとあざみとをなんじのために生ずべし」と。これ神がアダムに告げたまいし語である。すなわち始祖堕落のために地もまた虚空に歸(き)せしめられて敗壌のしもべとなつたというのである。實に天然と人とはふしぎの絲をもつてつながつてゐる。人死して天然もまた死し、人生きて天然もまた生きる。人類の堕落は明らかに天然の敗壊を引き起こしたのである。人と萬物とは運命を同じゅうする。人が罪の捕囚(とりこ)となつて堕落して、萬物もまた虚空に歸せしめられつつある。人と天然とを一貫して一つの心が流れてゐる。天然は、人と共に苦しみつつ、今に至つたのである。かくて萬物は人とひとしく、その創造せられし目的を達するあたわずして、苦悶のうめきを続けてゐる。これ天然界の實状であると。これがパウロの天然觀である。
   
 天然を敗壊のしもべと見るパウロの天然觀は、普通人のそれとは全く異なるものである。普通人は天然をもつて美の充溢(じゅういつ)する處となし、それに對して人の汚れを歎じ、天然に恒久不變を見て、人の世のうつろいやすきを悲しむ。しかしこれ淺き天然觀である。天然は美なれども、それは表面だけのことである。一歩深くその内に入れば、醜怪、混亂、残害、争闘である。百花うるわしく咲きそろう草むらの中に、恐ろしき生存の戰い、殺伐なる弱肉強食がおこなわれてゐる。らはすべて、おのれよりも弱きものをしいたげておのれより強きものにしいたげらるるの悲惨なるありさまにある。地の上のいたる處にこれがおこなわるると共に、水中のいたる處に同じくこれがおこなわれてゐる。しかもこれは單に自己の生存に必要な範圍にとどまらずして、ただ他の生命を絶ちて快とする残虐にまで達してゐる。いたちがにわとりを襲う場合のごときはすなわちこれである
 
 實に人類の堕落は地の堕落を引き起こした。人はいかに地を荒らしたことであろう。また荒らしつつあることであろう。今、地を母とし人類をその子とせよ。母なる地はいかに豐富なる物資を子のために備えておいたことであろうまずその一つとして石炭を擧げることができる。これは幾萬年間の年月の産物であつて、再び得がたき貴き物資である。しかるに人類はその利欲のためにこれを空費すること激甚(げきじん)にして、もはや百二十年後には地中にそれを見るあたわずといわれてゐる。石油も同樣であつて、近來のこの濫用はその盡きる時の近きを思わせる。これらはみな、戰争、および平生の戰備、あるいは工業のために用いられるのであるが、善用さるる場合は少なく、多くは人間の愚かなる好戰心、利欲心、企業心のため濫費せられてゐるのである。これらは一、二の實例たるにすぎない。堕落せる人類が、自然界を征服すると稱して、破壊しつつ來たりしことは、あまりに明瞭なる事である。
 
  ああ神の力は無限である。宇宙萬物の運命はいまだ縮まらないある時來たらば、宇宙の改造は人類の完成と共に起こるのである。神の造りたまいし宇宙萬物の根底には今なお復興の力が潜んでゐる。もちろん神には全能の力がある。今日の自然科學も、宇宙に潜在する一種の高大なる目的を認知して、この聖書的希望を否認せざるのみか、かえつて裏書きする状態である。神はある時、その無限の力をもつて吾人を復活せしめ、同時に天然を復活せしめ、かくして宇宙萬物を創造したまいし最初の目的を完成したもうに相違ない神はキリストにありて、われらの深き罪をゆるして、われらを義とし、われらを聖め、すでに大なる恩惠を雨のごとくわれらに注いだ。この恩惠はわれらの完全なる救いにまで至らずばやまないのである。われらはまたそれまで至らずば滿ち足らない。今まで受けたる恩惠より推して、さらに大なるこの恩惠を賜うことをわれらは信ずる。そしてわれらは天然の敗壊を深く悲しむがゆえに、天然もまた復興せんことを望むしかして神はその處道たる天然の荒廃を必ず癒やしたもうのである。かくて人と天然と共に救われて、萬物ことごとく完成し、ただ平和と歡喜のみが全天全地に滿つるに至るのである。
 この大希望なくして、福音は福音ではない。この大實現なくして、神は神でない。もし福音がこれ以下のものならば、福音は福音ではない。もし神がこれ以下のものなれば、神は神でない。人と天然と共に救わるる事、これ實に福音的救濟である。ここに人類の希望がかかつてゐるのである。
 
 
第三十九講 約  説
天然のうめきとその救い
 
 パウロに二つのものが缺けておつたといわれる。その一つは美術を見るの目で、その他のものは天然を見るの目であるとのことである
 パウロにまた天然を見るの目がなかつた。彼は幾たびか地中海を渡りタウラス山を横斷してアナトリヤ高原(今の小アジア)を踏破せしといえども、かつて一囘もその天然美に關する贊美の辭をもらしたことがない。彼にワーズワース、ブライアントの天然觀なきのみならず、主イエスの、空の鳥と野の百合花(ゆり)を愛(め)ずる愛さえなかつたようである。パウロは美術的に無能であつて天然的に貧弱であつたように見える。
 しかしながら、美術の事は別として、天然の事に關して、パウロは決して無能でなかつた。彼にもまた確實なる天然觀があつた。これを傳うるのがロマ書八章十九節 ~ 二十二節である。パウロの天然觀は聖書記者のそれである。ことに豫言者イザヤのそれである。しかしてその天然觀たるや、ギリシャ哲學の流れをくめる近代人のそれよりもはるかに深いものであつた。イザヤもパウロもその目を天然の表面には注がなかつた。深くその心に入つて、そのうめきの聲を聞き、その希望の歌を歌つた。彼らは言うた、人と天然とは同一体である。二者榮辱を共にし、人ののろわれし時に地ものろわれ、人のあがめらるる時に地もあがめらる。ゆえに人の勞苦(くるしみ)は地もまたこれをわかち、人のよろこびに地もまたおどると。エホバはアダムに告げていいたもうた、「なんじ、わが命じて食ろうべからずといいたる木の實を食らいしによりて、土(地)はなんじのためにのろわる」(創世記三・十七)と。すなわち地は人と運命を共にせしめられたのである。人は今や神を離れて罪の内にある。これと共にのろいは地に加えられて、萬物すなわち被造物はのろわれし状態においてある。「被造物の虚空(むなしき)に歸(き)せらるる」というはこの状態をいうのである。人は神を離れて、そのなすところことごとく虚空(失敗)に歸するがごとくに、地と地上の萬物もまたその受造の目的に達するあたわずして、失望悲歎の聲を揚げつつあるという
 
 人は天然の美を語る。されども美はわずかにその表面にとどまる。一歩その裏面に入れば、天然は美にあらずして醜である。調和にあらずして混亂である。平和にあらずして戰争である。夏の野山に百花咲ききそうの状は美しけれども、叢中(そうちゅう)いかなる殺伐、いかなる敗壊が演ぜられつつあるかを知るならば、詩人の心は恐怖にふるえて、贊美の歌は絶えるであろう。へびはかえるをのまんとし、かえるは蟲を食わんとし、蟲は相互を殺さんとす。そのへびをねらうわしがある。そのわしをねらう他の鳥がある。うぐいすの聲うるわしといえども、へびはその巣に侵入してその卵をのまんとし、たかはそのひなと親鳥とをうかがいて巣中の団欒(だんらん)をこぼたんとす。もずの残酷なる、ふくろうの陰険なる、ほととぎすの狡猾(こうかつ)なる、鳥類の常性を研究して見て、春の森、夏の林の決してエデンの園ではないことがわかる。水中においても同じである。他に數尾のやつめうなぎがおれば、他の魚類は腹部に穴をうがたれ、血を吸われて、斃(たお)れてその跡を絶つに至る。いわしや飛び魚やさんまは、くじらやゐるかのえじきとなりて失(う)するに對し、くじらやゐるかにはまたこれを攻撃する逆叉(さかまた)ありて、彼らのこれを恐るるやはなはだし。猫がにわとりをもてあそぶの状、いたちがにわとりを襲うの目的、無情をきわめ、残忍をきわむ。花咲く桜は美しくあれども、その若葉を食う蟲は見るさえ恐ろしく、松食う蟲、稲を枯らす黴菌(ばいきん)數うるにいとまがない。まことに耳を地につけて聞けば天然のうめきの聲が聞こえる。いわくわれは痛む。われは苦しむ。人の子よ、早く救われて、なんじと共にわれを救えよ。われは敗壊(やぶれ)の奴隷たるに堪えず。なんじと共に神の子たちの榮えなる自由に入らんことを願う」と天然は人と共にのろわれ、彼と共に縛られて、共に解放を叫びつつある。
 かくて人類の救いは萬物の救いと共におこなわる。豫言者イザヤは全き救いについて述べていう、
エッサイの株より一つの芽出で、その根より一つの枝生(は)えて實を結ばん。その上にエホバの靈とどまらん……彼はエホバをおそるるをもて樂しみとし、また目見るところによりて審判(さばき)をなさず、耳聞くところによりて定めをなさず、正義をもて貧者をさばき、公平をもて國内の卑しき者のために定めをなし……正義はその腰の帶となり、忠信はその身の帶とならん。おおかみは小羊と共に宿り、ひょうは小やぎと共に伏し、小年、若じし、肥えたる家畜と共におりて、小さきわらべに導かれ、雌牛と熊とは食物を共にし、熊の子と年の子と共に伏し、ししは年のごとくにわらを食らい、乳のみ子は毒蛇の洞(ほら)にたわむれ、乳ばなれの子は手をまむしの穴に入れん。かくてわが聖き山のいずこにても、そこなうことなく、傷つけることなからん。そは、水の海を覆えるごとく、エホバを知るの知識、地に滿つべければなり(イザヤ書十一章)
 
かくしてわが聖き山のいずこにても、そこなうことなく、傷つけることなからん」と。これが完全なる平和であつて完全なる救いである。使徒行傳三章二十節にいわゆる「萬物の復興」とはこの事である。
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富山城の桜