内村鑑三 マタイ伝 56講 波上の歩行

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 マタイ伝
 
波上の歩行
昭和31010日『聖書之研究』339   署名内村鑑三
 
馬太〔マタイ〕伝十四章廿二―卅三節
 
○此所〔ここ〕に記〔か〕いてある事は果して在つた事か否かは今日確(しか)と定(き)める事は出来ない。人が水の上を歩き得やう筈〔はず〕なしと云へば事はそれまでゞある。然〔しか〕し乍〔なが〕ら記事が余りに生々(いき〳〵)してゐるより見て、作談(つくりばなし)とは思へぬと云〔い〕へば是れ亦〔また〕信ずるの理由とならぬでもない。斯かる事を信じ得ると得ないとは各自の性格又は時々の心の状態に由るのであつ
て、我等は如何〔いか〕なる権威を以つてしても斯〔か〕かる事柄に就いて信を人に強〔し〕ひる事は出来ない。
然し乍ら事柄の真否以外に人生経験の問題がある。福音書の此記事を信者日常の生涯に当(あて)はめて見ると、其内に大なる真理の在るを見る。理学的に見たる此記事は信じ難いが、信者の実験に由て見たる此記事は事実有の儘〔まま〕である。此は信者の生涯に於て毎日ある事である。そして日毎に此実験を持たせらるゝ信者は、此記事を文字通
りに信ぜんと欲するのである。此は彼に取りては聖書に在つて欲しき記事、又無くてはならぬ記事である。彼は物理学の比重問題を持出して此記事の真偽を争はんとしない。
○聖書にありては水又海は不安不定の表号しるしである。動揺戦乱悉〔ことごと〕く止〔や〕んで永久の平安の地に臨む時を称して「海も亦有ることなし」と云ふ(黙示録〔もくしろく〕二十一章)。聖書記者に取りては、海は今の人に於けるが如〔ごと〕き善き物に非ずして悪しきものであつた。ヨブは己を苦しめ給ふ神に向ふてつぶやいて言うた(ヨブ記七章十二節) 我豈〔あに〕海ならんや、鱷(わに)ならんやと。即ち我は御し難き野獣に非ず、何とて我を縛り、番人を附けて我を守り給ふやとの謂(いい)である。イザヤ書後篇
の記者は悪人を海に譬〔たと〕へて曰〔い〕うた悪者は波立つ海の如し、静なること能〔あた〕はずして、その水常に濁り泥を出すと(五十七章二十節)。イエスも亦「風と海とを誡〔いまし〕めければ大いに平穏(おだやか)になりぬ」とある(馬太伝八章廿六節)
 
○斯くて海は不従順なるもの、動揺常ならざるもの、安定なきもの、即ち此世を標榜〔ひようぼう〕するものである。之に対して陸は堅きもの、動かざるもの、安全なる所である。そしてイエスが海の上を歩き給へりと云ふは動乱常なき此世を平穏に過ぎ給へりと云ふ事である。イエスは此世に在りしも此世の者でなかつた。彼は天に属〔つ〕ける者であつて、彼の実在の基礎を永久変らざる父なる神に於て有〔も〕ち給うた。故に世の変化に彼は何等の影響をも感じ給はなかつた。恰〔あた〕かも海の上に現はるゝ磐の如くであつて、此世の波も潮も彼を寸毫〔すんごう〕も動かす事が出来なかつた。そして彼に倚る者は彼と偕〔とも〕に永久性を帯びて彼が変らざるが如くに変らなかつた。磐〔よ〕に倚〔よ〕て波浪の間に在りて安泰であつた。そしてペテロは此時此態度に立つたのである。永遠の磐に倚りて彼は浪に呑〔の〕まれずして主と偕に其上を歩(あゆ)んだ。是れ彼に取り新しき経験であつた、然れども疑ひなき事実であつた。彼は確(たしか)に荒れ狂ふ水の上を歩行〔ある〕いたのである。
○然れどもペテロは長く彼の信仰を維持する事が出来なかつた。彼は平常の自己に帰つて自己が危地に在るをおぼえた。彼はイエスを視ることを止めて周囲の浪を見〔み〕た、そして見(たちまち)にして恐怖の襲ふ所となつた。彼は沈み出した、故に声を揚げて援助を求めた。イエスはやがて手を伸べ、彼を援けて舟に登らしめ給うた「信仰薄き者よ、何故に疑ふぞ」と言ひ給ひつゝ。
○そして動乱窮りなき人生の海に於て、神の子イエスのみは世と偕(とも)に動き給はず、彼は「永遠の肯定」として常に泰然たり。そして我等も亦彼を仰瞻〔あおぎみ〕る間は彼の泰然性を与へられて、世と偕に動かず、其波に浚〔さら〕はれない。然れども自己に帰り、神の子を視ることを止めて周囲を見る時に、即ち世の風波に目を注ぐ時に、我等はペテロと同じくその呑去る所となる。信仰を以つて神の子に繋〔つな〕がる間、我等も神の子の性を賦与せられて奇跡的実在者である。我等は環境に支配せられずして神の霊の支ゆる所となる。然れども一たび眼を転じて世の風潮を見るや我等は直〔ただち〕にその呑去る所となる。基督信者は神の子であつて、社交的動物でない。そして彼が信仰を以つて神の一子に繋がる間は、彼は社会的法則の外に立つて、此世の如何なる出来事も彼に禍〔わざわ〕ひせず、安らけく世の荒浪の上を歩む事が出来る。
○まことに世の不安なる今日の如きはない。何〔いず〕れの方面を見ても底なき泥海の如き状態(ありさま)である。政治、経済教育、宗教孰〔いず〕れも不安である。社会は其根柢より覆へされんとしつゝある。若し人は単に社交的動物であつて、彼は社会と運命を共にすべき者であるならば、我等は社会の呑去る所となりて、然る後に社会と共に永遠の深淵の呑去る所とならねばならぬ。斯く思ふて生くる事其事が堪え難き苦痛である。然(さ)れども動揺窮りなき世の荒海の上を神の子は静かに歩行み給ふ。そして我等信仰の眼を彼に注いで、彼と偕(とも)に海の上を歩行むことが出来る。彼を仰瞻(あおぎみ)るべきである、周囲に目を配るべきでない。然れば千人は我右に斃〔たお〕れ、万人は我左に仆〔たお〕るとも、彼に倚(よ)る我等は安全である。