証(あかし)

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マタイ6:14,15
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

1981年の6月に、夫婦揃って水槽に入って洗礼を受けた。目に見る物しか信じることが出来なかったものが、聖書だけを頼りに目に見えないものに頼って生きようと決心するに至ったのは自分の力ではない、主の一方的な働きの結果である。

母一人子一人の家庭に入ってきた妻は、難しい家庭を自分の力で運営できると信じていたそうだが、事は簡単ではなかった。病気がちの母の面倒を全てまかせて、夫である自分は家庭のためと言いながら仕事にと自分の快楽に夢中になっていて、家事には手を貸そうとはしなかった。妻にとって、憎むべき夫の母の面倒を見ることは嬉しいことではなかったはず。愛することの出来ない義母が最後に「有り難う」と最後の言葉を残して亡くなって、妻は自分の思いの悔いる場を失った。

家庭を顧みない夫との家庭生活の継続に失望した妻は、離婚を考えていた時に、近所で持たれる聖書を中心とした家庭集会に誘われた。そこで妻は、許せない夫と、許して欲しい義母との間で悩む自分にイエス様はこのマタイ6章の御言葉を下さって、妻は救われた。

夫は、日本人は神様の神棚、仏様の仏壇があるから、外国の宗教は必要ないと、頑なに聖書を家庭の中で読むことすら拒否した。しかし、妻の信仰以来変わった妻の態度に夫の頑なな態度は徐々に氷解していった。誕生日にプレゼントとして差し出した聖書を夫は受け取った。

ある朝、誕生日に貰った聖書をぱらぱら見ていた私の目に次の御言葉が留まった。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

家庭の不一致、仕事の行き詰まりと不条理、何のために苦労して働いて来たのだ、と悶々とする茨の道を歩む日々の中にあってこの聖書の言葉は、安らぎをもたらす場所への招き以外の何物でもなかった。

日本人には日本の神がいる、と頑なに聖書を我が家庭に持ち込まれることを拒んでいた自分であったが、妻が聖書を中心とした家庭集会に集いだして、人が変わった事を認めざる負えないほどの変化を示されて、聖書と言うかイエスキリスト信仰の力を如実に示されて、降参した。

自分が結婚以来16年間、変えようとして変わることがなかった妻がイエスキリストによって変えられたと言うことは自分にとって自分の無力さを示されてショックであった。

だから誕生日のプレゼントに送られた聖書も受け取り、何処にその秘密があるのかを探そうとしていた。
エスキリストという神の子の存在は、先ずその父なる神の存在から、信じる必要があったが、この宇宙の調和を知るなら、誰か、ただ一人の設計士が、この宇宙を設計し、作る以外に、偶然には出来るはずはないと知らされた。

「始めに神が天と地を創造した。」という創世記の書き出しの言葉こそ、自分の限られた科学的な知識に照らし合わせても、真実の言葉であると思わされた。無から有を作り出す神、その御子であるなら死人を生き返らせたり、よみがえらせたり出来るのは当然と、聖書の全てに疑問無く、受け入れることが出来た。

聖書は、自分の無知と弱さと愚かさを一つ一つ教えてくれた。まるで鏡のように全ての醜いところを光の中に映し出した。以前は当然のこととしてやっていたことも、聖書を知って以来、どれほどの罪を、悪を行っているかと言うことを知りながら遣っている自分を見ることになった。

その罪のうちでも、もっとも重い罪、すなわち神を神としてこなかった生き方を悔い改めに導いてくれた、十字架のイエス様のみ業を感謝し、神の基に返ってきた。

このイエス様に自分の残りの一生のすべてを委ねたいと思わされて、決心し受洗の機会を待っていた妻と共に洗礼を受けたのが41歳の時であった。

二人の息子は、以前と違って、変わってしまった両親にとまどいながらも、反抗期の出来事を通してイエス様と出会い、主と共に歩む者に変えられた。

家族4人が全て聖書の言葉を共通の価値観として生きて行くことの出来る恵みはこの世の何物にも代え難い。信仰を同じにする物のみで、一つの企業を作ることが出来、イエス様を証し、この世にイエスキリストを紹介することを目的として、イエス様がこの会社を興したのは私が50歳の時であった。

「主の僕しもべ」という、Servants と言う社名を付け、素人の集まりであったが、イエス様はこの企業が成り立つべく仕掛けを作ってくださり、15年間、赤字を出すことなく50人近い社員を養ってこられた。毎朝就業前に信仰者が集まり聖書を輪読し、祈ってから仕事をするという日々は、主への感謝以外の何物でもなかった。

5年前、私は突然、脳梗塞という病に倒れて、左半身の手足に麻痺が残って、行動に不自由が残るが、命だけは取られることなく、生かされ続けることになった。まだこの世で成すべき事を成せと主の命令であるのだろう。

この世の働きも息子に渡し、ただ主にのみ従って生きる事が主の命令のようである。御言葉を伝え、キリスト、救い主、の存在を知らずに苦しむ人々のために生きよ、と言われる主の声をここ最近よく聴く。

マルコ 12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。

12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

一番大事なことを一番にして生きる事こそ主の喜ばれることでありましょう。そこにこそイエス様がこの者を御許に導かれた理由でもあるのでしょう。

主の恵みに感謝は言い尽くせませんが、このブログを通して交わることの出来た姉妹からのご要望に応じて証を乗せてみました。加代姉妹、この証の機会を作ってくださったことに感謝します。

写真:一匹の鯉、まな板に載ると、ピクともしないそうだが、僕もそうなりたい。

参考:キリスト集会に集っています。 http://www.christ-shukai.net/