内村鑑三 マタイ伝 54講 毒麦の比喩(たとひ)

54マタイ伝
 
毒麦の比喩
馬太伝十三章廿四―三十節。仝卅六―四十三節。
明治44610 『聖書之研究』131   署名なし
 
エス他の比喩(たとへ)を彼等に提供して曰〔い〕ひけるは、天国は其畑に良き種を播く所の人に譬〔たと〕へらるべし、人々の寝(ね)たる間に其敵来り麦の中に毒麦(ジザニヤ)を播きて去れり、苗生出(はいで)て実りたる時に毒麦も亦〔また〕現はれたり、主人の僕〔しもべ〕来りて曰ひけるは、主よ、汝は良き種を播き給ひしにあらずや、毒麦は何処〔いずこ〕より来りし乎、彼れ僕に曰ひけるは敵人(あだひと)此事を為せり、僕、主人に曰ひけるは然らば我等の往きて之を刈斂(かりあつ)めんことを欲し給ふ乎と、彼れ曰ひけるは、否な、恐らくは汝等毒麦を刈斂めんとして、之と共に麦をも抜かん、収穫まで両〔ふた〕つながら共に生長(そだ)たしめよ、収穫の期(とき)に我れ刈者に曰はん、先づ毒麦を刈斂め、之を燬(や)かんために束(たば)に束(たば)ねよ、而〔しか〕して麦をば之を我が倉に収めよと。群衆を去りて後に彼れ家に入り給へり、弟子等彼に進来(すすみきた)り曰(たとへ)ひけるは、畑の毒麦の比喩を我等に解き給へと、彼れ答へて曰ひ給ひけるは、良き種を播く者は人の子なり、畑は世界なり、良き種は、是れ天国の子等なり、毒麦(ジザニヤ)は悪魔の子なり、之を播く敵は悪魔なり、収穫は世の終末(おわり)なり、刈者は天使なり、毒麦の斂められて火にて燬かるゝが如く、世の終末に於て其如くなるべし、人の子其使者等を遣(おく)らん、而して彼等其国の中よりすべて礙(つまずき)となる者、又悪を為す者を斂めて之を火の炉に投入るべし、其処〔そこ〕にて哀哭(かなしみ)と切歯(はがみ)とあるべし、其時義者は彼等の父の国に於て太陽の如く輝(かがや)かん、聴くための耳を有〔も〕つ者は聴くべし。
○茲〔ここ〕に比喩(ひゆ)と其解釈とがある、故に比喩其物は余輩の解釈を俟(また)ずして瞭(あきら)かである、解(わか)らないのは比喩其物ではない、イエスが此比喩を以て教へ給はんとせし人生の事実である、余輩は茲に少しく此事実に就て語り、以て此比喩をして一層明瞭ならしめんと欲する。
○先づ第一に比喩と云ふ事に就て知るの必要がある、比喩(ひゆ)とは関係のない事を比較(ひかく)して云ふ事ではない、比喩とは顕明(げんめい)なる事実を以て幽玄(ゆうげん)なる真理を説明することである、二者の間に根本的の一致があるのである、唯〔ただ〕、顕明なるは外に顕(あら)はれて何人にも解(わか)り易く、幽玄なるは中に隠(かく)れて甚だ解り難いのである、而して比喩とは解り難い真理を解り易い事実を以て語ることである、真理に難易の別はないのである、唯顕密の差があるのみである、其顕はれたるや、人之を称して解し易しと云ひ、其隠れたるや、人之を呼んで解し難しと云ふのである、麦の畑に生(は)ゆる事実は何人も能く之を知る、然れども善根の人心に植えらるゝ事実は之を知る者が尠い、然し二者は異なりたる事実ではない、同一の事実である、其間に唯顕密の差があるのみである、二者を支配する天然の法則に何の異なる所はない、物界と霊界とは元是れ同一界である、而して霊界の事を語るに物界の事を以てする、是れが
比喩である。
○畑がある、農夫がある、麦がある、麦の間に生えて其葉と茎とを以てしては麦と区別し難きジザニヤ草即ち毒麦がある、播種の春があり、生長の夏があり、収穫の秋がある、而して収穫の時に麦と毒麦との択分(えりわけ)がある、是れパレスチナの田舎(いなか)に於て何人も能く知る事実である、事実は甚だ明白である、而して明白なるが故に何人も之を以て其不調和(ふてふわ)を怪(あやし)まない、人は之を当然の事と見做〔みな〕し、之がために失望もしなければ、亦懐疑にも陥らない。
○然し茲に之に似たる事実がある、人世がある、キリストがある、信者がある、信者の間に在りて其風采言語習慣に於て信者と少しも異ならざる偽信者がある、伝道の時期がある、信仰隆盛の時期がある、随〔したがつ〕て真偽判別の時期がなくてはならない、畑と世と異なる所は、畑は僅〔わず〕かに一年にして実(みの)るに比(くら)べて世は実るに数千年又は数万年を要するのである、唯時期に長短の差があるのみである、其他の事実はすべて同様である、恰〔あた〕かも人の一生の草の一期と見ることが出来ると同然である、一年も七十年も栄枯、盛衰、生死の事実に至ては草と人との間に何の異なる所はない。
○然れば畑を見て人世を知るべきである、畑は人世である、良き種を播く者はキリストである、其間に悪しき種を播く者は彼の敵なる悪魔である、而して良き種と悪しき種とは其生出(はえいで)し苗を以ては見別(みわ)くることが出来ない、ジザニヤ草の能く麦に似るが如く偽信者は能く信者に似る、否な、事は茲に止まらない、雑草の勢力は優(はるか)に禾穀〔かこく〕の上に出で、其根を張ること強く其茎(くき)を伸(のば)すこと長し、故に偽信者は信者の間に跋扈〔ばつこ〕し、其教師となり、長老となりて権力を揮(ふる)ふ、而して之を見て農事に経験なき者は驚いて曰ふ、主よ、汝は畑に良き種を播き給ひしにあらずや、毒麦は何処より来りし乎、我等往きて之を抜取(ぬきと)り火にて燬(や)くべきや、と、然しながら経験に長(た)けたる農夫は之に答へて曰ふ、否な、之を為す勿〔なか〕れ、恐らくは汝等毒麦を抜かんとして麦をも亦抜かん、収穫の時まで俟つべし、其時麦と毒麦と判然と相分れて、而して、其時我は刈者(かるもお)を遣(おく)り、麦は之を我倉(わがくら)に収め、毒麦は之を束(たば)となして火にて燬かん
と、主従の此対話に麦を信者と読み、偽信者をジザニヤ草即ち毒麦と読んで、霊界の事実は物界の事実を以て正確に言表(いいあら)はさるゝのである。
○現時(いま)は人世の夏である、草木繁茂して、善樹と悪樹と、麦と毒麦とを区別するに難き時期である、今や山の雑木も香柏と異ならざる緑(みどり)を装(よそお)ひ、勢(いきほい)を誇り、権(ちから)を揮ふ時期である、然れども夏は永久に続かないのである、秋は遠からずして来る、其時樹は其結ぶ実を以て知らるゝのである即ち善樹は善果を結び悪樹は悪果を結び、森の香柏は常盤(ときわ)の色を顕(あら)はし、雑木(ざふき)は凋(しお)れて冬枯(ふゆかれ)の淋(さび)しさを示すのである、誠に奇(ふし)ぎなるは秋の顕像力(けんしょうりょく)である、
白露の色はひとつをいかにして秋のこのはをちゞにそむらむ。(『古今集』)
 
○然らば何ぞ憂へん世に偽善者多きを、世は未だ終結(おはり)を告げたのではない、今や猶〔な〕ほ夏の中半(なかば)である、或ひは中半は既に過ぎて秋風既に戦(そよ)ぐ時期(とき)である、結実(みのり)の秋は遠からずして来る、其時主は顕はれ給ひて我等も亦彼の前に顕はるるのである、彼は其時牧者の綿羊と山羊とを別つが如く我等を別ち給ふ(馬太〔マタイ〕伝廿五章卅一節以下を見よ)、其時真(まこと)の信者と偽(いつわり)の信者とは明白に別たるゝのである、而して一方には哀哭(かなしみ)と切歯(はがみ)とがあるに較(くら)べて他方には感謝と歓喜とがあるのである。
○故に憂ふべきは今の世に偽信者の多きことではない、我れ自身の誠実足らずして偽善者の群に加はらんことである、此世の危険は茲に在る、即ち真善と偽善との区別し難きに在る、我れ偽善者たるも善人の如くに己を人に示すことが出来る、此世に在りては人の真偽は其外形を以てしては判別(わか)らない、故に当(あて)にならない者にして人の評判の如きはない、人は外(そと)の貌(かたち)を見、ヱホバは心を観るなり、とある(撒母耳〔サムエル〕前書十六章七節)、今の世に在りては人が正確に他の人の心を観んことは不可能である、今の世は欺くに至て易い所である。
○我等は悪魔に注意すべきである、彼は人々のねぶる間に悪しき種を播いて良き種の成長を妨害する、而して彼れ自身が光明(ひかり)の天使(つかい)の貌(かたち)に変ずるが如くに(哥林多〔コリント〕後書十一章十四節)彼の子供も亦其外貌は能く天国の子供に似るのである、彼は詭計(はかりごと)に富む、彼は最も巧(たくみ)なる悪戯者(いたずらもの)である、彼は世の所謂悪人ではない、彼は世の所謂紳士である、彼に才学がある、威厳がある、然り、時には信仰がある、神学さへもある、彼は一見して善き信者である、
彼が世に現はるるや、アンチクリストとして現はれる、(約翰〔ヨハネ〕第壱書二章十八節を見よ)即ち似而非(にてひ)なるキリストとして現はれる、サタンのサタンたるは彼の外貌、学説、信仰箇条を以てしては判明(わか)らない、両刃(もろば)より利(と)き神の霊を以てするにあらざれば到底彼を看破(かんぱ)することは出来ない。
○茲に於てか謙遜と祈祷との大なる必要が起るのである、サタンの詭計(はかりごと)に罹〔かか〕らざらんが為に、己に欺かれて自身彼の子とならざらんがために、我等は常に醒〔さ〕め、常に警誡する必要がある。
○今の世に大なる危険がある、敵味方と混合する此世に真(まこと)の平和と安心とはない、然れども悪魔は如何〔いか〕に其詭計を逞(たくまし)くするとも神の聖業(みしごと)を毀(こぼ)つことは出来ない、麦は終りまで麦であつて、毒麦は終りまで毒麦である、毒麦は終〔つい〕に麦を化して自己と同じき毒麦となすことは出来ない、主は己に属(つ)ける者を知り給ふとある(テモテ後書二章十九節)、又我羊は我声を聴く、我は彼等を識る、彼等我に従ひ、我れ彼等に永生を賜ふ、彼等いつまでも亡びず、亦彼等を我手より奪ふ者なしとある(ヨハネ伝十章廿七、廿八節)、神は其類に従ひて草と樹とを造り給へりとある(創世記一章十一節)、又土(つち)に属(つ)ける者に凡〔すべ〕て土に属ける者は似、天に属ける者にすべて天に属ける者は似るなりとある(コリント前書十五章四十八節)、即ち天性の根本的変化なる者は無いとのことである、此点に就ては聖書の教ふる所はダーウヰンの唱へし所と全く異なる、聖書は云ふ、時と境遇とは終に物の天性を変ずる能〔あた〕はずと、麦はいつまでも麦である、如何なる境遇に置かるゝも麦である、悪魔の巧妙と毒麦の圧迫とを以てし、之を全生涯の長き間続くるとも、麦を変じて麦以外の物となすことは出来ない、是れ大なる慰藉である、彼等を我手より奪ふ者なしと、善と善人と、義と義人とは神の手に存す、悪魔はその詭計(はかりごと)と抑圧(よくあつ)とを以てするも之を己が有〔もの〕となすこと能はずと。
○然らば我等は毅然(きぜん)として曰ふべきである、主我を助くる者なれば恐怖(おそれ)なし、人我に何をか為さん、と(ヒブライ書十三章六節)、又
我等の心に善業(よきわざ)を始め給ひし者は之を主イエスキリストの日までに全〔まつと〕うすべしと我れ深く信ず、と(ピリピ書一章六節)、悪魔と其子供は強く且つ巧(たくみ)である、然れども、汝等は神より出で又彼等に勝つことを得たり、そは汝等の衷(うち)に居る者は世の衷に居る者よりも大なるに因りて也と(ヨハネ第一書四章四節)、我等は自(みず)から求めて主を信ぜしにあらず、彼に選(えら)まれ、然り彼に強〔し〕ひられて彼に従ひし者であれば、彼は必ず我等を再たび彼の敵の手に附(わた)し給はずと、我等は固く信ずべきである。
○主に選まれし我等は安全である、又我等が主に依〔よ〕りて為す事業はすべて安全である、主が我等を以て播き給ふ良〔よ〕き種は、縦〔よ〕し一時は毒麦の蔽(ふさ)ぐ所となり、生命覚束(おぼつか)なく見ゆることありと雖〔いえど〕も、永生を其中に宿す所の福音の種は、是れ亦永久に消ゆべき者でない、是れ亦何時(いつか)か何処(どこ)かにて生長し、果(み)を結びて主の栄(さかへ)を顕(あら)はす者である、縦(よ)し人世の夏なる現時(いま)の時に方〔あたつ〕ては真理の苗は偽善のそれと外形上何の異なる所なしと雖も、而かも時到れば我等の労は明白に報ひらるゝのである。
汝の種を水の上に蒔(ま)けよ、然らば多くの日の後に汝再たび之を得ん、と智者は曰ふ(伝道之書十一章一節)、又我愛する兄弟よ、汝等堅くして動かず恒〔つね〕に励(はげ)みて主の業(わざ)を務むべし、そは汝等主に在りて汝等の為す所の労働の徒労ならざるを知ればなりと使徒パウロは曰ふた(コリント前書十五章末節)(いにしえ)の詩人も亦我等を励まして曰ふた、涙と共に播く者は、歓喜(よろこび)と共に穫(かりと)らん、其人は種を携(たずさ)へ涙を流して出行(いでゆき)しかど禾束(たば)を携へ喜びて帰り来らんと(詩篇百二十六篇、五、六節)、然らば蒔〔ま〕かんかな、収穫の秋を楽しみて蒔〔ま〕かんかな、毒草茂り、偽善者跋扈(ばっこ)するとも希望を懐いて蒔〔ま〕かんかな。