内村鑑三 ヨブ記の研究 第3回、第4回

約百記の研究
大正4810  『聖書之研究』181  署名内村鑑三   坂田祐筆記
 
第参回(六月十三日) 第三章―第三十一章
 
前述の如く約百記は六の部分に明かに区分することが出来ます、今日述ぶる所は第二及び第三の部分であります、即ちヨブ対三友人の議論とヨブの独語とであります、ヨブと三友人は交番(かはりばん)に三回宛議論しました、恰も法廷に於ける原告と被告の弁論の様なものであります、弁論はヨブから始まつて而してヨブは三友人の各々に答へたから都合九度したことになります、第三回目にはエリパズのみ極端に論じビルダデは僅〔わず〕かに一言をなしゾパルは一言をもなし得ざるに至りました、是に於てヨブは戦場を全く我ものにして長い独語をしたのであります、前にも申しました通り三人の友人の言ふ趣意は明白であります、神は正義の神であるから正義には幸福を以て報ひ不義には不幸を以て報ゆること、さればヨブに不幸が臨んだのはヨブが不義を犯した明白なる報であること、依て元の幸福なる境遇に帰るにはヨブは悔改めて神と彼等の前に謝罪することであります、彼等三友人はさすが教育ある人々でありますから最初から明らさまにヨブに向て『汝は悪人である』とは言ひません、ヨブが自〔おのずか〕ら自分の罪を悟る様に言ひかけました、我々の場合に於てもさうであります、初めから強くは言はないものであります、然るにヨブには彼等の第一回の言は了解出来ませんでしたから彼等は第二回目に強く言ひ放つたのであります、それでもヨブは悔改めませんから第三回目に老人のエリパズは思切(おもひき)つてヨブは罪悪を犯したと鋭く攻撃したのであります、彼等の考によればヨブに臨みし災難は彼が罪悪を犯した何よりの証拠であるのです、然しヨブは罪悪を犯した覚は少しもありませんからエリパズの極端なる攻撃に対して少しも屈しません、第廿二章はエリパズの最後の言でありますが実に深刻を極はめて居ます、第五節からは強き言ひ方であります、之を見ればヨブは無慈悲な事をした明白な証拠となるのであります、今日の裁判法から見れば何の取る所もありませんけれども、当時の因果応報を信ずる人には唯一の証拠となるのであります、私し自身も亦かゝる経験を持てる友人を知て居ます、かの神癒を信ずる人の病気の解釈は多くは此れであります、人の病気に罹か〔か〕るのは罪悪の結果であるから之を癒す最良の方法は其罪悪を発見して之を除くことである罪が潔まれば病気は癒ると信ずるのであります天理教なども亦さうであります、天理教信者の老には何病気でもなほらぬことはない、病気は神の刑罰であるから罪を悔いて天理王の命(みこと)に献物をすれば癒ると信じて居ます、ある盗賊は重い病気に罹て非常に苦んで居る時に天理教の御(ご)利益(りやく)をきいて罪滅ぼしの為めに今迄盗んだ沢山の金を天理王の命(みこと)に献げたら病気は直ぐに癒つたといふことであります。
ヨブが三友人に対する答を研究すれば非常に興味あることであります、三友の議論は堂々たるものであります、正義には幸福が来たり不義には不幸が来るといふ因果応報の理を自由に振り廻はして居ます、故に議論ではヨブは負くるのであります、論理からいへばヨブの議論は支離滅裂であります、三友人は曾てヨブが健康の日に彼等に語つた言を捕へ来て主張しますからヨブには一言も弁解の余地はないのであります、然かしヨブには之れぞと
いふ思ひ当たる罪悪の覚えがありませんからエリパズが沢山に並べた罪悪に対しては其誣告〔ぶこく〕を大に怒からざるを得ないのであります、ヨブは神は正義には幸福、不義には災禍(わざわい)を以て報ゆることは大体に於て信ずるも、かくも大なる災禍が臨んだことは全く神に対する不義の結果であると信ずることは出来ないのであります、ヨブの言は多くは感情に走て居ますから或時は友人を罵〔ののし〕り或時は神に不平を言ひ、議論としては筋目(すぢめ)は立(たつ)て居ません、然し約百記の作者は能く人生を知てる人であります、議論の勝利は筋目が立てるか立てゐないかにあるのではないのです、論者の深い経験は勝利を与ふるものであります、この作者は之をよく知て居ます、多分此作者は大に人生の経験に富み、加ふるに大なる天才であつたことが察せられます、議論の立場としては論理上の事は敵に凡〔すべ〕てを与へ自分はたゞ経験といふ一事を握て居るに過ぎないのであります、人の深き良心の声は犯すべからざるものであります、人を議論でやりこめたことは勝利にはなりません、吾人には論理で圧服することができないものがあ
るのです、ルーテルは羅馬〔ローマ〕法王から派遣せられた当時第一の神学者エックと対立して議論したときに、論理では立派にエックの為にやりこめられました、然かしルーテルは負けたけれども勝ました、之れルーテルは論理を以て侵すことの出来ない信仰の実験を深く内心に持て居たからであります、かくの如くヨブも議論では負けたけれども実験で勝つたのであります、猶太〔ユダヤ〕人は元来律法主義論理主義であるから羅馬〔ロマ〕書や加拉太〔ガラテヤ〕書にあるパウロの議論を見て論理上甚だ価値がないものとして冷笑して居ます、論理上より見れば左もあることであります、パウロの議論には整然たる論理がありませんけれども彼には論理を超越した実験があるのであります、その実験が彼を
して最後に勝たしめたのであります今日の語で云へばヨブは実験家で三友人は神学者であります、我こそは第一流の神学者であるとの自信を有する舶来の神学博士は議論では実に堂々たるもので精神界の事は解決出来ないものはないと信じて居るのです、若し試みに悲哀に打沈める老婆が来つて精神上の煩悶〔はんもん〕を打明けその解決を求めまするときには、彼神学博士は贖罪〔しよくざい〕の原理は何〔ど〕うの神の摂理は何うの、ルーテル曰〔いわ〕く、アウガスチン曰〔いわ〕く……と
其煩悶の原因を堂々と論ずるも、其老婆には恰も雲をつかむ様なもので何の解決にもならないのであります然し信仰の実験家は此老婆に解決を与ふることが出来るのであります、学校に学んだ人と実験家とはかやうな区別があるのです、実験は学問以上であります、諸君の中の極く年の少(わか)い人でも世界の大学者も解からぬ大真理を実験することがあります、エリパズの極端な攻撃は彼をして遂にヨブに対しては『汝は悪人である』と言ひ放たしめました、今の宣教師は悪意を以て横暴を極はむるのでありませんが、其神学をたよりそれで万事を解決せんとするのであります、『一寸の虫にも五分の魂あり』境遇を異にし生活を異にする日本人には、彼等宣教師が解釈の出来ざる事があるのであります、西洋の宣教師が何百人来て居るも日本人を教ふることが出来ないのは彼等は我等のやうなる内心の実験を解することが出来ないからであります、実(まこと)に前に申しました通り三友人は当時の神学者でヨブは実験家であります、ヨブの言葉の中で私の好む所の者を諸君に紹介しませう。
第六章十四―廿節之は有名な言葉であります、日本の文章では意味はよく表はれませんが英文で読めば尚〔な〕ほよく解かります、パレスチナやアラビヤに於ては川に水のあるのは春の雪融(ゆきどけ)の時節丈けであります、故に旅人に取て最も慕はしいのは水であります、今旅人は雪融けして未だ間もないから、あそこに見ゆる渓川(たにがわ)には必ず水があるに違ひないと信じて行て見れば水は絶え果てゝないから旅人の失望思ふべきであります、(茲に『テマの旅人』といひましたのは多分テマン人エリパズに当て付けて言ふたのでありませう)、ヨブは彼等三友人を渓川の水の様に慕ふたのであります、即ちヨブは彼等から慰を得やうとしましたが遭ふて見れば沙漠の川のやうで何の慰めにもならないのであります、私自身も亦時には諸君に左様に思はるゝことがあるかも知れません!
第十六章二節此日本訳も不完全であります日本訳で読めば汝等は我を慰めんとして却て我を困まらせるものであるとの意味でありますが之れでは余まり意味がなさすぎます、英訳で読めば更に強く深く響びきます。
第十七章二十節之れ実に心臓を抉(え)ぐらるゝ様な言葉であります、而して何んとも言ひ得ない情がこもつてゐます、ヨブは彼等に絶望して涙を以て神に向つたのであります。
第十九章此章はヨブの思想の絶頂であります、彼は友人を罵て居る斗〔ばか〕りでなく廿一節では友の同情を呼び求めたのであります、『我が此苦痛は人が我を打た為ではない神が打たのだから同情して呉れ、無益な議論などは止(よ)して同情して呉れ』といふ深刻なる叫びであります、之を以て見ればヨブの友人に対する態度は始終変て行くのがわかります、之れ冷静な学者から見れば冷笑に値するに過ぎません、然かし慰安を得んとするの真情は茲にあるのです、批評家の立場は議論でありますけれどもヨブは茲に議論するのでありません、ヨブは感情に訴へますから恰も川が洪水を漲(みなぎつ)てゐる様なものでありますヨブはかく変て行く間に益々神に近づきつゝあり、また彼の思想は愈々聖められつゝあるのです、彼は責めらるれば責めらるゝ程神に近づいてゐるのであります、苦痛にあふ程、責められる程光明に向ひつゝあるのであります、之れ実に動かすことの出来ない実験の結果であります側方(わき)から見ればヨブは寄る所の港のない船の様に見えますけれども実はさうでないのであります、彼は益々安全な港に向て進みつゝあるのであります、愈々〔いよいよ〕近く光明に向て居るのであります、十三節にある様に不幸連続し終
〔つい〕に最も厭〔いと〕ふべき癩病に罹かつた時は誰れでもこんな考になるのでありませう、廿三節―廿四節の『我言の書き留められ鉄の筆と鉛とをもて……』はヨブが苦痛の絶頂に達して何にたとへん様もないから自然に出た言葉であります、ヨブは苦痛の此の絶頂に達して神の光に接したのであります、神は確かに現はれてヨブの為に弁護して下
さる仮令此肉の身は朽果てゝも自分は神を見奉ることが出来る、神を友人として見ることが出来る神を救主として仰ぐことが出来るとの確信に達したのであります、是を以て見ればヨブはキリストより千年も前でありますけれども自〔おのずか〕らキリストを望んだことがわかります、信仰はキリストに至て絶頂に達するのであります、信仰の進歩は非常に値(あたひ)貴(とうと)くあります、信仰の進歩には貴(たう)とき代価を払はなければなりません、ヨブが信仰の極致に達したのは実に言語に絶した苦痛の代価を払ふたからであります、ヨブは先生から教へられたのではありません、苦痛の絶頂に達し自分自身弁護することが出来なくなつたからどうしてもキリストの様なお方が出でゝ彼を弁護して下さるといふ信仰に達したのであります 彼等友人には之が解からなかつたのであります、ヨブはもう信仰の絶頂に達して或る都を見たのであります、此後は彼は安心したのであります、友人の攻撃に対しても苦痛を感じないのであります、第十九章は約百記の絶頂で真に荘絶美大の所であります、神が新らしく見えたからヨブは勝利を得たのであります、議論でなく実験で勝つたのであります、神が見えたから安心が出来たのであります、未だ完全な安心といふことは出来ませんけれども、彼は彼の苦痛に耐へることが出来る様になつたのであります。
第二十九章此はエリパズの乱暴な言に対するヨブの答であります、直接の答ではありませんがヨブが前の健康な時、幸福な時の有様を追想して彼は決して無慈悲な事はしなかつたと言ふことを述べたのであります。
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第四回(六月二十日) 第三十二章―第四十一章
 
第三十二章―第三十七章之はエリフの言であります、ある点から云へば約百記の中で最も興味のない所であると思ひます、ヘブライ語で読んでも面白くないと云ふことであります、言語の使用法も劣等であるし第三十二章前にある様な偉大なものでありません、私は自分で読んで見て余りくど〱しく感じます、でありますから或人はエリフの言は約百記の記者が書いたものでない、前の章と比べて余りに変化が著(いちじる)しいから多分後の人が書き加へたものであらうと言ひます、併かし私は之は約百記の中で矢張り大切な部分を占めて居ると思ひます、他の所に比較せば極めて平凡でありますけれども、よく熟読せば中々大切であることが解かります。
エリフは青年であります、ヨブ対三友の議論を立ち聴きして居たのです、三友がとう〱ヨブにやり込められヨブは議論の戦場を独占してるのを見てエリフは大に憤慨したのです、両方共に言ふべき事があるのに沈黙したのは心得がたしと感じて所謂飛入演説(とびいりえんぜつ)をしたのであります第三十二章四節は大に東洋流であります、第八節は有名な言であります、第九節はあてこすつた言でありますが此場合には適切であります、『私はつまらない一青年であるけれども神より智慧を貰(も)らへば言ふことが出来る』といふ謙遜な態度であります、そうしてエリフの言ひ方は三人の友とはちがつて居ます、エリフはヨブに同情をもつて話しました、三友はヨブをはげしく攻撃して彼に同情がありませんでした、エリフの言葉も強くはありますが然かし其内に同情があります、彼は何処までもヨ
ブの弁護者を以て任じたのであります、無名の一青年にかゝる同情心を持たせた約百記々者の神学はよく解ります、三人の友は神は正義の神であるから悪人には不幸を下し善人には幸福を与へる、換言せば不幸が臨めば其人は悪人であるといふ何よりの証拠であるからヨブは確かに悪人である罪を犯したに相違ないと主張したのであります、エリフは之に反対して言ひました、人に災難の臨むは悪人を罰する為めばかりではない、他にも目的があるのである、それは神は人に災難を下して其人の弱きことを悟らしめ、又たより大なる不幸が臨まない様に警戒せしむる為である、不幸は罰としてのみ来るものでない、人は傲慢にならんとした時に神は其人に苦難を下して其不遜を悟らしめるのである、其人の傲慢を其儘に打棄てをけばそれが為めに終には霊魂までも失ふに至るから彼を警戒する為めに災難を下さるゝのである、三友の言は短刀直入でありますがエリフの言はそうではありません善人にも災難が来る。然かしそれは彼により大なる災難が来ない為めであると、之れ実に大なる神学思想であります、同情はより善き知識の源であります 若し私が非常な災難に遭ふて困まつて居るときに三人の教会の神学者が私を慰める為めに来たと仮定せば、是等の神学者は三人の友がヨブに対した様に私をやり込めなければ止まないでありませう、そうして彼等の言ふことは私には何の慰めにもならないのであります、然かし私の家に居る女中か書生でありましても私に対する大なる同情を以て語りまするならば、其言ふ所は神学者以上の言をいふのであります、エリフの言ふ人に災難の臨むはより大なる災難が臨まない為めであるとは大なる真理であります私共が盗難に遭ふたときに、之に警告を加へられてそれよりもより大なる盗難を免かるゝことが出来たことを感ずることが屡々(たびたび)あるのであります、病気に罹かつ時などもさうであります、吾人に取て最大の災難不幸は神を見失ひ永遠の生命の信仰を失ひ、それに対する欲求さへもなくなる事であります、吾人に之よりも大災禍はありません、我々はかく神を見失ふ様な大不幸が来ない様に常に祈るのであります、以上はエリフの思想の第一であります。第二は災難を右の様に考へてそれでも解決がつかないときは、人は凡て神を解決することが出来ないものであるから神の命令は之を解することが出来んでも絶対に彼に服従しなければならないといふことでありますエリフの長い言葉の中で有名なるは第三十三章十三節―三十節であります、以上述べました二つの事を念頭に置いて読めば了解することが出来ます、其第十三節はエリフの第二の思想であります、人生は余まり困難(むづか)しく込み入て居るから吾人に起る凡ての事の理由を残らず見出すことが出来ないのであります、信仰の浅い人は吾人に起
る事を直〔ただち〕に説明します、あの人はかくか〱の悪事をしたからあの不幸が臨んだ、かの人はかく〱の善事をなしたからかの幸福が臨んだと。
第三十三章二十三、二十四節は半分解かつて半分解からない様な予言であります、之〔これ〕神が肉体となつて我々人間の間に下り給ふ即ちキリストの現はれ給ふ予言でありませう、デリツチ氏の如きはさう言ふて居ます、私もさう思ひます、一の仲保者が神と人との間に立ちて二者の和合を計かり人の神に対し奉るべき態度を教へて下さるならば神は人を赦〔ゆる〕して下さると言ふのであります、吾人と神との間にかゝる友人が来て二者の和合を計かるならば吾人に真の平和が臨むのであります、然かしかゝる仲保の役を務むるのは人間では出来ないのであります、真の仲保者は神御自身でなければなりません、エリフは茲に彼れ自身以上即ち神なる仲保者の事に就て言ひ得ることは明であります、吾人の煩悶の最後の解決は人間同志では出来ません、イエスキリストは最後の解決を与へて下さいます、実はヨブに臨める苦難はキリストに臨める苦難を代表せるに過ぎないのであります、ヨブに臨める苦難の説明はキリストに臨める更に大なる苦難の説明であります、神は仲保者によりて吾人を贖〔あがな〕ひ幸福を奪回(とりかへ)して下さるのであります、然かし此場合吾人の肉体が健康になり財産はもとの様に沢山になつたとて幸福が奪回(tおりかへ)されたといふことは出来ません、仲保者によりて神より赦されたときは健康以外財産以外に吾人に幸福が来たるときであります、要するに苦難(くるしみ)はより大なる苦難に対する警告であります、さうして其事の解釈が出来なくとも神のなし給ふことであるから服従せよといふ是れがエリフの言の大意であります、最後の解決は神が我々に与へ給ふのであります、今一の比喩(たとへ)を以て御話ししませう茲に一人の父に五人の子があります、第四男は孝行者で家の誇であります、然るに何〔ど〕ういふ訳ですか分かりませんが父は突然其子を打擲〔ちようちやく〕してひどい目にあはせたのです、其理由は誰にも解かりません、無論其の子に解かりません、又た兄弟達にも解かりません、そこで三人の兄は其打たれた弟の許(もと)に往(ゆ)いてお前がお父さんから打たれたのは何か悪るいことをした為めであるから其の悪事を白状しろ、そうすればお父さんはきつと赦るして下さる、さあ白状せよといふて責むるのです、然かし其弟には悪事をした覚えはないから益々解からなくなります、大に煩悶します、兄等からは攻められるし其理由は解からないし、悲歎やるせなく大に困まつて居る時に、季〔すえ〕の弟が来て打たれた兄に同情して慰めます、其時に彼は少しは慰められましたけれども全然満足せられませんから沈黙して居ます、その時に父自身が現はれます、さきに打擲した理由は別に説明しませんけれども温顔以て其子に接します、すると其子には理由は聞かんでも父の温顔を見た丈けで煩悶(はんもん)は解決します、再び精神に平和が来ます、之と同様に第三十八章に於て神御自身が現はれてヨブに答へ給ふたのであります、此の言は実に偉大な言であります、ヱホバのヨブに対する言の大意は二あります、一、汝は宇宙人生の事は皆了解出来ると思ふや二、よし了解出来るとしても我れ汝に宇宙万物の支配を委〔ゆだ〕ねんに汝は之れに堪え能〔あた〕ふや(無論出来ませんと言はしむる為めである) 神にかく言はれました為めにヨブは一言もなく沈黙したのであります、私は青年時代に約百記を読んで思ひました、三友人の説明は説明にならず、エリフの説明は半説明である、されば最後に神御自身が完全に説明せらるゝことであらふと、然るに神御自身の言は読んでも説明にならないと思ひまして、失望したことがありました、諸君も之を読まれたならばその様に感ぜらるゝでせう。
第四十章三―五ヱホバはヨブの此服従の言をきゝ再び空中より語たり給ふたのであります而してヨブは遂に面〔ま〕のあたりヱホバを仰ぎ見たのであります(第四十二章一―五)、ヨブの悔改と服従と而してヨブが最後に眼でヱホバを見たことが万事を解決したのであります、前述の父に打たれた第四子が最後に父の威厳あり愛のある顔を見て解決が出来たと同様であります、私は諸君に如何に完全なる説明を与へても諸君の煩悶(はんもん)疑問に解決を与ふることが出来ません、諸君自身が心霊(こころ)の眼に神を見ることが出来た時に諸君の大問題の解決が出来るのであります、吾人信仰生活に於て最も大切なることは霊眼を以て神を視ることであります、神を視ることが出来たときに吾人の大問題が解決せらるゝのであります。
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