聖書から

神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々のためには、
神は全てのことを働かせて
益として下さることを
私たちは知っています。

聖書ローマ人への手紙 8:28

そうなんだ、神様を信じる様になると言うことは、神様のご計画によって、信じるようになると言うことで、人が努力や勉強で信仰に入ると言うことではないんだ。よく人は聖書が分からないから信じられないと言うけれど、基本的にそこから違うんだよ。信じると言うことは分かる分からないと別のことなんだよ。「子供のようにならなければ、神の国に入れません」って、イエス様はおっしゃっているように、素直になって丸ごと信じると言うことで、素直にさせて下さるのは、神に選ばれたもの、謙遜にならされたものが信じるようになる。創造主なる神の存在を認められない自分の愚かさ弱さ、罪の多さも教えられて、知らされて、その罪から解放されたいという願望によって神の一人子のイエス様の罪の肩代わりの十字架を受け入れることが出来るようになるのだよ。

この国の人は、「信仰」と「宗教」をごっちゃにしてるんだよ。分かってないんだな、なんにも。
「信仰」は、人が生きるときによって立つところの信じていること、信念、とでも言えばもっと分かりやすいのかな。「宗教」は、人が金儲けのために作った組織、株式会社みたいなもので、洗脳によって、人を教祖の言いなりにしようとする集団。キリスト教だって、宗教そのものでしょうね。何が真実で不変の物かを見極める知性と見識が求められるでしょうね、「信仰」を持つためには。