内村鑑三 ヨブ記の研究 第5回

第五回(六月二十七日) 第四十二章
 
前回に述べました通りヨブの三友の言に一面の真理はありますけれども、之れ丈けでヨブに臨んだ災難の総〔すべ〕てを解決することは出来ません、是に於て青年エリフは飛入り演説をしましたが之れとてもヨブの心を平和にせしむることが出来ません、でありますから最後にヱホバ御自身が大風の中より語り給ひました、諸君は此ヱホバの言を読んでヨブはどうして満足することが出来たかを疑はざるを得ないでせう、第四十章十五節以下に河馬のことがあります、ヘブライ語のベヘモスといふ語を河馬〔かば〕と訳したのです、第四十一章に至て河馬〔かば〕のことを措〔お〕いて鰐(わに)のことを述べて居ます、これは前にありましたレビヤタンを鰐と訳したのです、河馬も鰐も獰猛〔どうもう〕でありますから当時の人の考にては人間に支配することが出来ないとして居たのであります、尤〔もつと〕も今日では河馬も鰐も動物園に飼養して居ますから其支配は容易であります、併かしヨブの時代は今より三千年も前でありますからかゝる獰猛な動物は人間には支配が出来ないと思はれたのは無理ないことであります、兎に角宇宙万物は人間が支配する事
が出来ないといふ事を示したのであります、艱難が臨んだ理由を如何に哲学的に解釈が出来ましても真の平和が来ないのであります、たゞ神の愛の御顔を拝し得声をきいて始めて総ての疑問が氷解し真の平和が来るのであります、ヨブには神の言が解釈が出来ませんでも其愛の御顔を見た計りで総てが解決し真に満足することが出来たのであります、若し之れが仏教の書であるならばヨブに艱難の臨んだ総ての理由を悉〔ことごと〕く説明して然かる後に神が現はれ来るでありませう、基督教は之と異なります、神自身が現はれて直接に語り給ふのであります、そうしてそれで万事の解決がつくのであります。
第四十二章一―六ヨブより此言を聞かんが為めにヨブにかゝる大災難が臨んだのです、此言を以て結着がついたのであります、第七節以下は人情ありのまゝを表はして居ます、正義の報として苦難が去り幸福が来るといふ此世的(このよてき)の応報をよく表はして居ます、こゝには汝の友を『怒る』とありますが之は『悦ばず』といふ位の意味であります、『一ケセタ』は幾何〔いくばく〕にあたりますかよく解かりません、三人の女の名は第一は鳩(はと)第二は情美、第三は富裕繁昌の意味でありますかくしてヨブは旧に倍した幸福を得て所謂此世的にめでたし〱の終りを完〔まつと〕うしたのであります。
ヨブの災難は罪の結果であると詰問した三友の言は雄大であります、エリフの言に至ては大に低下する様に思れますが、併かし其中にも亦真理の真珠があります、ヱホバの言に至ては別に深遠なる真理と称すべき者はありません、ヨブに宇宙万物の支配が出来るや否やを問はれたのであります、ヨブは自分に臨んだ災禍の説明を与へられませんでしたけれども神御自身の御顔を見たので解決が出来たのであります、故に若し此書が信仰の書であるならば第四十二章六節にて終りになることを望むのであります、或人は第七節以下を見ては宗教の書としては不適当であるといひます、私も左様に思ひます、ヨブは第七節以下の如く倍旧の幸福な身になつたとせば、果して三友の言の如く災難は神の刑罰として臨み幸福は神の報として来るといふことに帰着します、此僅か十節ばかりの記事にて約百記が毀(こは)される様な感がします。
此終りの記事を誤解して居る信者が多くあります、約百記の読者が途中を急いで早く結末を知りたがるのは無理ないことであります、此記事よりして或人は不幸に沈んでる人を慰むるに『あなたが今苦痛に悩やんで居るのはたゞ暫〔しば〕らくの間です、やがてヨブの様に再び幸福になります、しかも旧に倍した幸福が来ます』と言ひます、併かしかゝることを言ふのは宜敷〔よろしく〕ありません、こういふことを聞かされる人は実に不幸であります、約百記は第四十二章六節で終て居れば害はないのです、私自身でさへも災難に出会したときはヨブの様に最後には楽になると思ふたことがあります、されどパウロやペテロやルーテルなどの終りは之と異〔ち〕がひます、彼等はヨブの最後の様に幸福にはなりませんでした、全く反対でありました、かゝる点から考へて見ますれば此記事は後世の附加物であると思はるゝも当然であります、でありますから諸君は約百記を読まるゝ時は第四十二章六節で終てるものと思はれんことを望みます、ヨブが果して真に信仰の人であつたならば第四十二章六節の状態は彼に取りては幸福の絶頂であつたにちがひありません、其後の数字上の幸福はヨブに取りては最大なるものではありません、単に附け加へられた幸福に過ぎないのです、ヨブは此最後の数字上の報を以て幸福であると考へたならば彼は
いたづらに苦難の遣損(やりぞん)をしたのであります。
此最後の記事はかく有害である様に思はれますが、併かし我々は此部分を必ずしも約百記から取り除かないでも宜しいと思ひます、旧約聖書には来世の観念は甚だ少ないのであります、神の事を説明するには舞台が余り狭まくあります、ですから神が人間の正義に報ひらるゝことを説明せんには何処(どこ)かに其場所を見出ださなければならんのであります、第十二節にヱホバかくの如くヨブを『めぐみて』とありますが、此『めぐみて』は『報ひて』とは意味が大に異(ち)がひます、若し『報ひて』とあれば三友の言の如くになるのです、『めぐんだ』とあればヨブが神の子として父なる神に対し為すべきことをなした故に、神の方でも父なる神として其為すべきことをなしたのであります、我々が自分の子に対してもさうであります、子が父に対して為した善事に対し父は義理づくめにそれに報ふるのではなく父として恵(めぐ)んでやるのであります、ヨブが沈黙を守り、子として絶対的服従の態度に帰つたときに神は父としての恩恵(めぐみ)の態度に帰つたのであります、前に述べました通り旧約には来世の観念が甚だ微弱であつた故に此世の事を以て来世の事を言ひ表はさなければならなかつたのであります、であるからヨブは綿羊一万四千匹、駱駄〔らくだ〕六千匹……等の数字上倍旧の財産及び子女を与へられ、又た此世の長寿を得て子孫四代までも見ることが出来たともあるのであります、西洋文学ではかゝる言ひ表はし方をPoetic justice ポツチツクヂヤスチスといひます、事実は苦難を以て終てもそれでは気休にならんから何かめでたしめでたしの句切りをつけなければならないのでありま
す、ヨブの此最後の事は事実であるか否かは不明でありますが、之はたとひ事実であつたとしてもヨブに取ては大事な事ではなかつたのであります、諸君がゲーテの『フアウスト』を読まるゝならば其結末の之に彷彿〔ほうふつ〕として居る事を見ます、之れフアウストの此世の苦難の生涯を句切りよくせん為であります、之と同様にヨブに取ては神を見た事が最大の幸福であつたのであります、ヨブが信仰の人であつた以上彼は神を見ないで此最後の幸福丈〔だけ〕で満足が出来なかつたことは明かであります、どんなに家が繁昌しどんなに子孫が殖えたとて一旦失つた子が帰つて来なければ真の幸福にはならないのであります、私し自身の実験から考へてもさうであります、故にヨブは綿羊一万四千匹……得たにせよ其等はヨブの心全体を慰むる根源とならないことは明らかであります、約百記の最
大の目的はヨブに神を示すことであります、人間の最大の幸福は神を見ることであります、第四十二章六節は人間最大幸福の絶頂であります、我々は最愛の妻子を失たにせよ若し神を見ることが出来れば、其神は自分から取り給ふた妻子をば決して悪しくは取扱ひ給はないことがわかるのであります、私は一年の中に五人の実子を失つた人が尚ほ神は愛なりと言ふたことを聞いて居ます、又た或人が信者なる癩病人に向て若し神が真に愛であるな
らば君の癩病を取り去り給ふにあらずや、然るに君が癒えないで益々悪しくなるのは何ういふわけであるかと問ひました、時に其癩病人は『私は現世の此不幸を歎げかない、復活の時には美しい小児のやうな肉体を以て生れるから』と答へたそうです、信仰は事実に勝ちます、五人の子を失ふても尚ほ神を讃美します、癩病に罹〔か〕かつても神を詛はずに来世の希望に輝やいて居ます、ヨブに於てもさうであります、此最後の記事は約百記の記者に必要であつたのでヨブには必要ではありませんでした。次に注意すべきことは約百記の記者はヨブの災難の説明を最後まで為〔し〕ないことであります、約百記を終り迄読
んでも何処に其説明があるか分かりません、併かしよく注意せば其の説明が最初にあることが解かります、之に由て約百記の記者が非常なる大文学者であつたことがわかります、ヨブに臨みし災難は悪魔の所為の結果であるのです、最初天上に於て悪魔はヱホバに向ひ『善といひ義といふももともと勘定づくの事である、ヨブが義〔ただ〕しくあるも矢張り勘定づくである、それが虚偽(うそ)なら試めして御覧なさい』と言ふたのであります、而してサタンとヱホバとの議論の結果、ヨブに大災難が臨んだのであります、而して其結果は神の勝利に帰したのであります、之が即ち説明であります、我々に起る事は此世で説明はつきませんでも天に於て確実なる説明があるのであります天に於ける何かの理由で我々に災難が臨むのであります、之を説明するによき例があります。
英国の一陸軍大将がある時客を晩餐に招待して食事中ふと気が付いて客に向ていひまするには、『私は今夕ロンドン橋上に於て私の子と会ふことを約束してあつたことを思ひ出しましたから、時間が経て居ますけれども今から往て会て来ます』といひますると、客は既に時間が経てるから今から往てもだめでせうから止〔よ〕しなさいと止めました、すると大将は我が子には軍隊的精神を以て命令を厳守すべきことを教へてあるからキツト待て居るに相違ない、と言て馬車を駆て往て見れば果して子は橋上に待て居たそうです、父なる大将は之を見て大に悦び、抱いて馬車に乗せて帰て其客に誇つたといふことであります、そうして其子は父の遅くなつたのは自分には解からないが何か理由があるに相違ない、自分には其理由が解からないでもお父さんは遅くとも必ず来るに相違ないと信じて待て居たそうであります。
ヨブの場合も之に類したものであります、神の事は吾人には解かりません、けれども神は我々を決して悪るくはなさらない、必ず父の善き心を以てなさるに相違ありません、此大将は客に対してどんなに誇こりであつたでせう、之れと同様に神はサタンに対してヨブを誇たのであります、而して此宇宙に善の為に善を為し義の為に義を為すといふ信仰を有する人があることを神が誇り給ふでありませう、此事に就て約百記は明かに説明しては居ませんけれども最初の二章を読めば之を知ることが出来ます。
以上で約百記の梗概を終はりました、まだ述べたい事は沢山ありますけれども之れで一先づ止めてをきます、
此書の偉大なることはお解かりになつたと思ひます、終りの第四十二章を誤解せぬ様御注意を願ひます。
1915大正4821
 
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