内村鑑三 ヨブ記の研究ー2 第4 講 老友エリパズ先づ語る

第四講 老友エリパズ先づ語る  第四章、五章の研究(五月十六日)
○約百〔ヨブ〕記四章五章の記(しる)す所は第三章のヨブの哀哭(かなしみ)に対するエリパズの答である、エリパズ等三友人はヨブの不信的哀哭に接して彼等の推測の過(あやま)たざりしを知り、半ば彼を憐むの同情心より半ば彼を責むるの公義心―神に対する義務の感―よりして彼に向つて語らんとするのである、そしてエリパズは最年長者の故を以て先づ口を開き、其長き人生の経験に照らしてヨブを諭〔さと〕さんとするのである。
 
○彼れ先づ口を開いて云ふ「人もし汝〔なんじ〕に向ひて言詞(ことば)を出(いだ)さば汝これを厭〔いと〕ふや、さりながら誰か言はで忍ぶことを得んや」と、以て神の道のためには弁ぜざるを得ずとの彼の意気込を知るべきである、而〔しか〕して三節より五節までに於〔おい〕て彼は先づヨブを責めて云ふのである、汝曾〔かつ〕ては人を誨(をし)へ人を慰めたるもの今禍(わざはひ)に会すれば悶(もだ)え苦しむは何の態(ざま)ぞと、如何〔いか〕にも傍観者の言ひさうな冷かな言葉である、苦難にある友に向て発する第一語に於て斯〔か〕く訶詰(かきつ)の態度を取るは冷刻と云はねばならぬ、併〔しか〕し是れ彼の罪と云ふよりも寧〔むし〕ろ当時の神学思想の罪である、此事は六節以後に於て益〔ますま〕す明白となるのである。
 
○六節に曰ふ「汝は神を畏(かし)こめり、是れ汝の依頼(よりたの)む所ならずや、汝は其道を全うせり、是れ汝の望(のぞみ)ならずや」と、これ特に注意すべき語である、茲〔ここ〕に当時の神学思想が遺憾なく表はれて居るのである、エリパズはヨブの信仰の性質を語りて誤らざりしのみならず、エリパズ自身も亦〔また〕(他の二友も勿論)此信仰の上に立つて居たのである、我れ神を畏るゝ事に依頼(よりたの)み我れ神の道を守る事に望を置く、我が敬虔 我が徳行これ我が依頼む処 我が望のかゝる所なりと、即ち我の無価値を認めて専ら神に依頼むにあらず、我の信仰と行為に恃(たの)みて其処に小なる安心と誇りの泉を穿(うが)つのである我信仰の純正と我行為の無疵〔むきず〕とに恃〔たの〕む、これ何の時にもあるオーソドクシー(所謂〔いわゆる〕正統教)である、ヨブは此心理状態にありし故に災禍来りて忽〔たちま〕ち懐疑の襲ふ所となり、エリパズ等は此状態を出でざりし故にヨブを慰め得なかつたのである、ヨブの苦闘は要するに此誤想より出でゝ新光明に触れんが為の苦闘である、即ち凡(すべて)の真人の経過する苦闘である
 
○七節―十一節も亦右と関聯せる思想として約百記解釈上注意すべきものである、「請ふ想ひ見よ、誰か罪なくして亡びし者あらん、義(ただし)き者の絶たれし事いづくに在りや、我の観(み)る所によれば不義を耕へし悪を播〔ま〕く者は……みな神の気吹(いぶき)によりて滅びその鼻の息によりて消え失す」と云ふは是れ亦実に当時の神学思想である、罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至ると云ふのである、即ち人の成敗栄辱を以て其人の信仰及び行為の善悪に帰するのである、エリパズは斯くの如き既成観念に照してヨブの場合を見たのである、故に見るに忍びざるヨブの惨落(さんらく)を以て何か隠れたる大罪の結果ならんと思ふより外なかつたのである、故に斯く語りて明かにヨブを罪に定むると共に彼をして其罪を懺悔〔ざんげ〕せしめて禍より救はんと計つたのである、深切なる、併し冷刻なる友よ! (十節十一節は獅子の猛きも亡ぶることあれば不義者の亡ぶる如き当然のみとの意を表はしたのである、茲に獅子、猛き獅子、少(わか)き獅子、大獅子、小獅子と五種の獅子を記してゐるが原語に於ては孰〔いず〕れも別々な語を用ひてあつて老少種別等に応じて種々の名の付けられてあつた事が分る、これ獅子が比較的人家に近く棲息〔せいそく〕してゐた時代に於て人々が此動物の習性を熟知して居たことを示すものである)
 
○十二節―二十一節は有名なる幽霊物語(ゆうれいものがたり)にして文学的立場より見てシェークスピヤの悲劇マクベス中のそれと比肩すべき者と云はれて居る、是れエリパズが天地闃(げき)として死せるが如き深夜に於て或霊に接しその語りし語を茲に取次いだのである、これ彼の実験談か或〔あるい〕はヨブを諭さんための技巧なるか、何〔いず〕れにせよ斯〔かか〕る演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは真率に於て欠くる所ありと云はねばならぬ、しかし乍〔なが〕ら斯く描き出す時は聴者の心に深き印刻を与ふ事は云ふまでもない。
 
○而して彼が霊より聞きし言〔ことば〕の主意は「人いかで神より正義(ただし)からんや、人いかで其造主より潔からんや、……是は(人は)朝より夕までの間に亡び顧る者もなくして永く失逝(うせさ)る」と云ふにある、人の神より潔からざること、人命の寔〔まこと〕にはかなき事―これをエリパズはヨブに告げんとしたのである、即ち彼は人の罪と弱きとをヨブに想起せしめて自〔みずか〕ら正しとする彼の反省を促(うなが)し、以て彼を懺悔(ざんげ)の席に坐(すわ)らしめんとしたのである、普通の道徳家の為す所である。
 
○エリパズの語は尚〔な〕ほつゞいて五章に記されてゐる、二節―七節は愚者の必滅を説く、けだし災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である、「災禍(わざはひ)は塵より起らず艱難(なやみ)は土より出でず」と六節にあるは、災禍艱難の理由なくして起るものにあらずして必ず相当の原因ありて神より下し給ふものとの意である、そして七節の「人の生れて艱難(なやみ)を受くるは火の子の上に飛ぶが如し」とは火の子が上に飛ぶを本性とするが如く人の艱難を受くるは其本質上免かれ難きことであるとの意である、いづれも是れエリパズの抱ける既成観念の発表である。
 
○進んで八節に於て「もし我ならんには我は必ず神に告〔つげ〕求め我事を神に任せん」と云ふ、これヨブの信仰の不足を責めた語である、そして九節―十六節に於ては美しき言辞(ことば)を以て神の異能を描いてゐる、天然と人事に対する神の支配は実に鮮かに書き記されてゐる。(十節に雨を地に降らし水を野に送りとありて、之を以て神の不思議なる業の一としたる如きは、沙漠の住民の立場としての見方であつて約百記の舞台を知るに足る語である)
 
○十七節以下はエリパズの艱難観として注意すべき所である、十七節に曰ふ「神の懲〔こら〕し給ふ人は幸福なり、されば汝全能者の儆責(いましめ)を軽んずる勿〔なか〕れ」と、彼は人に臨む艱難を以て罪の結果と見、従〔したが〕つて之を神よりの懲治(こらしめ)と做〔な〕たのである既に是れ懲治である、即ち同一の罪を重ねざらしめんがための警〔いまし〕めである、されば是れ愛の鞭〔むち〕ある、故に若(も)し彼にして一度悔改〔くいあらた〕めんかその禍は取除かれ其上尚ほ神の保護と愛抱は豊かに下るのである、「神は傷(きづつ)け又裹(つつ)み、撃ちて痛め又その手をもて善く医(いや)し給ふ」のである、故に懲治(こらしめ)を受けたる者は饑饉〔ききん〕に於ても救はれ戦に出でゝも死せず、地の獣にも襲はるゝ事なく、天地万有と相和〔やわら〕ぐに至り、衣食住に於て欠くる所なく、子孫相つゞいて此世に栄え、長寿の幸福を享受するに至ると―是れエリパズの語る所である、この観念もとより完〔まつた〕きものではない、併し乍ら慰藉の語として慥〔たし〕かに貴きものである、富貴繁栄長寿等の此世の幸福を以て神の恩恵の印(しるし)と做す見方は依然として存すれど、患難を以て懲治(こらしめ)と見、この懲治に堪えし者の上に各種の恩恵相重なりて下るを説く辺(あたり)は、文も想も相伴つて美〔うる〕はしと云ふべきである、然〔しか〕り是れ慰藉の言として慥かに貴きものである。
 
○以上を以てエリパズの第一回演説は終つたのである、その内容について考察を下す前に此場合の事を今日の事
に喩〔たと〕へて考ふるは甚だ便利である、先づヨブを以て今の教会の信者とせんに彼れ信仰及び行為に於て欠くる所なく模範的信者として教会員の間に大に推称せられ、その家また富み且〔かつ〕栄えて居た、依て教会員等は彼の栄達を以てその良信仰の賜物なりと見做してゐた、然るに何事ぞ一朝変事起りてヨブの繁栄忽ち消え失せ、身は零落して乞食の如く、体は人の厭ふ病毒の犯す所となつた、教会員等呆然〔ぼうぜん〕として為す所を知らず、一人として其所由を解し得る者がない、凡ての会合は彼に関する噂〔うわさ〕又は批評を以て充たさるゝに至つた、彼の如き篤信家にも斯かる大災禍の臨むは神の存在せざる証拠にあらざるかと疑ふ者さへ現はれた、或は神は存在すれど必しも愛の父にあらざるならんなどゝ云ふ者もあつた、併し大多数の賛成を以て全会の輿論となつたのは、彼が何か隠れたる罪を犯したゝめに此大災禍が神より下つたのではあるまいかと云ふ老牧師の推測であつた、茲に於てか代表者数名を選びてヨブを見舞はしめ其痛苦を慰むると共に其罪を懺悔せしめて、再び神の恩恵に浴せしめんとの議が全会の賛成を得た、斯(かく)て三人の委員が挙げられた、甲は老牧師エリパズ、乙は壮年有能の神学者ビルダデ、丙は少壮有為の実務家ゾパルであつた、三人到り見ればヨブの実状は思ひの外に惨憺〔さんたん〕たる有様であつた、彼等は彼等の推測の誤らざりしを今更の如く感じた、一方ヨブはまた彼等の沈黙の中に彼等の心中の批難を知りて悲歎一時に激発した、然るに彼等はヨブの哀哭の語に接して其言辞に囚へられて其心裡〔しんり〕を解する能〔あた〕はず、益〔ますま〕す彼等の推測の正当なりしを悟り、茲にヨブを責めて其私(ひそ)かなる罪を懺悔せしめ以て彼を旧(もと)の恩恵の中に引き戻さんと計つたのである、そして年長と経験との故を以て老牧師エリパズ先づ口を開き、全教会の輿論を提唱して第一回の訶詰(かきつ)を与へたのである、―かく考へて此場合を今日に活かすことが出来るのである。
 
○而してエリパズの語りし処は如何、その中に美はしく且正しき思想を含(ふく)まざるにあらず、されど要するに是れ当時の神学思想の発表たるに過ぎない、即ち災禍は罪のために起りしもの即ち上よりの懲罰であると云ふのである、而して事実かくの如き場合少からざるはエリパズならぬ我等も亦人生に於て数多(あまた)たび観取する処である、然らば何故ヨブは「然り!」と之に応じて其罪を告白しなかつたか、何故六章に於て其友の推定に対して激しき憤懣を放つたのか、彼の此憤懣こそ寔〔まこと〕に愚なるものではあるまいか?
 
○否〔いな〕然らず、罪は災禍の源たることあれど災禍は悉〔ことごと〕く罪の結果ではない、もし然りとせばキリストは如何、パウロは如何、その他多難の一生を送りし多くの優秀なる基督者は如何、苦難迫害を以て其一生涯を囲まれたるキリストは彼が犯せる罪の結果を受けたのであるか、罪とはキリストと全くかけ離れた者ではないか、パウロ以下多くの信徒は勿論イエスの如き聖浄完全の人ではない、併し乍ら彼等の受けし苦難災禍がその罪の結果でないことは明々白々の事実ではないか、然らば凡て人の受くる災禍苦難をその犯せる罪の結果と見ることは出来ない。
 
○苦難に三種あるを我等は知る、第一は罪の結果として起るものである、これ神の義に於て当然然るべきもので
ある、第二は神より人に下りし懲治(こらしめ)としての苦難である、これ愛の笞(むち)である恵の鞭である、これまではエリパズも知りヨブも亦認めてゐる、然るに茲にヨブもエリパズも他の二友も知らぬ苦難がある、これ第三のそれであつて即ち信仰を試むるために下る苦難である、故に此苦難に会するは特に神に愛せらるゝ証左である、浅き人は第一のみを知り、これより進める人も第二を併せ知るに止まる、しかし最も注意すべきは第三である、此三を併〔あわ〕せ知らずして苦難は解らない、ヨブは第三を知らぬために苦むのである、故に彼の苦闘は此新原理を発見せんがための苦闘である、そしてエリパズ等三友の言辞の肯綮(かうけい)に当らず且その同情の不足せるは是れ亦第三種の災禍を知らぬからである、そしてヨブの場合が此第三種のものであることは第一章の天国の場が之を暗示してゐるのである、茲に信仰を試むるための苦難の襲来は予示されてゐるのである、然れども誰人か天国の光景を知らん、茲にヨブの苦みあり三友の迷が在るのである。
○ブレンチウス(Brentius)曰ふ、人が患難に会したる時は其患難を以て其人を審判くべからず其人格を以て其患
難を審判くべしと、けだし患難の意味は人の人格に依て異なるのである、十字架に釘〔つ〕けられし二盗賊はその罪の当然の報としての死である、しかし同じく十字架に釘けられしイエスは其正反対である、故に我等が人の受けし災禍苦難を以て直〔ただち〕に其人を判定するは大なる誤である、其人の人格に依て其苦難の意味を制定すべきである、苦難にも幾つも意味がある、人により場合によりて異なつてゐる、一様の既成観念を以て凡ての場合を蔽〔おお〕ふことは出来ない、故に艱難を以て人を審判(さば)かず其人格を以て其艱難を審判(さば)くべきである。
 
 
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